【北条時行】の死因と最後をわかりやすく解説!子孫は明治維新の英雄

北条時行(ほうじょう ときゆき)の【死因】や【最後の様子】について、短くまとめると、以下のとおりです。

    1. 北条時行の死因は刑死。

    2. 時行は、新暦1353年6月21日(旧暦天平8/文和2年5月20日)に亡くなった。享年20代半ば。

    3. 明治維新に功績のあった維新十傑の一人・横井小楠(よこい しょうなん)は、北条時行の子孫だといわれている。

この記事では、北条時行の最期の様子について、ひと目で分かるようにまとめました。

北条時行の最期と死因について知りたい方にとって、この記事は必ずお役に立つはずです。

これを読んで、北条時行の最期についての疑問を、スッキリと解消していただければ幸いです。



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北条時行の【死因】と【亡くなった日】

北条時行の【死因】

北条時行の死因は刑死。

足利将軍家に対して反乱を起こし、敗れて逃走・潜伏を続けていましたが、捕らえられて処刑されました。

北条時行最期の地
「引用元ウィキペディアより」

北条時行が【亡くなった日】と【享年】

  • 新暦1353年6月21日
  • 旧暦天平8/文和2年5月20日

享年20代半ば

 ※時行は生年がわかっていないため、年齢が不明です。

北条時行の【最後の様子】とは?

北条時行は、鎌倉を三度も落とすほどの活躍をみせたものの、足利軍に捕らえられて、従者とともに処刑されました。

時行は、鎌倉幕府執権(実質的な幕府のトップ)の北条高時の息子として生まれました。

後醍醐天皇らが起こした反乱に際し、家来の足利尊氏に裏切られて幕府の在京機関であった六波羅探題を落とされ、、新田義貞によって鎌倉を攻められると、幕府は滅亡してしまいました。

時行は1335年(建武2年)、父の仇を討つため、また幕府を再興するために、家臣の諏訪頼重らとともに中先代の乱を起こして鎌倉を奪還しますが、すぐに奪い返されて落ち延びることに。

その後、鎌倉幕府を滅ぼした張本人である後醍醐天皇の率いる南朝に帰順し、後醍醐天皇と対立していた尊氏と再び戦います。

1337年(延元2年/建武4年)には南朝の味方とともに鎌倉を攻め、再び鎌倉を奪い返すことに成功します。

翌1338年(延元3年/建武5年)には西進して大阪で尊氏と戦いますが、ここで敗れてしまいます。またも姿を眩ませますが、その間に鎌倉は奪い返されてしまいました。

それから15年後の1353年(正平8年/文和2年)、時行は足利家に最後の戦いを仕掛けます。足利家内の家臣や兄弟間で発生した内紛の最中を狙ったものでした。

時行はまたも鎌倉を攻めて陥落させますが、後からやってきた尊氏に敗れて敗走。逃走・潜伏を続けましたが捕らえられ、従者とともに処刑されてしまいました。

北条時行の子孫は、どうなったのか?

幕末の武士であり、儒学者でもあった横井小楠(よこい しょうなん)は、北条時行の子孫を自称していました。

横井小楠(よこい しょうなん)
「引用元ウィキペディアより」

北条時行の子が尾張国愛知郡横江村に住みつき、そのひ孫にあたる人物が姓を横井に変えました。

小楠はその子孫で、別名を時存(ときあり)とも言いますが、「時」は北条氏が代々受け継いでいる文字です。

小楠という名前は南北朝時代の武将である楠木正行(くすのき まさつら/楠木正成の息子)の別名である「小楠公」からとっています。

正行の父である楠木正成は数十万の幕府軍を500人ほどの少人数で撃破した名将で、また南朝がどんなに劣勢に立たされても見捨てなかった忠臣としても知られています。

正行も父同様南朝方として勇敢に戦った武将で、小楠はそんな正行から名前をいただいたことになります。

細かい記録は残っていませんが、小楠の先祖である時行に対するリスペクトが見てとれます。

横井小楠は、明治維新に尽力した維新の十傑と呼ばれるメンバーのうちの1人で、

また、「実学堂」と呼ばれるグループを作って藩政改革に努めました。改革は藩内の反対派に邪魔をされてうまくいきませんでしたが、その噂を聞きつけた福井藩主・松平春嶽に招かれると福井藩にも出仕し、福井藩の改革に大きく貢献しました。

春嶽に連なって幕政に関与するようになった小楠は、幕政改革の方針を指し示す「国是七条」を幕府に提出。

これまでの幕政の根幹を揺るがす提案内容に幕府はすぐに改革には踏み切れませんでしたが、この案が後に坂本龍馬等の維新志士に影響を与えることになります。

龍馬は小楠と面識があり、2人で「国是七条(こくぜしちじょう)」について議論を重ねた結果生まれたのが「船中八策(せんちゅうはっさく)」であると言われます。

「船中八策」は、明治政府の大方針である「五箇条の御誓文」の原案であり、明治新政府の行動理念は、横井小楠の思想が元になっていると言えるかもしれません。

明治新政府にも参与として加わり財政を担当しましたが、明治2(1869)年に襲撃され、暗殺されてしまいました。

まとめ

この記事をまとめますと、以下の通り

この記事を短く言うと

 

1,北条時行の『死因』は?

足利幕府に捕らわれて処刑された

 

2,北条時行が【亡くなった日時】は?

新暦1353年6月21日

旧暦天平8/文和2年5月20日

享年20代半ば

 

3,北条時行の【最後の様子】とは?

父の仇である足利尊氏と生涯をかけて戦い、鎌倉を3度奪い返したが、3度とも奪い返された。何度も逃亡を繰り返したが、とうとう捕まり処刑された。

 

4,北条時行の【子孫】とは?

維新の十傑にも数えられる志士・横井小楠は時行の子孫を自称しており、時行とともに戦った楠木正行(くすのき まさつら/楠木正成の息子)から名前を拝借するなど、リスペクトされていた。

以上となります。

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