【新田義貞】の死因と最後をわかりやすく解説! 子孫は倒幕運動で活躍

新田義貞の【死因】や【最後の様子】について、短くまとめると、以下のとおりです。

  1. 新田義貞の死因は、自刃

  2. 義貞は、新暦1338年8月17日、旧暦延元3/建武5年7月2日に亡くなった。享年38歳。

  3. 新田義貞は、足利尊氏の軍団と戦っている最中に、眉間に矢を受けた。致命傷であり自らの死を悟った義貞は、自刃した。

この記事では、新田義貞の最期の様子について、ひと目で分かるようにまとめました。

新田義貞の最期と死因について知りたい方にとって、この記事は必ずお役に立つはずです。

これを読んで新田義貞の最期についての疑問を、スッキリと解消していただければ幸いです。



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新田義貞の【死因】と【亡くなった日】

新田義貞の【死因】

新田義貞の死因は自刃。つまり自ら命を絶ったのです。

戦に敗れて死期を悟り、自ら首を掻き切って自害しました。

新田義貞
引用元ウィキペディアより

新田義貞が【亡くなった日】と【享年】

新暦・1338年8月17日

旧暦・延元3/建武5年7月2日

享年38歳

新田義貞の【最後の様子】は?

新田義貞の死因は自刃。つまり自ら命を絶ったのです。

義貞は、足利尊氏の軍団との戦いに敗北し、自害したのでした。

義貞はもともと、足利尊氏の遠縁の親族であり、ともに鎌倉幕府を倒した仲間でした。

新田義貞は後醍醐天皇の挙兵に呼応して出陣し、北条高時がひきいた鎌倉幕府の滅亡を目指して、多大な貢献をしたのです。

ところが義貞は鎌倉幕府を滅ぼしたにもかかわらず、同族の足利尊氏に比べて、褒美がそれほど多くなかったのです。

後醍醐天皇からの扱いの差に、義貞は悔しい思いをしていました。

後に尊氏が後醍醐天皇から離反すると、義貞は後醍醐天皇方の急先鋒として全国を転戦。

南朝方の主力であった名将

  • 北畠顕家(きたばたけ あきいえ)
  • 楠木正成(くすのき まさしげ)

らと力を合わせて尊氏を京都から追い出し、九州まで追い詰めることに成功しました。

しかし体制を立て直して再上洛した尊氏に、新田義貞は敗北します。(湊川の戦い)

すると主君である後醍醐天皇は、足利尊氏と和議を結んで、戦いは一時的に終結してしまいます。

史料によって、和議は一計略のための一時的なものであり、後醍醐天皇が義貞に詫びたとするものもありますが、とにかく義貞は越前国(福井県)で後醍醐の息子を奉じて再起を図ることになってしまいました。

しかし越前に逃れているうちに、北畠顕家や楠木正成ら仲間たちは、ことごとく戦死してしまっており、義貞も1338年(延元3年/建武5年)に、味方の救援に少勢の軍のみを率いて向かっている際に、足利軍の奇襲を受けてしまいます。

矢の雨にさらされた義貞は落馬し、起き上がったところを眉間に矢が命中。

もう助からないと悟った義貞は、自刃して果てたのでした。

新田義貞の【子孫】は、どうなったのか?

新田義貞の一族である新田氏の子孫を名乗る偉人の中で、もっとも有名なのは江戸幕府を開いた徳川家康でしょう。

もうひとり、岩松俊純(としずみ)という庶流の子孫も存在していました。

徳川家康
「引用元ウィキペディアより」

家康は、義貞の孫の得川氏の流れを汲んでいると主張し、旧姓の松平から徳川への改姓を行いました。

しかしそれを裏付けるものは見つかっておらず、真実ではないという見方が有力です。(当時から、系図をでっち上げる行為は良く行われていた)

ちなみに、実際のところ、新田義貞の直系子孫は、義貞のひ孫の代で断絶しています。

一方で幕末に、その徳川氏に牙を剥いた義貞の子孫がいます。

岩松という人物です。

岩松(いわまつ)氏の一族は、戦国時代には没落してしまっています。

この岩松氏は、新田の子孫を自称する由良(ゆら)氏の支配から解放されると、徳川家に仕えるようになります。

しかし岩松氏は徳川家から、新田姓を名乗ることを禁じられた上、わずかな石高しか与えられませんでした。

江戸時代の岩松の殿様は4代にわたって猫の絵を描いて売る、という資金集めをしなければならないほど困窮していました。

1868年(慶応4年)、岩松氏の当主・岩松俊純(としずみ)は倒幕運動に参加するため、新田勤王党を立ち上げて功を挙げると、後に明治新政府より男爵の爵位を授かります。

さらには新田氏の嫡流と認められ、正式に新田への復姓を果たすことができたのでした。

新田義貞の【死後に起こった出来事】とは?

新田義貞の死後、足利尊氏たち北朝と、後醍醐天皇の勢力である南朝の争いは、さらに泥沼へと向かっていきます。

義貞の死後、足利尊氏は室町幕府の重役であった実弟・足利直義と内乱を起こします。

これに南朝勢力が介入し、足利直義と南朝が結びつくなどして、内乱は全国へと飛び火するのです。

その後、足利直義は兄・尊氏に殺害され、尊氏も病死。

南北朝の動乱は、結局は尊氏の孫で三代将軍にあたる足利義満の代で終息することとなるのです。

まとめ

この記事をまとめますと、以下の通り

この記事を短く言うと

 

1,新田義貞の『死因』は?

足利尊氏の軍との戦いに敗北し、自刃した

 

2,新田義貞が【亡くなった日時】は?

新暦・1338年8月17日

旧暦・延元3/建武5年7月2日

享年38歳

 

3,新田義貞の【最後の様子】とは?

新田義貞は、足利尊氏の軍団と戦っている最中に、眉間に矢を受けた。致命傷であり自らの死を悟った義貞は、自刃した。

 

4,新田義貞の【子孫】とは?

徳川家康は、新田義貞の子孫を自称したが、信憑性に乏しい。また、子孫の岩松氏は幕末に倒幕運動に貢献し、男爵となっている

 

5,新田義貞の【死後に起こった出来事】とは?

新田義貞の死後、南北朝の動乱は泥沼化し、足利尊氏の孫・足利義満の時代に、ようやく内乱が終息した。

以上となります。

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