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【徳川家康】の最後と死因をわかりやすく解説!子孫と辞世の句は?

徳川家康(とくがわ いえやす)の【死因】や【最後の様子】について、短くまとめると、以下のとおりです。

  1. 徳川家康の死因は、胃がん。
  2. 亡くなったのは、1616年6月1日(元和2年4月17日)。享年75。
  3. 鷹狩のさいに倒れ、しばらく後に死去。

この記事では、徳川家康の最後の様子について、ひと目で分かるようにまとめました。

徳川家康の最後と死因について知りたい方にとって、この記事は必ずお役に立つはずです。



専門サイト「最期と死因ドットコム」へようこそ。

どうぞ、ごゆっくりお過ごしくださいませ。

徳川家康の【死因】と【亡くなった日】

徳川家康の【死因】

徳川家康の死因は、胃がんといわれています。

かつては「鯛の天ぷらによる食中毒が死因」との説が一般的でした。

しかし近年の研究によれば、その可能性は低いとのこと。

この点は、後ほど解説します!

徳川家康
引用元ウィキペディアより

徳川家康が【亡くなった日】と【享年】

新暦:1616年6月1日

旧暦:元和2年4月17日

享年:数え年で75歳(満73歳)

徳川家康の【最後の様子】は?

徳川家康は、隠居先である駿府城にて亡くなりました。

事の発端は、元和2年1月21日。

鷹狩(たかがり)に出かけた家康は、突然倒れてしまいました。(鷹狩とは、飼っている鷹を飛ばして小動物などをとらえさせる遊び)

その後の経過については、よく分かりません。

ただ、それから約3カ月後の4月17日午前10時頃、息をひきとったとされます。

家康の死因について、かつては「鯛の天ぷらの食中毒」が有力説でした。

倒れる前に「鯛の天ぷら」を食し、それが原因で死んだというのです。

しかし、「倒れてから死ぬまでに3カ月もの時間を要している」ことから、「本当に食中毒なのだろうか」という疑念が生じています。

それに対し、近年、有力視されているのが「胃がん」が原因とする説。

当時の記録に残る家康の症状が、胃がんの症状と合致しているのです。

具体的には、

  • 「みるみるやせていった」
  • 「吐血と黒色便が見られる」
  • 「腹に大きなしこりがあった」

というもの。

家康は、自ら薬を調合するほどの「薬マニア」として有名ですが、「がん」には勝てなかったようです。

徳川家康の【辞世の句】とその意味とは?

徳川家康の辞世の句として、以下の2つが知られています。

  1. 嬉やと 再び覚めて 一眠り 浮世の夢は 暁の空
  2. 先にゆき 跡に残るも 同じ事 つれて行ぬを 別とぞ思ふ

一つ目の句をそのまま訳すと

「『うれしいものだなぁ』とまた目覚めてはひと眠りする。この世の夢は暁の空のようだ」

となります。

徳川家康といえば、乱世に終止符をうった英傑。

その年の年号が「元和」だったことから、その平和は「元和偃武(げんなえんぶ)」ともよばれることも(「偃武」は「武器を置く」の意味)。

家康は、「元和偃武」の実現にたいする充足感をこの歌で表現したのかもしれませんね。

ただし、この句について、万人共通の解釈はないようです。

その一方で、二つ目の句は「殉死をいさめる」ために詠まれたといわれています。

「追い腹」といって、当時は主君が死ぬと、家来もあと追いで切腹することがありました。

「死後の世界までお供します!」ということです。

しかし、それをしてしまっては次世代を支える家来がいなくなってしまう…。

きっと家康はそう考えたのでしょう。

「先に死ぬのも、先立たれるのも同じことだ。私は誰も連れていかぬ。これでお別れだ」

と、遺された家臣に「お別れ」を宣言しているのです。

その遺志をついでか、後年、江戸幕府は「殉死」を禁じました。

徳川家康の【子孫】は、どうなったのか?

徳川宗家・御三家・御三卿家のいずれもが、現在まで存続しています。

「御三家(ごさんけ)」とは、尾張・紀伊・水戸の3藩のことで、宗家(=将軍)が途絶えたとき、その跡継ぎを輩出する「バックアップ」装置の役割を担当。

徳川家康のときに創設され、それぞれ家康の子どもが初代になっています。

また、「御三卿(ごさんきょう)」も、御三家と同様の役割を担いました。

8代将軍・徳川吉宗のときに創設され、清水家・田安家・一橋(ひとつばし)家が対象です。

徳川吉宗
引用元ウィキペディアより

こうしたバックアップ体制が功を奏してか、宗家・御三家・御三卿家のいずれもが現在まで存続しています。

とくに宗家は、現在18代目の徳川恒孝(つねなり)さんが当主を務めています。

恒孝さんは、日本郵船の副社長や公益財団法人徳川記念財団の初代理事長などを歴任。

息子で次期当主の徳川家広さんは、翻訳家や政治家として活躍され、政治経済関連の著書でも知られています。

現代においても、徳川家一門の経歴は華々しいですね。

徳川家康の【死後に起こった出来事】とは?

第2代将軍・徳川秀忠をはじめとする歴代将軍により、250余年の統治が続きます。

徳川秀忠
引用元ウィキペディアより

とくに家康の没する前後の時期では、江戸幕府の「地盤固め」に力が注がれました。

たとえば武家にたいしては、「武家諸法度」や「一国一城令」で統制を強化。

「一国一城令」は、「居城を除く領内の城を破壊せよ」と命ずるものですから、それだけでも各大名の戦力が落ち込むのは目にみえています。

その一方で、海禁政策も進められました。

オランダ・琉球王国・朝鮮・アイヌ以外との国交を断つ、というものです。

いわゆる「鎖国」ですね。

これにより、海外の情報や貿易を幕府が独占することとなり、幕府は諸大名にたいして優位に立っていきます。

こうした基礎固めが、長きにわたる江戸幕府の統治を支えたのではないでしょうか。

まとめ

この記事をまとめますと、以下の通り

この記事を短く言うと

 

1,徳川家康の『死因』は?

【胃がん】

 

2,徳川家康が【亡くなった日時】は?

1616年6月1日(元和2年4月17日)

享年75

 

3,徳川家康の【最後の様子】とは?

鷹狩のさいに倒れた後、駿府城にて死去。

 

4,徳川家康の【辞世の句】とは?

嬉やと 再び覚めて 一眠り 浮世の夢は 暁の空

先にゆき 跡に残るも 同じ事 つれて行ぬを 別とぞ思ふ

 

5,徳川家康の【子孫】とは?

徳川宗家・御三家・御三卿家ともに存続している。

宗家の現当主は、第18代・徳川恒孝さん。

 

6,徳川家康の【死後に起こった出来事】とは?

徳川氏による統治が、250余年続く。

以上となります。

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