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【諏訪頼重】の最後と死因をわかりやすく解説!子孫は武田信玄の息子

諏訪頼重(すわ よりしげ)の【死因】や【最後の様子】について、短くまとめると、以下のとおりです。

  1. 諏訪頼重の死因は、敵軍に追いつめられた末の自害。
  2. 頼重は、新暦1335年9月6日、旧暦・建武2年8月19日に亡くなった。享年不明。
  3. 諏訪頼重の子孫は、武田信玄と争った同名の戦国武将・諏訪頼重と、頼重の娘と信玄の息子・武田勝頼。

この記事では、諏訪頼重の最期の様子について、ひと目で分かるようにまとめました。

諏訪頼重の最期と死因について知りたい方にとって、この記事は必ずお役に立つはずです。

これを読んで、諏訪頼重の最期についての疑問を、スッキリと解消していただければ幸いです。



専門サイト「最期と死因ドットコム」へようこそ。

どうぞ、ごゆっくりお過ごしくださいませ。

諏訪頼重の【死因】と【亡くなった日】

諏訪頼重の【死因】

諏訪頼重の死因は自刃。

戦に敗れ、自ら命を絶ちました。

諏訪頼重が【亡くなった日】と【享年】

新暦1335年9月6日

旧暦建武2年8月19日

享年不明

諏訪頼重の【最後の様子】は?

諏訪頼重は、足利尊氏たちの追討軍に敗北し、自害しました。

諏訪氏は信濃(しなの、現在の長野県)にある諏訪大社の大祝(おおほうり、神に仕える人)を代々務める家柄でした。

鎌倉時代に幕府に仕えるようになった後、内管領(家来衆のトップ)を出すほどの武功を挙げていましたが、後醍醐天皇(ごだいごてんのう)の挙兵によって鎌倉幕府が滅亡した際に、一族の多くが主家に殉じて自刃してしまいました。

その後、後醍醐天皇に任じられて信濃にやってきた小笠原氏と対立した頼重は、匿っていた北条氏の遺児時行(ときゆき)を立て、反乱を起こしました(中先代の乱)。

鎌倉に攻め込んだ頼重たちは鎌倉を占領し、足利直義(あしかが ただよし)を鎌倉から追い出すことに成功します。(足利直義は、足利尊氏の弟)

しかし木曾家村(きそ いえむら)を大将とする追討軍に敗れると、死期を悟った頼重は、

主家の仇討ちを時行に託し、嫡男の時継(ときつぐ)含む一族郎党43名とともに自刃して果てました。

頼重は家臣に命じて、死後の自分たちの顔面を剥ぐように命じていました。

むごたらしい命令ではありますが、その甲斐あって足利方は時行も死んだと勘違い。

その後時行は生き延び、何度も足利家と戦い続けることになります。

諏訪頼重の【最期の言葉】とその意味とは?

諏訪頼重の最期の言葉や辞世の句は、伝わっていません。

ただ、先程も解説したとおり、頼重は死の間際に、自らの遺体が敵に渡って辱められないように、顔を傷つけるように指示しています。

おそらくその指示が、最期の言葉だったと考えられます。

諏訪頼重の【子孫】は、どうなったのか?

諏訪頼重の子孫には、武田信玄の妹を妻とした武将がいます。

武田信玄の息子・武田勝頼も、頼重の子孫にあたります。

頼重の嫡孫・頼継(よりつぐ)は、祖父・父の遺志を継いで幕府と戦い続けましたが、のちに降参して高遠(たかとお、同じく長野県)に移封されると、後に高遠氏を名乗ります。

諏訪氏の当主と大祝職(おおほおりしょく)は、頼継の弟が継ぎ、戦国時代には甲斐国(かい、現在の山梨県)の武田氏と同盟を結び、当主・諏訪頼重(奇しくも同名)のもとに武田信虎(たけだ のぶとら)の娘が輿入れしました。(おおほうりしょくとは、神主の次に位置するもののこと)

しかし信虎の息子・晴信(はるのぶ、後の武田信玄)が父・信虎を追放して跡を継ぐと、諏訪との同盟を破棄したうえ、高遠氏と組んで諏訪に侵攻してきます。

武田信玄
引用元ウィキペディアより

頼重は敗れて降伏しましたが、甲斐に連行されたのちに自刃に追い込まれ、諏訪家は滅亡してしまいました。

その後、諏訪頼重の娘と武田信玄との間に、勝頼(かつより)が生まれます。

武田勝頼
引用元ウィキペディアより

つまり、武田信玄の息子・武田勝頼は、戦国時代の諏訪頼重の孫にあたるというわけです。(武田勝頼は、産まれた当初は諏訪家を継承する予定だったので、武田ではなく諏訪勝頼と名乗っていた)

織田信長に敗れて勝頼もまた滅亡してしまいます。

戦国時代を代表する大名・武田氏の滅亡とともに、諏訪氏も滅んでしまったのでした。

諏訪頼重の【死後に起こった出来事】とは?

諏訪頼重の死後、足利尊氏は後醍醐天皇を裏切って独立し、後醍醐天皇と戦いを始めます。

頼重に命を救われた北条時行はというと、その後も父・北条高時と鎌倉幕府を滅亡へと追いやった宿敵・足利尊氏を相手に戦いを続けています。

北条時行は足利尊氏を相手に、合計で3度も鎌倉を奪い返す戦果をあげます。

最終的に時行は、鎌倉幕府を滅亡へ追いやった敵の総大将である後醍醐天皇を味方として、協力して足利尊氏と戦うことになります。

これにより、朝敵(ちょうてき)つまり日本全国の敵として公式に指定されてしまった父・北条高時の汚名を払拭することに成功したのです。

ところが、諏訪頼重の意志を継いで、足利尊氏と戦い続けた時行でしたが、敗北して囚われ、最期は処刑されてしまうのでした。

余談ですが、明治維新に功績があった維新十傑のひとり横井小楠(よこい しょうなん)は、北条時行の子孫を自称していました。

まとめ

この記事をまとめますと、以下の通り

この記事を短く言うと

 

1,諏訪頼重の『死因』は?

敗戦して追い詰められ、一族郎党ともに自刃して果てた。

 

2,諏訪頼重が【亡くなった日時】は?

新暦1335年9月6日

旧暦建武2年8月19日

享年不明

 

3,諏訪頼重の【最後の様子】とは?

頼重は北条時行を奉じて挙兵したが敗れ、死ぬことになった。しかし顔面を剥ぐという残忍な機転によって、時行を安全に逃すことに成功した。

 

4,諏訪頼重の【最期の言葉】とは?

最期の言葉や辞世の句は、残されていない

 

5,諏訪頼重の【子孫】とは?

諏訪頼重の子孫には、同名の頼重の代に武田信玄に攻められ、実質滅亡した。血筋は信玄の息子勝頼が継いだが、勝頼も戦国時代を生き延びることはできず、諏訪惣領家は断絶した。

 

6,諏訪頼重の【死後に起こった出来事】とは?

諏訪頼重の意志を継いだ北条時行が、足利尊氏を相手に戦い続けた

以上となります。

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