北条高時(ほうじょう たかとき)の【死因】や【最後の様子】について、短くまとめると、以下のとおりです。
- 北条高時の死因は、新田義貞に鎌倉を攻められ、追いつめられた末の自害
- 高時は、新暦1333年7月4日(旧暦・元弘3/正慶2年5月2日)に亡くなった。享年31歳。
- 高時は、新田義貞に鎌倉を攻められた際に、東勝寺で北条一族とともに自刃。息子の時行だけは諏訪へ逃した
この記事では、北条高時の最期の様子について、ひと目で分かるようにまとめました。
北条高時の最期と死因について知りたい方にとって、この記事は必ずお役に立つはずです。
これを読んで、北条高時の最期についての疑問を、スッキリと解消していただければ幸いです。
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北条高時の【最期の様子】は?
北条高時は、新田義貞に本拠地の鎌倉を攻められて、敗北。
最期は鎌倉にある北条一族の菩提寺である東勝寺で、一族全員とともに自刃したのです。
高時の父・貞時(さだとき)は1311年(応長元年)に亡くなり、高時は家督を継ぎます。
まだ9歳だった高時に、貞時は後見人として高時の舅(しゅうと)の安達時顕(あだち ときあき)と、北条家補佐役である内管領の長崎円喜(ながさき えんき)を指名しました。
1316年(正和5年)に、高時は14代目の執権に就任しますが、後見人が実権を持っていたために自身に権力はなく、次第に政治への興味や気力を無くしてしまいます。
加えて高ときは病弱であったために、わずか10年で執権を辞めて、出家。
それまで高時を後見していた長崎氏と安達氏が別の後継者を擁立してしまい、これが原因で後継争いが起こってしまいます。
1333年(元弘3/正慶2年)2月、鎌倉幕府と北条高時を倒すために、後醍醐天皇(ごだいごてんのう)が挙兵すると、高時は後醍醐天皇の軍を倒すために、御家人でもっとも力を持っていた足利尊氏を京都に派遣しました。
ところがその尊氏が、なんと後醍醐側に寝返ってしまいます。
そして1316年5月には、足利尊氏の盟友・新田義貞(にった よしさだ)が鎌倉を攻撃。高時は息子の時行(ときゆき)を諏訪頼重(すわ よりしげ)に託し、自刃して果てたのでした。
北条高時の【死因】と【亡くなった日】
北条高時の【死因】
北条高時の死因は自刃です。
新田義貞(にった よしさだ)に鎌倉を攻め滅ぼされ、自ら命を絶ちました。
北条高時が【亡くなった日】と【享年】
新暦1333年7月4日(旧暦・元弘3/正慶2年5月2日)
享年31歳
北条高時の息子・時行は、その後どうなったのか?
高時の死後、息子の時行は諏訪頼重の支援を受け、1335年(建武2年)に反乱を起こすと、建武体制下で鎌倉を任された足利尊氏の弟・足利直義(ただよし)を追い出して、鎌倉を奪い返します。
しかし、弟・直義の危機を知って京都から駆けつけた足利尊氏に、すぐに鎌倉を奪い返されてしまします。
ところが、ここで予想もしていなかった事態がおこります。
なんと尊氏が、自分の主君であったはずの後醍醐天皇を裏切ったのです。
足利尊氏に鎌倉を奪い返された北条時行は、再び落ち延びると、なんと敵であったはずの後醍醐天皇に帰順し、朝敵つまり後醍醐天皇の敵として指定されていた父・北条高時の赦免を図りました。
そして後醍醐天皇と対立していた裏切り者・尊氏と戦うこととしたのです。
1337年(延元2年/建武4年)にはなんと、父・高時を殺して鎌倉を滅した新田義貞の息子と協力し、再び鎌倉を奪い返します。
翌年に尊氏に敗れて再び鎌倉を失ってしまいましたが、1353年(正平8年/文和2年)には室町幕府の内乱に乗じて再度挙兵。
3度目の鎌倉奪還を果たしましたが、またも尊氏に敗れてしまい、最後には捕らえられ、処刑されてしまいました。
時行は反乱を起こして鎌倉を取り返そうとしましたが、鎮圧されてしまっています。その後は幕府を滅ぼした後醍醐に帰順して、父の恥をそそぐことに成功します。
南朝つまり後醍醐天皇側の武将として、処刑されるまで20年もの間尊氏に抵抗し続け、父の無念を晴らそうとしたのでした。
北条高時の【子孫】は、どうなったのか?
北条高時の子孫は、息子の北条時行を通じて続いています。
明治維新に功績のあった維新十傑の一人である横井小楠(よこい しょうなん)が、北条高時・時行の子孫を自称していたのです。
横井小楠といえば、坂本龍馬と大喧嘩した人物として有名です。
ところが、横井小楠がつくった【国是七条】というものが、坂本龍馬がつくった新政府の基本方針である【船中八策】の基礎になったともいわれています。
横井小楠が、本当に北条高時の末裔・子孫なのかどうかは定かではありません。
しかし、もしも本当ならば、北条義時から始まる北条一族の血筋は、明治の日本の基礎をつくったのです。
北条氏の子孫については、以下のリンク記事で、詳しく解説いたしております。
北条高時の【死後に起こった出来事】とは?
北条高時が亡くなった後、北条時行が鎌倉幕府の再興を目指して戦ったものの敗北。その後は足利尊氏と後醍醐天皇による【南北朝の動乱の時代】が始まってしまうのでした。
南北朝時代と呼ばれるこの時代は、北の京都と、南の奈良・吉野と、この二つの場所に、二人の天皇が存在していたという、まさに異常な時代でした。
後醍醐天皇と足利尊氏は、協力して鎌倉幕府とそのトップであった北条高時を倒しました。
ところが、その後足利尊氏は後醍醐天皇を裏切り、両者は泥沼の戦争を繰り返すことになるのです。
足利尊氏は後醍醐天皇を退位させて、別の天皇を即位させました。
ところが後醍醐天皇は、奈良の吉野へと逃れて、そこで天皇を名乗ったのです。
こうして足利尊氏は北朝(ほくちょう)と呼ばれる勢力をひきいて、後醍醐天皇がひきいる南朝(なんちょう)と、死ぬまで泥沼の戦いをすることになるのです。
まとめ
この記事をまとめますと、以下の通り
この記事を短く言うと
1,北条高時の『死因』は?
新田義貞に鎌倉を攻められて敗北し自刃。
2,北条高時が【亡くなった日】は?
新暦1333年7月4日
旧暦元弘3/正慶2年5月2日
享年31歳
3,北条高時の【最後の様子】とは?
後醍醐天皇の挙兵に応じて鎌倉へ攻め込んできた新田義貞に敗れ、自刃した。
4,北条高時の息子・北条時行は、その後どうなったのか?
父の無念を晴らすために何度も挙兵し、鎌倉を3度奪還したが、その度奪い返され、処刑されてしまった。
5,北条高時の子孫とは?
維新十傑の一人である横井小楠が、北条高時の息子である時行の子孫を自称していた
6,北条高時の死後に起こったこととは?
足利尊氏が後醍醐天皇を裏切り、両者の戦いが【南北朝の動乱】と呼ばれる泥沼の内戦へとつながっていく
以上となります。
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