【北条高時】の死因と最期をわかりやすく解説!息子・時行のその後とは?

北条高時(ほうじょう たかとき)の【死因】や【最後の様子】について、短くまとめると、以下のとおりです。

  1. 北条高時の死因は、自刃
  2. 高時は、新暦1333年7月4日、旧暦元弘3/正慶2年5月2日に亡くなった。享年31歳
  3. 高時は、新田義貞に鎌倉を攻められ、追いつめられて自刃した

この記事では、北条高時の最期の様子について、ひと目で分かるようにまとめました。

北条高時の最期と死因について知りたい方にとって、この記事は必ずお役に立つはずです。

これを読んで、北条高時の最期についての疑問を、スッキリと解消していただければ幸いです。



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北条高時の【死因】と【亡くなった日】

北条高時の【死因】は?

北条高時の死因は自刃。

新田義貞に鎌倉を攻め滅ぼされ、自ら命を絶ちました

北条高時
引用元ウィキペディアより

北条高時が【亡くなった日】と【享年】

新暦1333年7月4日

旧暦元弘3/正慶2年5月2日

享年31歳

北条高時の【最後の様子】は?

北条高時の死因は自刃です。つまり自ら命を絶ったのです。

高時は新田義貞に拠点だった鎌倉を攻撃され、追いつめられた末に自ら命をたったのでした。

最後に自らの息子である北条時行を、諏訪頼重(すわ よりしげ)にたくしています。

そもそも北条高時とは、どういう人物なのでしょうか?

北条高時は、蒙古襲来に対処した八代執権・北条時宗の孫にあたる人物です。

北条時宗
「引用元ウィキペディアより」

高時の父・貞時(さだとき)は1311年(応長元年)に亡くなり、高時は家督を継ぎます。(貞時は北条時宗の息子)

まだ9歳だった高時にたいして、父・貞時は後見人として

  1. 高時の舅(しゅうと)の安達時顕(あだち ときあき)
  2. 北条家補佐役である内管領の長崎円喜(ながさき えんき)

の二名を指名しました。

1316年(正和5年)に、高時は14代執権に就任します。

しかし後見人が実権を持っているため、高時自身に権力はなく、次第に政治への気力を無くしてしまいます。

さらに高時は病弱であったために、10年で執権を辞め、出家。

それまで高時を後見していた長崎氏と安達氏が別の後継者を擁立してしまい、後継争いが起こってしまいます。

1333年(元弘3/正慶2年)2月、後醍醐天皇が鎌倉幕府を倒すために挙兵すると、高時は御家人筆頭の足利尊氏を京都に派遣しました。

ところが、尊氏は的だったはずの後醍醐側に寝返って、かえって鎌倉幕府を攻撃し始めてしまいます。

そして1333年5月には、足利尊氏の同族である新田義貞(にった よしさだ)が鎌倉を攻撃。

高時は息子の北条時行(ときゆき)を諏訪頼重(すわ よりしげ)に託し、自刃して果てました。

北条高時の息子【北条時行】は、その後どうなったのか?

高時が死んだ2年後の1335年(建武2年)、息子の北条時行は諏訪頼重の支援を受けて、後醍醐天皇や足利尊氏に対して反乱を起こします。

後醍醐天皇が鎌倉幕府にかわる新しい政治体制を建武の新政(けんむのしんせい)と呼びますが、時行はその建武体制下で鎌倉を任されていた尊氏の弟・直義(ただよし)を攻撃して敗走させ、鎌倉を奪い返すことに成功します。

しかしすぐに足利尊氏に鎌倉を奪い返され、時行は再び落ち延びることになります。

その後、足利尊氏は時行から奪い返した鎌倉を拠点に、主君であった後醍醐天皇を裏切って独立。

時行はというと、尊氏の宿敵となっていた後醍醐天皇に帰順し、朝敵となった父・北条高時の赦免を図りました。

そして後醍醐と対立していた裏切り者・尊氏と戦うことを決めたのです。

1337年(延元2年/建武4年)にはなんと、父を滅した新田義貞の息子と協力し、再び鎌倉を奪い返します。

翌年、時行は尊氏に敗れて再び鎌倉を失ってしまいましたが、1353年(正平8年/文和2年)には尊氏がつくった室町幕府の内乱に乗じて再度挙兵。

3度目の鎌倉奪還を果たしましたが、またも尊氏に敗れて捕らえられ、処刑されてしまいました。

つまり、父親の高時を殺された時行は、反乱を起こして足利尊氏や新田義貞から、鎌倉を取り返そうとしたのです。

しかし尊氏に鎮圧され、幕府を滅ぼした後醍醐に帰順し、朝敵という父の恥をそそぐことに成功します。

その後は後醍醐天皇(南朝)の武将として、処刑されるまで20年ものあいだ尊氏に抵抗し続け、父の無念を晴らそうとしたのでした。

まとめ

この記事をまとめますと、以下の通り

この記事を短く言うと

 

1,北条高時の『死因』は?

新田義貞に攻められ、追い詰められた末に自刃

 

2,北条高時が【亡くなった日時】は?

新暦1333年7月4日

旧暦元弘3/正慶2年5月2日

享年31歳

 

3,北条高時の【最後の様子】とは?

御家人の内部争いに加え、後醍醐天皇の挙兵に抵抗するが、新田義貞に敗れて自刃した。

 

4,北条高時の息子【時行】は、その後どうなったのか?

父・時行の無念を晴らすために何度も挙兵し、鎌倉を3度奪還したが、その度奪い返され、処刑されてしまった。

以上となります。

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