MENU

【徳川(松平)信康】の最後と死因をわかりやすく解説!子孫と辞世の句は?

徳川(松平)信康(とくがわ〔まつだいら〕 のぶやす)の【死因】や【最後の様子】について、短くまとめると、以下のとおりです。

  1. 徳川(松平)信康の死因は、自害。
  2. 亡くなったのは、1579年10月5日。
  3. 諸説あり定かではないが、織田信長もしくは徳川家康の命令で自害させられた。

この記事では、徳川(松平)信康の最後の様子について、ひと目で分かるようにまとめました。

徳川(松平)信康の最後と死因について知りたい方にとって、この記事は必ずお役に立つはずです。



専門サイト「最期と死因ドットコム」へようこそ。

どうぞ、ごゆっくりお過ごしくださいませ。

徳川(松平)信康の【死因】と【亡くなった日】

信康の【死因】

徳川(松平)信康は、父・徳川家康から自害を命じられ、死去しました。

松平(徳川)信康
引用元ウィキペディアより

信康が【亡くなった日】と【享年】

新暦:1579年10月5日

旧暦:天正7年9月15日

享年:数えで21歳(満20歳)

信康の【最後の様子】は?

徳川(松平)信康は、二俣城(ふたまたじょう)にて自害しました。

父・徳川家康により、死を命じられ、無念のうちに亡くなったのです。

徳川家康の長男で武勇に秀でていたという信康。

徳川家康
引用元ウィキペディアより

なぜ、そんな彼が21歳の若さで自殺に追い込まれたのか……。

その真相は謎に包まれています。

しばしば語られるのが、「正室・徳姫との不仲」説です。

信康は正室(正式な妻)として織田信長の娘・徳姫を迎えていました。

ところがいつしか徳姫と信康との夫婦仲は冷えこみ、ついには徳姫が父・信長にその窮状を訴えたといいます。

事情を聞いた信長は、信康の自害を要求。

家康は信長に抗えず、泣く泣く信康に自害を命じた、というものです。

しかし、この説には不自然な点が多々指摘されています。

  • 「夫婦仲の悪さが自害に値するのか?」
  • 「後年、事の発端である徳姫にたいして家康はどうして領地を与えているのか?」

といった点です。

そこで「親子関係のもつれから家康がすすんで信康の自害を命じた」と考える人もいます。

というのも、

  • 「徳川(松平)信康は粗暴で、家康とうまくいっていなかった」
  • 「家康は、信康にそっくりだった息子の忠輝を嫌いつづけていた」

といった記録が残っているのです。

もしこれが本当だとすれば、親子関係は相当ギクシャクしていたことでしょう。

さらに織田家の史料には「『信長が』自害させるよう命じた」という記録はありません。

織田信長
引用元ウィキペディアより

「信長が自害を要求した」と記しているのは、後になって書かれた徳川家の史料です。

織田家の史料にもとづけば、信康の処分は家康に一任されたことになります。

また、徳姫の訴えを信長に伝えたとされる酒井忠次は、信康を弁護しませんでした。

それにもかかわらず、酒井忠次は「徳川四天王」の一人として家康に重用されつづけます。

もし家康が信康を泣く泣く自害させたのであれば、不可解ではないでしょうか。

こうした理由から「信康の死は、家康の意向だった」とも考えられるのです。

ただ後年、家康は「信康が生きていれば……」と嘆いたり、「息子の領地が少ないのですが」と抗議してきた酒井忠次にたいして「お前でも子がかわいいか」と冷たい対応をしたりしたとも伝わっています。(これは信康を見捨てた酒井忠次に対しての、家康からの皮肉だった)

一体、何が事実なのでしょうか。

徳川(松平)信康の死は今もなお、歴史ファンの議論を呼んでいます。

信康の【辞世の句】とその意味とは?

信康の辞世の句や遺言は伝わっていません。

信康の【子孫】は、どうなったのか?

信康の子孫には、第15代将軍・徳川慶喜がいます。

徳川慶喜
引用元ウィキペディアより

徳川(松平)信康には3人の娘がいました。

そのうちの一人である熊姫は、家康の重臣・本多忠勝の息子と結婚しています。

今度はその子どもである本多忠刻が、徳川秀忠とお江の娘であり豊臣秀頼の妻だった千姫と婚姻して、勝姫という子をもうけました。

そしてそのまま家系図をたどっていくと、最後の将軍・徳川慶喜の名につながるのです。

つまり徳川慶喜は、徳川家康の長男(信康)と三男(秀忠)の血を受け継いでいるのです。

信康の【死後に起こった出来事】とは?

徳川家は日本有数の大名に成長しますが、「我慢の時間」が訪れます。

徳川(松平)信康が亡くなった頃、時代は織田信長に味方していました。

武田信玄や上杉謙信といった近隣の強豪が没し、弱体化していたのです。

徳川家康は信長と協力して武田氏を滅ぼし、勢力を大きく拡大しました。

しかし武田氏が滅んで数か月後、今度は本能寺の変が勃発。

信長が突如亡くなり、羽柴(豊臣)秀吉が台頭します。

徳川家康は信長の子・信雄(のぶかつ)とともに対抗しますが、結局「天下人」の座は秀吉の手に渡りました。

大勢力をほこった家康は、ここから「自分の番」がくるまで虎視眈々と待ち続けるのです。

まとめ

この記事をまとめますと、以下の通り

この記事を短く言うと

 

1,信康の『死因』は?

【自害】

 

2,信康が【亡くなった日時】は?

1579年10月5日

享年21

 

3,信康の【最後の様子】とは?

二俣城にて自害して果てた。

 

4,信康の【辞世の句】とは?

伝わっていない。

 

5,信康の【子孫】とは?

娘の末裔に徳川慶喜がいる。

 

6,信康の【死後に起こった出来事】とは?

徳川家は時代の流れに乗って成長するが、秀吉の天下となって機会を待つこととなる。

以上となります。

本日は当サイトへお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当サイトへお越しくださいませ。

ありがとうございました。

その他の記事

もしよろしければ、以下にご紹介いたします記事も、合わせてお役立てくださいませ。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

コメント

コメントする

目次
閉じる