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源義経の死因と最後を簡単にわかりやすく解説!なぜ死んだのか理由は?

源義経みなもとのよしつねの【死因】や【最後の様子】について、簡潔にまとめると以下のとおりです

  • 源義経の死因は自刃。衣川ころもがわの戦いで、藤原泰衡ふじわらやすひらの軍に追い詰められて、自ら命を絶った。
  • 1189年6月15日に亡くなった。享年31歳
  • 源義経がチンギス・ハーンとなったという伝説があるが、発端は江戸時代からの噂であり、現在では完全に否定された説である。

この記事では、源義経の最期の様子について、ひと目で分かるようにまとめました。

源義経の最期と死因について知りたい方にとって、この記事は必ずお役に立つはずです。



専門サイト「最期と死因ドットコム」へようこそ。

どうぞ、ごゆっくりお過ごしくださいませ。

目次

源義経の【死因】と【亡くなった日】

源義経の【死因】と【最期の様子】

源義経の死因は自刃。つまり自ら命を絶ったのです

源義経
「引用元ウィキペディアより」

源義経は兄・源頼朝みなもとのよりともの命令により、軍団をひきいて宿敵であった平家と戦います。

1185年、壇ノ浦だんのうらの戦いで、父の敵であった平家一族を滅亡させると、義経は兄・頼朝と対立してしまいます。

頼朝の追手に追われて日本全国を逃げ回った義経は、若い頃に住んでいた奥州平泉へと逃亡。(現在の岩手県平泉)

そこで、奥州を支配していた藤原秀衡ひでひらの保護を受けた義経でしたが、秀衡の死後にその後継者となった藤原泰衡やすひらが、源頼朝の脅迫に屈服し、義経を攻撃してしまいます。

藤原泰衡の軍団に攻められた義経は、衣川の戦いと呼ばれる戦いで敗北し、自刃。

源義経が最期を遂げた場所には現在、高館義経堂たかだてぎけいどうというお堂が建てられています。

高館・義経堂

義経が自ら命を絶ったあと、藤原泰衡は源頼朝に攻め込まれ、あっけなく滅亡しています。


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源義経が【亡くなった日】と【享年】

新暦・1189年6月15日

旧暦・文治5年うるう4月30日

享年31歳

高館義経堂・源義経の供養等

【源義経という英雄の真実】について、以下のリンク記事で、詳しく解説いたしました。


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源義経の【生存説】と【チンギス・ハン】となった伝説とは?

源義経の生存説とは?

源義経には、不思議な生存説が存在します。

1189年の衣川の戦いでは死なずに、北へ逃亡して生き延びたというのです

例えば、青森県の日本海側・津軽半島には、三厩みんまやという地名が残されています。

平泉から逃れた義経は、追ってから逃れるために、天に祈りを捧げたところ、三頭の龍馬を授かり、それに乗って津軽海峡を北海道へ渡った、という伝説があります。

そのため、三頭の龍馬に因んで、3つのうまやということで、三厩という地名が残っているのです。(そして義経寺ぎけいじという、義経の名前がついたお寺も残されており、義経が祈ったという仏像もそのお寺にあるという)

そして、龍馬に飛び乗った場所なので、青森県・津軽半島の北端には、竜飛岬という地名が残されたわけです。(竜飛とは、アイヌ語であるという説もある)

しかし残念ながら現実的に考えると、義経が衣川の戦いで逃げ延びて生き残った可能性は、ほとんどありません。

おそらく義経の家来たちが、竜飛岬まで逃げ延びて北海道へ渡ったことが発端となって、義経と龍の伝説が語り継がれたのでしょう。

伝説によると、北海道へ渡った義経は、アイヌの人々とともに生きたとか、アイヌの王になったとか言われているようです。

作家・山崎純醒さんは、著書「義経北紀行伝説」のなかで、義経が生き延びて青森県の十三湖へと落ち延びていったと確信しておられました。


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義経=チンギス・ハン伝説とは?

義経が大陸へ渡って、モンゴルを統一し、チンギス・ハンとなってユーラシア大陸の半分を支配する大帝国を作り上げた、という逸話はかなり有名です。

この逸話は、元々は江戸時代から噂されていた切なのですが、明治・大正の時代に爆発的に広まり、支持されました。

明治・大正の時代に出版された以下の書籍

  1. 義経再興記
  2. 成吉思汗ハ源義經也チンギスハーンはみなもとのよしつねなり

この2つの本が原因で、義経=チンギス・ハン説は、日本に広く知れわたりました。

しかし実はこの説は、当時から学会で完全に否定されていた説なのです。

つまり、義経=チンギス・ハン説は、現実的に考えると、ありえない話というわけです

チンギス・ハン
「引用元ウィキペディアより」

ところが、これを実話ではなく、ひとつの物語として読んでみると、とても魅力的なお話であると筆者も思います。

実際に義経とチンギスハーンが同一人物であるという漫画やアニメが人気です。(「ハーン」や「アンゴルモア元寇合戦記」など)

慕い続けていた兄・頼朝から命を狙われた義経が、実は生き延びていて、大陸へと渡り、誰もなし得なかった大帝国を作り上げ皇帝となった。

そしてその義経の子孫たちが、義経の第二の故郷である奥州を踏みにじった鎌倉幕府へ、元寇・蒙古襲来という形で復讐をする。

または、兄・頼朝から鎌倉幕府を奪い取った北条一族に対して、復讐するために義経の末裔が日本へ襲来した。

とても夢のあるお話だと思います。

しかし現実的に考えると、義経とチンギス・ハンが同一人物であるという可能性は、限りなくゼロに近いと、言わざるを得ません。


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参考文献

今回は、山崎純醒さんは、著書「義経北紀行伝説」を参考にさせていただきました。

山崎さんはこの書籍の中で、藤原秀衡・泰衡の協力によって、義経は北へと落ち延びて生き残った、と確信しておられました。

魅力あふれる面白い作品でした。

まとめ

この記事をまとめますと、以下の通り

この記事を短く言うと

  • 源義経の死因は、自刃。衣川の戦いで、藤原泰衡の軍に追い詰められて、自ら命を絶った。
  • 1189年6月15日に亡くなった。享年31歳
  • 源義経がチンギス・ハーンとなったという伝説があるが、発端は江戸時代からの噂であり、現在では完全に否定された説である。

以上となります。

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