北条時宗の【死因】や【最後の様子】について、ザッとまとめると、以下のとおりです。
- 北条時宗の死因は【心臓病】または【肺結核】
- 時宗は、新暦1284年4月20日、旧暦弘安7年4月4日に亡くなった。享年34歳・満年齢32歳
- 時宗は1284年3月に発病し、1月後に急死した。時宗は死の間際に出家し、その日のうちに亡くなった
この記事では、北条時宗の最期の様子について、ひと目で分かるようにまとめました。
北条時宗の最期と死因について知りたい方にとって、この記事は必ずお役に立つはずです。
専門サイト「最期と死因ドットコム」へようこそ。
どうぞ、ごゆっくりお過ごしくださいませ。
北条時宗の【死因】と【亡くなった日】
北条時宗の【死因】
北条時宗の死因は【心臓病】または【肺結核】とされています。
亡くなる1月前に発病し、そのまま急死してしまったことから、死因は結核ではなく【心臓病】なのではないでしょうか。
結核になったとしたら、身体はやせ細っていくはずです。
しかし死の直前の様子を描いたと思われる以下の肖像画を見る限り、やせているようには見えません。
死因は【心臓病】の可能性が高いとおもわれます。
わずか18歳で、日本のリーダーである執権の職に就任し、日本の歴史上でも最大の危機である蒙古襲来に立ち向かった北条時宗。
おそらく、元(げん)という史上最大の帝国を相手に戦うことで、想像を絶するプレッシャーが時宗の心身を静かに蝕んでいたのでしょう。
北条時宗が【亡くなった日】と【享年】
新暦・1284年4月20日
旧暦・弘安7年4月4日
享年34歳・満年齢32歳
北条時宗の【最後の様子】は?
北条時宗の最期は、かなり急なものでした。
時宗は1284年3月に発病し、その1月後に亡くなってしまっているのです。
北条時宗が亡くなる3年前の1281年、弘安の役と呼ばれるモンゴル帝国・元軍の襲来がありました。
当時、弘安の役が日本軍の勝利で終わったあと、誰もがモンゴル軍による日本襲来が、また起こると思っていました。
そのため北条時宗も鎌倉幕府の武士たちも、次の大戦に備えて、日本の防衛体制をさらに整えなくてはならないと考えていたのです。
そんな日本がモンゴル軍の恐怖にさらされている最中に、時宗という若きリーダーが突然亡くなったのです。
1284年4月20日、時宗は死の直前に出家します。
当時は出家してから死なないと、極楽にいけないと考えられていたからです。
出家したその日、時宗は亡くなります。
モンゴル軍はその後、日本を攻撃することはなく、徐々に弱体化していきます。
そしてモンゴル軍を撃退した鎌倉幕府も弱体化していきます。
蒙古襲来から約50年後の1333年、時宗の孫にあたる北条高時の時代に、鎌倉幕府は足利尊氏たちによって滅ぼされることとなるのです。
北条時宗の先祖と子孫とは?
北条時宗の先祖は、源頼朝の妻・北条政子の弟である北条義時です。
北条義時の孫の孫にあたるのが、北条時宗なのです。
北条義時は、1221年の承久の乱で後鳥羽上皇の軍団に圧勝し、武士の支配する世を確固たるものとした人物です。
そして北条時宗の孫にあたるのが、北条高時です。
北条高時は、鎌倉幕府の最後の権力者であり、遊びに夢中になって幕府を衰退させた人物といわれています。
そんな北条高時の悪政に怒ったのが、後鳥羽上皇の子孫である後醍醐天皇です。
後醍醐天皇や足利尊氏が鎌倉幕府に戦いを挑んだ際に、鎌倉に攻め込んできた新田義貞によって、北条高時は滅ぼされています。
人気マンガ「逃げ上手の若君」で、足利尊氏に奪われた故郷・鎌倉を奪還するために奮闘する北条時行は、この北条高時の次男です。
余談ですが、大河ドラマ「北条時宗」において、お笑い芸人の宮迫博之さんが、北条義宗という役を演じていました。
その義宗の孫が、鎌倉幕府最後の執権・北条守時という人物です。
この最後の執権・北条守時の妹が、足利尊氏の妻となっています。
その足利尊氏の妻が、室町幕府二代将軍・足利義詮を産んでいます。
つまり、鎌倉幕府は滅んでも、北条一族の血筋は、室町幕府の将軍に受け継がれているのです。
北条義時の最期については、以下のリンク記事で解説しております。
北条氏の子孫については、以下のリンク記事で、詳しく解説いたしております。
参考文献
今回は「元と高麗の侵攻」という本を参考にさせていただきました。
この本は、北条時宗の生涯ではなく、元寇をメインとして記されています。
元寇という日本最大の危機について学ぶのに適した素晴らしい作品であると思います。
まとめ
この記事をまとめますと、以下の通り
この記事を短く言うと
1,北条時宗の『死因』は?
北条時宗の死因は【心臓病】または【肺結核】
2,北条時宗が【亡くなった日時】は?
新暦1284年4月20日
旧暦弘安7年4月4日
享年34歳・満年齢32歳
3,北条時宗の【最後の様子】とは?
北条時宗は、1284年3月に発病し、1月後に急死した。
時宗は死の間際に出家し、その日のうちに亡くなった。
以上となります。
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