新田義貞(にった よしさだ)の【死因】や【最後の様子】について、短くまとめると、以下のとおりです。
- 新田義貞の死因は、自刃
- 義貞は、新暦1338年8月17日(旧暦・延元3/建武5年7月2日)に亡くなった。享年38歳。
- 義貞は、足利尊氏の軍団と交戦しているときに、顔に矢を受け、死を悟って自刃した
この記事では、新田義貞の最期の様子について、ひと目で分かるようにまとめました。
新田義貞の最期と死因について知りたい方にとって、この記事は必ずお役に立つはずです。
これを読んで、新田義貞の最期についての疑問を、スッキリと解消していただければ幸いです。
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新田義貞の【死因】と【亡くなった日】
新田義貞の【死因】
新田義貞の死因は自刃。
戦に敗れて死期を悟り、自ら首をかき切って自害しました。
新田義貞が【亡くなった日】と【享年】
新暦1338年8月17日(旧暦・延元3/建武5年7月2日)
享年38歳
新田義貞の子孫の現在
現在の新田義貞の子孫は、昭和30年代生まれの【新田陽子】さんという方だといわれています。
このお方は、明治時代に男爵の爵位を得た岩松俊純の子孫でもあります。
新田義貞の子孫には、岩松俊純(いわまつ としずみ)という明治時代の男爵がいます。
新田氏の子孫を名乗る一族で最も有名なのは、江戸幕府を開いた徳川家康です。
家康は義貞の孫の得川(とくがわ)氏の流れをくんでいると主張し、旧姓の松平から徳川への改姓を行いました。
しかしそれを裏付けるものは見つかっておらず、現在では真実ではない、つまり【徳川家康は新田の子孫ではない】という見方が有力です。
徳川家康は、自分の系図を書きかえて、新田氏の子孫ではないにもかかわらず、新田の子孫を名乗ったのです。
とはいえ、系図を書き換える行為は、織田信長も豊臣秀吉もやっていたことですが・・・。
一方で幕末に、その徳川氏に牙をむいた義貞の子孫がいます。
岩松(いわまつ)氏は戦国時代には没落してしまっており、同じく新田子孫を自称する由良(ゆら)氏の支配から解放されると、徳川家に仕えるようになります。
しかし徳川家から新田姓を名乗ることを禁じられた上、わずかな石高しか与えられませんでした。
江戸時代の岩松の殿様は、4代にわたって猫の絵を描いて売るという形で資金集めをしなければならないほど困窮していました。
1868年(慶応4年)、当主の岩松俊純(としずみ)は倒幕運動に参加するため、新田勤王党を立ち上げて功を挙げると、後に新政府より男爵を授かります。
さらに新田氏の嫡流と認められ、正式に新田への復姓を果たすことができました。
新田義貞の【最期の様子】は?
新田義貞は、宿敵である足利尊氏の軍に追いつめられて、自ら命を断っています。
義貞は、後醍醐天皇の挙兵に呼応して出陣し、鎌倉幕府滅亡に多大な貢献をしました。
ところが自らの軍で鎌倉幕府を滅ぼしたにもかかわらず、同族の足利尊氏は自分より高待遇を受けており、扱いの差に義貞は悔しい思いをしていました。
後に尊氏が後醍醐天皇を裏切ると、義貞は後醍醐天皇の軍団である南朝方(なんちょうがた)の急先鋒として全国を転戦します。
義貞は、南朝方の北畠顕家(きたばたけ あきいえ)、楠木正成(くすのき まさしげ)らと力を合わせて、尊氏を京都から追い出し、九州まで追いtuめることに成功しました。
しかし体制を立て直して再び京都へ進軍してくる足利尊氏に敗れると、主君である後醍醐が尊氏と和議を結んでしまいます。
この後醍醐天皇と足利尊氏の和議によって、結果として新田義貞は、後醍醐天皇に捨てられる形となってしまいます。
ところが史料によって、和議は一時的なものであくまでも計略のためであり、後醍醐が義貞に対して、見捨てるつもりはないと言って詫びたとするものもありますが、とにかく義貞は越前国(福井県)で後醍醐の息子を奉じて再起を図ることになってしまいました。
しかし越前に逃れているうちに、顕家や正成ら仲間たちは皆戦死してしまっており、義貞も1338年(延元3年/建武5年)に味方の救援に少勢で向かっている際に足利軍の奇襲を受けてしまいます。
矢の雨にさらされた義貞は落馬し、起き上がったところを眉間に矢が命中。
もう助からないと悟った義貞は、自刃して果てました。
新田義貞の【辞世の句】または【最後の言葉】とは?
新田義貞に、辞世の句と呼べるものは残されていません。
ただ、最後の言葉については、太平記(たいへいき)という歴史書の中に
「今はこれまで」
と、自刃の直前に叫んだという記述があります。
新田義貞が、本当に死の間際にこの言葉を叫んだかどうかは、定かではありません。
ちなみに、義貞の死後、義貞がかぶっていた兜が、義貞が亡くなった場所から発見されたといいます。
新田義貞は、越前国の称念寺(しょうねんじ)にというお寺に埋葬されました。
余談ですが、義貞が亡くなった約200年後、この称念寺の門前に明智光秀(あけち みつひで)が住み、寺子屋を営んだといわれています。
新田義貞の【死後に起こった出来事】とは?
新田義貞の死後、後醍醐天皇は足利尊氏の軍によって、さらに追いつめられることになります。
義貞が亡くなり、楠木正成や北畠顕家など、数多くの主力を戦死させてしまった後醍醐天皇は、窮地に立たされていきます。
後醍醐天皇も、ついに京都へ戻ることができないままに崩御され、息子の後村上天皇が南朝のトップに君臨することになります。
その後、足利尊氏が亡くなった後も、北朝と南朝の争いは続き、足利尊氏の孫・足利義満の時代になって、ようやく南北朝が統一されることとなりました。
その結果、南朝は天皇の位を失い、北朝が天皇として君臨することになるのです。
まとめ
この記事をまとめますと、以下の通り
この記事を短く言うと
1,新田義貞の『死因』は?
足利尊氏の軍に追いつめられた末に自刃して亡くなった。
2,新田義貞が【亡くなった日時】は?
新暦1338年8月17日(旧暦・延元3/建武5年7月2日)
享年38歳
3,新田義貞の【最後の様子】とは?
足利尊氏との戦いに敗れ、再起を図る最中で敵軍の奇襲に遭い、顔に矢を受けたのち、自分の死を悟って自刃した。
4,新田義貞の【子孫】は
新田の子孫を自称していた徳川氏は、確固とした証拠がない。その徳川幕府を倒した新政府によって、岩松氏が子孫であると認められた。
5,新田義貞の【死後に起こった出来事】とは?
義貞の死後、南朝は劣勢に追い込まれたものの、その後も南北朝の動乱はつづき、足利尊氏の死後に孫の足利義満の時代に終息した。
以上となります。
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