2026年の大河ドラマ「豊臣兄弟」の登場人物をまとめてご紹介!
死因と最期そして子孫のゆくえなどを、まとめて解説!
それぞれの人物の詳細は、リンク記事をご覧いただければ、くわしく解説しております。
豊臣秀長とその家族
豊臣秀長
豊臣秀吉の異父弟(同父弟という説もある)。
通称・小一郎または大和大納言。
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豊臣秀長
引用元Wikipediaより
秀吉を若い頃から支え、政治軍事両面で兄を支えた万能の人物。
兄・秀吉は、大友宗麟に対して
「内々のことは千利休に、公義のことは秀長に相談せよ」
と言ったというので、公のことは秀長が取り仕切っていたことがわかる。
交渉能力・調整能力に優れ、揉め事の多い大和国を平和に治めた。
温厚な性格で、配下からの人望も厚かったという。
1590年、秀吉の天下統一を見届けると、翌年に静かに亡くなった。
生きていれば、甥で秀吉の後継者だった関白・豊臣秀次は、死ななかったかもしれないといわれている。
豊臣秀吉
豊臣秀長の異父兄(同母兄という説もあり)。
戦国時代を終わらせた三英傑のひとり。
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豊臣秀吉
ウィキペディアより引用
織田信長につかえ、農民・草履取りという、最下級から天下人まで登りつめた偉人。
人たらしと呼ばれる人心掌握術のみならず、「城攻めの名人」とも呼ばれる万能の名将。
弟・秀長に絶大な信頼を置き、出世の階段をのぼりつめる。
晩年、弟・秀長を失った直後から、精彩を欠き、暴走を繰り返すことになる。
朝日姫(旭姫)
秀吉と秀長の妹。
徳川家康の正室。
通称・駿河御前。
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旭姫
引用元Wikipediaより
織田信長が本能寺の変で亡くなった後、天下の覇権をかけて、秀吉と徳川家康が、小牧長久手の戦いで激突。
局地戦ながら家康が勝利。
秀吉は九州の島津の猛攻に警戒し、家康との講和を模索。
副田甚兵衛という武将の妻となっていた妹・朝日を無理やり離婚させ、家康に嫁がせて、義弟とする。
この講和により家康は屈服し、常に豊臣秀長と同等の扱いを、秀吉から受けることとなる。
朝日姫は、秀吉が天下統一をする直前に病死。
墓所は京都の東福寺にある。
淀殿(茶々)
豊臣秀吉の側室。
豊臣鶴松・秀頼の生母。
織田信長の妹・お市の方と浅井長政の長女。(浅井長政の子ではないという説もある)
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淀殿(茶々)
引用元ウィキペディアより
浅井長政は織田信長と戦い、敗死。
お市の方とともに織田家へ引き取られるが、本能寺の変で織田信長が亡くなると、立場が一変する。
母・お市は柴田勝家と再婚し、茶々も北庄城へ移住。
賤ヶ岳の戦いで、義父・勝家がお市の方とともに自害すると、秀吉に引き取られ、側室となる。
秀吉の子である鶴松と秀頼を産む。(この際に淀城を与えられたため、淀殿と呼ばれる)
秀吉の死後は、秀頼を保護し、家康と戦うも敗北し、大坂夏の陣で秀頼と共に自害した。
豊臣鶴松
豊臣秀吉の次男(側室の南殿が産んだとされる長男・石松丸は夭折している)
茶々が産んだ最初の子。
豊臣秀頼の兄。
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豊臣鶴松
引用元Wikipediaより
秀吉待望の男児で、溺愛されたという。
しかし病弱で、たびたび病を発した。
秀吉が小田原合戦に勝利し、天下統一を成し遂げたあと、弟・秀長が病死。
その半年後、鶴松も3歳という幼さで病死した。
悲嘆に暮れた秀吉は、後継者として甥の豊臣秀次を指名する。
これが、秀次の悲劇の始まりだった。
豊臣秀頼
豊臣秀吉の三男。
豊臣秀長の甥。
母は、秀吉の側室で、お市の方の長女である茶々(通称・淀殿)
![](https://saigotoshiin.com/wp-content/uploads/2022/02/豊臣秀頼-300x234.jpg)
豊臣秀頼
Wikipediaより引用
秀吉が亡くなった時、わずか6歳で豊臣家を継承する。
幼かったため、徳川家康の後見を受けていたが、関ヶ原の戦いで勝利した家康が実質的天下人となり、立場が逆転。
淀殿とともに、家康に抵抗をするも、大坂夏の陣で自害。
100kgを超える巨漢で、小柄だった父・秀吉とは違い、190cmを超える大男だったという。
昭和に大坂城から遺骨が発見され、京都の嵐山・清涼寺に埋葬された。
清涼寺は、光源氏のモデルといわれる源融の山荘があった場所に建立された寺。
織田家
織田信長
秀吉・秀長の主君。
お市の方の同母兄。茶々(淀殿)の伯父。
尾張の大名から、日本の大半を支配する天下人へとのし上がった偉人。
魔王と呼ばれるほど、過激な虐殺を繰り返したという。
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織田信長
引用元ウィキペディアより
尾張国の奉行の家柄から生まれたが、父・信秀が卓越した才能を持った人物で、並ぶものなき財力を保有し、今川・斎藤などの戦国大名と互角に戦ったという。
その後継者だった信長は、徹底した現実主義・効率主義で、領土を次々と拡大していった。
配下の中でも特に有能だった秀吉と明智光秀を、もっとも重く用いた。
本能寺に少人数で宿泊していたところを、もっとも信頼していた明智光秀に裏切られて亡くなった。
その後、光秀を射った秀吉がその天下統一事業を継承。
信長の死から8年後の1590年、天下は秀吉によって統一された。
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前田利家
豊臣・五大老の筆頭。
通称・槍の又左衛門。
織田信長の愛人だったという説がある。
豊臣秀吉の親友で、織田家家臣の時代に、家が隣同士だったという。
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前田利家
引用元Wikipediaより
織田家でも屈指の猛将で、信長からの信頼厚く、親衛隊である赤母衣衆の筆頭をつとめた。
本能寺の変のあと、柴田勝家に味方するが、秀吉に寝返る。
豊臣政権での序列は、豊臣秀長・徳川家康の次に位置していた。
秀長が亡くなると、家康と共に、秀吉を補佐。
秀吉が亡くなると、家康と対決姿勢を見せるが、最終的に屈服して息子の利長を託した。
秀吉が亡くなった翌年の1599年に、あとを追うようにして病死。
明智光秀
織田家家臣の時代、秀吉最大のライバルだった人物。
別名・惟任日向守光秀。
信長の正室・濃姫こと帰蝶の「いとこ」という説があり、妹の「つまき」殿は信長が寵愛した側室だったという。
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本徳寺所蔵の明智光秀肖像:Wikipediaよりパブリックドメイン
信長がもっとも信頼した部下であり、配下の大名(与力大名)の領地もあわせると、240万石という織田家最大の領地を支配した(秀吉は120万石)
近畿方面を担当し、織田信長が住む京都・安土周辺の安全確保も担当した。
しかし1582年、突然織田信長を裏切り、本能寺の変を起こす。
信長を討つことには成功するも、秀吉・秀長の中国大返しに対応できず、山﨑の戦いで敗死。
11日で天下を失ったが、その行動は、のちに「三日天下」や「天王山」の語源を生むことになる。
お市の方
織田信長の妹。
浅井長政・柴田勝家の妻。
茶々(淀殿)の母。
戦国一の美女と呼ばれたらしいが、次女・初がいうには、30歳過ぎなのに20歳にしか見えない若作りの天才だったという。
![](https://saigotoshiin.com/wp-content/uploads/2022/02/お市の方-217x300.jpg)
お市の方
引用元ウィキペディアより
浅井長政に嫁ぐが、信長と長政が対立し、長政が敗死したため、織田家へ戻る。
本能寺の変で兄・信長が亡くなると、秀吉にすすめられて柴田勝家と再婚。
半年ほどの結婚生活は、秀吉と勝家の賤ヶ岳の戦いで終わり、柴田勝家とともに自害。
娘たちを秀吉に託したが、長女・茶々は秀吉の側室となって鶴松と秀頼を産む。
その血筋は、三女・お江の方を通じて、現在の天皇陛下へと受け継がれている。
ちなみに天皇陛下は、秀吉と秀長の姉である日秀尼の子孫にもあたられる。
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織田信雄
織田信長の次男。
信長の許可なく伊賀攻めを行い、大敗し、絶縁されそうになる。
暗君だったといわれている。
![](https://saigotoshiin.com/wp-content/uploads/2023/11/織田信雄-e1701181596213-272x300.jpeg)
織田信雄
引用元Wikipediaより
信長の死後、弟・信孝と織田家の主導権争いを繰り広げて勝利。
しかし秀吉に圧迫され、徳川家康を頼って小牧長久手の戦いを起こし、勝利。
ところが秀吉の圧力に屈して単独講和。
その後、小田原合戦のあと、国替命令に背いて改易される。
秀吉の死後、大坂夏の陣において豊臣軍の総大将に祭りあげられそうになるが、大坂城から退去した。
子孫は江戸時代を生き抜き、現代まで続いている。
豊臣家の家臣その他
石田三成
豊臣秀吉の家臣。
豊臣五奉行のひとり。
秀吉が茶を飲もうと立ち寄った寺で坊主をしており、三度に分けてお茶を出したやり方を褒められて、秀吉の側近へと成長した。
![](https://saigotoshiin.com/wp-content/uploads/2022/02/石田三成-224x300.jpg)
石田三成
引用元ウィキペディアより
豊臣家の武将たちから徹底的に嫌われており、福島正則や加藤清正から襲撃されたこともあったという。
秀吉の死後、関ヶ原の戦いにおいて徳川家康に敗北し処刑された。
その子孫は、津軽へ逃亡し、忍者集団の棟梁として活躍。
現在も子孫が続いている。
ライバルの戦国大名たち
徳川家康
豊臣秀吉のライバルであり、家臣でもあり、義弟でもあった。
豊臣秀長の義弟でもある。
秀吉・秀長の妹・朝日姫の夫。
秀吉・秀長の主君である織田信長の盟友だったが、のちに家臣になった。
![](https://saigotoshiin.com/wp-content/uploads/2022/02/徳川家康-263x300.jpg)
徳川家康
引用元ウィキペディアより
織田信長と同盟を締結し、武田信玄や今川氏真を抑える役割を担当する。
金ヶ崎の撤退戦では、秀吉や秀長を救ったといわれている。
信長亡き後は、天下を巡って秀吉・秀長と対立。
妹・朝日姫を正室として迎え、豊臣秀吉の義弟となり、秀長と対等な関係となる。
秀吉に屈服する前日には、秀長の屋敷に宿泊し、秘密裏に秀吉と対面したという。
秀長の死後は、豊臣家の五大老筆頭となり、秀吉の死後は天下の支配者となる。
のちに豊臣家を滅亡させることとなる人物。
徳川秀忠
徳川幕府二代将軍。
徳川家康の三男。
お市の方の三女・お江の夫。
お江とのあいだに生まれた長女・千姫は、豊臣秀頼の妻。
![](https://saigotoshiin.com/wp-content/uploads/2022/02/徳川秀忠-300x287.jpg)
徳川秀忠
引用元ウィキペディアより
家康の後継者として、二代将軍となる人物。
秀吉の諱である秀の一文字と、祖父である松平広忠の忠の文字を受け継ぎ、秀忠と名乗った。
真面目な為政者であり、父・家康も、その政治能力を評価していた。
真田昌幸・信繁(幸村)親子に翻弄され、関ヶ原の戦いに遅刻。
大坂夏の陣では、家康が救おうとした秀頼と淀殿の命を、強引に奪ったという説がある。
足利義昭
室町幕府15代将軍。
足利尊氏の末裔。
明智光秀の仲介で織田信長を頼り、京都への帰還を果たし、征夷大将軍に就任した。
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足利義昭
引用元ウィキペディアより
信長の協力を得て、室町幕府の再興を果たすが、のちに政治方針の違いから、信長と対立。
京都から追放されて室町幕府が滅亡すると、毛利家を頼って信長と敵対。
本能寺の変で信長が亡くなると、秀吉の相談役となる。
1597年、秀吉が亡くなる前年に、朝鮮出兵を無理強いされ、九州への長旅が祟って、体調を崩して亡くなった。
武田信玄
甲斐(山梨県)を支配した戦国大名。
戦国最強と呼ばれた知勇兼備の名将。
織田信長や徳川家康がもっとも恐れた猛将。
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武田信玄
引用元ウィキペディアより
1572年、足利義昭の要請に応え、西上作戦と呼ばれる織田信長討伐作戦を開始。
三方ヶ原の戦いで、徳川家康に圧勝するも、京都まであと一歩のところで病死。
後継者となる武田勝頼に対して、宿敵だった上杉謙信を頼れと遺言したという。
胃がんで亡くなったという説が一般的だが、山梨県特有の寄生虫が死因という説もある。
武田勝頼
武田信玄の四男。
母は、諏訪頼重の娘・諏訪御料人。
元々は、母の実家である諏訪家を継承するはずだったので、諏訪四郎勝頼と名乗っていた。
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武田勝頼
引用元ウィキペディアより
長男・義信が謀反を起こして処刑され、次男は盲目、三男は夭折したため、武田家を継承した。
信長から「油断ならない武将」と呼ばれた猛将であり、武田の版図を最大に広げた。
しかし、織田・徳川・北条の三者と敵対し、猛攻を受けて敗北。
天目山において、息子の信勝に家督を譲って自害した。
上杉謙信
越後の大名。
通称・越後の龍。
無類の戦上手で、軍神と呼ばれた。
![](https://saigotoshiin.com/wp-content/uploads/2022/02/上杉謙信-245x300.jpg)
上杉謙信
引用元ウィキペディアより
宿敵・武田信玄を相手に、川中島の戦いで五度にわたって死闘を繰り広げた。
織田軍の柴田勝家を相手に、手取川の戦いで圧勝。
「織田軍団は弱い」
という余裕の言葉を残した。
秀吉は、この戦い直前に柴田勝家と喧嘩して戦線を離脱したというが、謙信の強さを恐れて逃亡したのかもしれない。(また一説によると、秀吉は逃亡などしておらず、敗退した柴田軍を逃がすため、殿を務めたという)
食事中にライバル武田信玄の死を聞き、お椀を投げ捨てて泣いたという。
トイレで倒れ、意識不明となって亡くなった。
その後、上杉家は景勝と景虎という、二人の養子によって家督争いが起き、謙信の甥・景勝が勝利。
上杉家はその後、豊臣秀吉に屈服した。
浅井長政
織田信長の義弟。
信長の妹・お市の方の夫。
茶々・初・江の、浅井三姉妹の父。
![](https://saigotoshiin.com/wp-content/uploads/2022/02/浅井長政-217x300.jpg)
浅井長政
引用元ウィキペディアより
織田信長と同盟を締結するも、信長を裏切って、敵対することとなる。
朝倉義景・武田信玄・比叡山延暦寺・石山本願寺と協力して、織田信長包囲網を形成するも、武田信玄の急死で包囲網が崩壊。
小谷城に籠城して対抗するが、信長の猛攻に敗北して自害。
死の間際に、妻・お市の方と、三人の娘を織田信長に託した。
孫は豊臣秀頼や徳川家光など、戦国時代末期の重要人物となる。
現在の天皇陛下は、子孫にあたられる。
今川義元
駿河の国主。
東海道を制圧した名将で、武田信玄や北条氏康とは、婚姻関係から、義理の兄弟にあたる。(妻は信玄の姉。妹は氏康の妻)
![](https://saigotoshiin.com/wp-content/uploads/2022/02/今川義元-219x300.jpg)
今川義元
引用元ウィキペディアより
甲斐の武田信玄と、相模の北条氏康とのあいだで、三国同盟を締結し、三河・尾張(愛知県)方面への侵攻を本格化する。
若き頃の徳川家康を保護し、姪である築山殿を嫁がせるなど、厚遇する。
1560年、尾張侵攻を開始するが、桶狭間の戦いで、少数の軍を率いた織田信長を相手にまさかの敗北を喫して討死。
息子の氏真は、のちに家康を頼り、高家として遇される。
子孫には、吉良上野介や上杉鷹山、さらには惑星探査機「はやぶさ」のプロジェクトチームの一員・上杉邦憲さんがいる。
伊達政宗
米沢出身の大名。
会津を支配下に置き、東北で一大勢力をつくりあげた猛将。
通称・独眼竜。
![](https://saigotoshiin.com/wp-content/uploads/2022/02/伊達政宗-300x252.jpg)
伊達政宗
引用元ウィキペディアより
戦国時代末期の猛将で、米沢から会津へ、四方八方すべてを敵としながらも、版図を拡大した。
1590年、小田原合戦に出陣した秀吉が、政宗に参陣するよう命じたが、政宗は同盟者である北条と豊臣秀吉のどちらに着くかを決めかねていた。
弟の小次郎政道を処刑して、家督争いを未然に防ぐと、小田原へ参陣して秀吉に屈服。
秀吉の死後、家康の六男・忠輝に娘を嫁がせて関係を強化。
徳川幕府において、重きを成したという。
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