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後醍醐天皇の死因と最後をわかりやすく解説! 辞世の句の意味とは?

後醍醐天皇(ごだいごてんのう)の【死因】や【最後の様子】について、短くまとめると、以下のとおりです。

  1. 後醍醐天皇の死因は、病死。
  2. 後醍醐天皇は、新暦1339年9月19日(旧暦・延元4年/暦応2年8月16日)に亡くなった。享年52歳
  3. 後醍醐天皇の最後の様子は、京都へ戻ることを望みながら、志半ばで無念にも亡くなった。

この記事では、後醍醐天皇の最期の様子について、ひと目で分かるようにまとめました。

後醍醐天皇の最期と死因について知りたい方にとって、この記事は必ずお役に立つはずです。

これを読んで、後醍醐天皇の最期についての疑問を、スッキリと解消していただければ幸いです。



専門サイト「最期と死因ドットコム」へようこそ。

どうぞ、ごゆっくりお過ごしくださいませ。

目次

後醍醐天皇の【死因】と【亡くなった日】

後醍醐天皇の【死因】

後醍醐天皇の死因は、病気です。

なんの病気かはわかっていませんが、志半ばの崩御でした。

後醍醐天皇が【亡くなった日】と【享年】

新暦1339年9月19日(旧暦・延元4年/暦応2年8月16日)

享年52歳


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後醍醐天皇の【最後の様子】は?

後醍醐天皇は、足利尊氏から京都を追い出されて奈良・吉野へ逃れていたため、京都へ帰ることを夢見ながらこの世を去りました。

後醍醐天皇が天皇に即位した頃、朝廷は内紛によって、

  1. 持明院統(じみょういんとう)
  2. 大覚寺統(だいかくじとう)

という二つに分裂しており、天皇は両統から交互に出すことになっていました。【これを両統迭立(りょうとうてつりつ)という】

しかし自分の力で政治を行い、天皇の位を譲ったあとも権力を有する院政(いんせい)を行いたい後醍醐天皇は、この持明院統と大覚寺統の統一を図るために、両統迭立というルールを作った鎌倉幕府を倒して、権力を握ろうと考えました。

後醍醐天皇は、仲間とともに倒幕の計画を内密に練っていましたが、1324年(正中元年)に密告により計画が漏れ、主犯格の家来が処分されましたが、後醍醐天皇本人は許されます(正中の変)。

それでも諦めずに計画を練っていましたが、またも密告により露呈してしまいます。1331年(元弘元年)、幕府に捕らえられた後醍醐天皇は、隠岐(おき、島根県)に流罪になってしまいます(元弘の変)。

楠木正成(くすのき まさしげ)たち後醍醐天皇の家来が各地でゲリラ戦を繰り返して抵抗を続けている中で、隠岐から脱出した後醍醐は、ついに兵を挙げます。

幕府は足利尊氏(あしかが たかうじ)を差し向けて鎮圧しようとしますが、後醍醐は尊氏を寝返らせ、味方にすることに成功します。

その後、後醍醐天皇に呼応して挙兵した新田義貞(にった よしさだ)が鎌倉幕府を滅ぼしたことで、後醍醐はついに目的を達成しました。


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鎌倉幕府を攻め落とした後醍醐天皇は、元号を建武(けんむ)と改め、親政しんせいつまり天皇みずからが行う政治を始めました。(建武の新政)

しかしそれは旧時代的で、恩賞の少なさに不満を持つ武士も多くいました。

すると鎌倉幕府再興を目指して挙兵した北条時行(ほうじょう ときゆき)の反乱(中先代の乱)に乗じて、武士のリーダー的存在であった足利尊氏が後醍醐天皇を離反。

足利尊氏は大覚寺統の後醍醐天皇を倒すために、後醍醐天皇のライバルである持明院統の光明天皇(こうみょうてんのう)を立てて、全面戦争が始まってしまいます。

その後、一度は尊氏を九州まで追いつめたものの、勢力を盛り返した尊氏との戦闘に敗れた後醍醐天皇の軍は、

  • 楠木正成(くすのき まさしげ)
  • 新田義貞(にった よしさだ)
  • 北畠顕家(きたばたけ あきいえ)

など、後醍醐天皇側の主だった武将がみな戦死してしまい、後醍醐天皇自身も足利尊氏によって京から追い出されてしまいました。

奈良の吉野で抵抗を続けた後醍醐天皇でしたが、1339年(延元4年/暦応2年)8月に病に倒れます。

そして息子の後村上天皇に天皇の位を譲った後、崩御(ほうぎょ)しました。(崩御とは、天皇がお亡くなりになられた場合に使われる言葉)


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後醍醐天皇の【辞世の句】とその意味とは?

後醍醐の辞世の句として

「身はたとへ南山の苔に埋むるとも魂魄は常に北闕の天を望まん」

(みはたとへなんざんのこけにうむるともこんぱくはつねにほくけつのてんをのぞまん)

が残っています。

現代語に訳すと、

「この身は京都の南の山地である吉野に埋められることになるが、私の魂はずっと、北闕門(ほくけつもん・天皇が住む宮城にあった門)のある今日の京都へ帰ることを望んでいる」

となります。

その思いに沿うように、後醍醐天皇の墓の入り口は、京都のある方角である、北を向いた状態で作られています。一般に北は不吉な方角とされるため、他の天皇陵にはない、後醍醐天皇だけの特徴です。

後醍醐天皇は左手に法華経、右手には剣を持って、座ったまま亡くなったと言います。また後醍醐天皇の死の直後、京都では疫病が大流行します。

後醍醐天皇の怨霊によるとする史料もあり、後醍醐天皇の京都への強い思いが見て取れます。

実際に尊氏は後醍醐天皇の死を悼んで、その菩提を弔うために寺を建てさせます。

それが現在でも観光名所の一つである世界遺産の京都・嵐山にある天龍寺です。


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後醍醐天皇の【子孫】は、どうなったのか?

後醍醐天皇の孫にあたる後亀山天皇の時代に、南朝は北朝と統一されています。(南北朝の合一)

後亀山天皇は、京都の北朝との統一されるにあたり

「北朝と南朝で、交互に天皇をたてる」(両統迭立りょうとうてつりつ

を条件としていました。

ところが、実際には力を失ってしまっていた南朝のこの要求は、実行されることもなく、両統迭立の約束は守られることはありませんでした。

その後、南朝から天皇がたてられることはなく、日本の天皇は北朝(持明院統)によって独占されることになるのです。

後醍醐天皇の孫にあたる後亀山天皇が、南北朝合一によって天皇の位を失い、その後二度と、南朝(大覚寺統)から天皇は出ませんでした。

しかし、その後も後亀山天皇の子孫が、後南朝と呼ばれる活動をし続けました。

1470年頃、つまり応仁の乱が起こっていた、室町幕府8代将軍・足利義政の頃まで、後醍醐天皇の子孫は続いていたということになります。

その後、後醍醐天皇の子孫は、歴史の表舞台から姿を消すことになるのです。


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後醍醐天皇の【死後に起こった出来事】とは?

後醍醐天皇の死後、日本は観応の擾乱(かんのうのじょうらん)と呼ばれる足利尊氏とその弟・足利直義(あしかが ただよし)による、日本を二分する内乱が勃発します。

室町幕府をつくった征夷大将軍・足利尊氏でしたが、幕府の運営を弟・直義にまかせきりにしていました。

すると、足利尊氏と弟・直義のあいだで、幕府の運営方針をめぐって、争いが発生したのです。

この兄弟喧嘩は、日本を二分するものへと発展し、両者は争いを続けました。

結果として、弟の足利直義が敗北し、忠義は兄・尊氏によって毒殺されてしまいます。

その後も足利尊氏は、後醍醐天皇の意志を受け継いだ南朝勢力との戦いをつづけます。

足利尊氏は、南朝との戦いの最中に病死。

南北朝の動乱は、1392年に足利義満によって統一されるまで続くことになります。


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まとめ

この記事をまとめますと、以下の通り

この記事を短く言うと

1,後醍醐天皇の『死因』は?

後醍醐天皇の死因は、病死。

病名はわからないが、京都へ戻るという志半ばだった

2,後醍醐天皇が【亡くなった日時】は?

新暦1339年9月19日(旧暦・延元4年/暦応2年8月16日)

宝算52歳

3,後醍醐天皇の【最後の様子】とは?

鎌倉幕府を滅ぼすも、親政はうまくいかず、足利尊氏と敵対。尊氏に京都を追い出され、帰れぬまま亡くなった。

4,後醍醐天皇の【辞世の句】は?

「身はたとへ南山の苔に埋むるとも魂魄は常に北闕の天を望まん」

なんとしても京都へ帰ろうとした後醍醐の思いの強さを象徴するような辞世の句であった。

 

5,後醍醐天皇の【子孫】とは?

後醍醐天皇の孫・後亀山天皇の時代に、南北朝は合一されて、南朝は滅びた

 

6,後醍醐天皇の【死後に起こった出来事】とは?

後醍醐天皇の死後も、南北朝の動乱はつづき、足利尊氏・直義兄弟による観応の擾乱も重なって、日本は混乱が続いた

以上となります。

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