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【源実朝】の最後と死因をわかりやすく解説!子孫と辞世の句とは?

源実朝(みなもとの さねとも)の【死因】や【最後の様子】について、短くまとめると、以下のとおりです。

  1. 源実朝の死因は暗殺。
  2. 実朝は、新暦1219年2月13日、旧暦建保7年1月27日に亡くなった。享年28歳。
  3. 源実朝の死後、ますます形骸化した将軍職に公家や皇族が迎えられた。

この記事では、源実朝の最期の様子について、ひと目で分かるようにまとめました。

源実朝の最期と死因について知りたい方にとって、この記事は必ずお役に立つはずです。

これを読んで、源実朝の最期についての疑問を、スッキリと解消していただければ幸いです。



専門サイト「最期と死因ドットコム」へようこそ。

どうぞ、ごゆっくりお過ごしくださいませ。

源実朝の【死因】と【亡くなった日】

源実朝の【死因】

源実朝の死因は暗殺。

源実朝が【亡くなった日】と【享年】

新暦・1219年2月13日

旧暦・建保7年1月27日

享年28歳

源実朝の【最後の様子】は?死ぬ前に起こったことを解説

実朝は、死の前に後鳥羽上皇から右大臣に任じられ、そのお祝いのために鶴岡八幡宮へ参拝していました。

1203年(建仁3年)、実朝は政争に敗れた兄・頼家(よりいえ)に代わって、第3代征夷大将軍に任じられました。

当時11歳の実朝に政治能力はなく、母・北条政子(ほうじょう まさこ)の実家・北条氏がその補佐という形で実権を握っていましたが、実朝が成長した後も、その形は変わりませんでした。

一時は政治への意欲を見せていた実朝でしたが、政子やその弟の義時(よしとき)らの権力は、日に日に堅固なものとなっていき、やがて実朝は現実から逃避し始めてしまいます。

北条義時
「引用元ウィキペディアより」

和歌の世界に吹けるようになった実朝は、『新古今和歌集』を編纂した後鳥羽上皇や藤原定家と交流を持ち、また自身で『金槐和歌集』を編纂するなど、文化醸成に大きく貢献しました。

しかし一方で、質実剛健な気質を好む鎌倉武士との乖離は、ますます進んでしまいます。

また実朝は官位にも固執しました。

後鳥羽上皇と近しかったこともあって、1218年(建保6年)末には父・頼朝(よりとも)も達成できなかった右大臣に叙任されました。

しかしその昇任祝いのため、鶴岡八幡宮に参詣した際、宮の責任者を務めていた公暁(くぎょう)という人物に斬り殺されてしまいました。

公暁は、実朝の兄で2代将軍だった源頼家の次男で

「親の仇はかく討つぞ」

(親の仇は、このように討つのだ)

と叫びながら、叔父の実朝に斬りかかったと伝わっています。

どうやら公暁は、父親の源頼家を殺害したのは、叔父の源実朝だと思いこんでいたようです。

公暁の父・源頼家を殺害したのは、北条一族であるといわれており、源実朝は源頼家の死に、まったく関わっていません。

公暁は誰かに操られていたとする説や、次期将軍の座を狙っての犯行とする説などがありますが、確かなことはわかっていません。

ともかく、この公暁も事件後、北条義時や三浦義村によって殺されてしまいました。

源実朝には子がなかったため、源氏の血は途絶えてしまいました。

源実朝の【最期の言葉】とその意味とは?

実朝は最期に

「(大江)広元やある」

と叫んだといいます。

大江広元は、鎌倉幕府の重臣です。どうやら大江広元に助けを求めたようです。

また、辞世の和歌とされるものも残されています。

出でいなば 主なき宿と 成ぬとも 軒端の梅よ 春をわするな

(たとえ主を失ってしまったとしても、梅よ、春を忘れずに咲いてくれ)

これは、

たとえ自分が死んでしまっても、梅よ咲き誇れ

という意味になります。

実朝は、暗殺される直前にこの歌をよんだといわれています。

まるで自分の死を予見していたのではないかともいわれています。

源実朝の【子孫】は、どうなったのか?

実朝には子供がいなかったため、子孫は残っていません。

さらに、公暁が殺害されてしまったことで、頼朝の血筋は事実上途絶えてしまいました。

頼朝の血筋が途絶えたとはいえ、源氏の血筋は他の系統から続いていました。

頼朝の先祖である源義家(みなもとのよしいえ)には、他にも子孫がいたのです。

その源義家の子孫の一人が、足利尊氏です。

足利尊氏は、1333年に、後醍醐天皇らとともに、鎌倉幕府を滅ぼし、北条家は滅亡したのです。

源実朝の【死後に起こった出来事】とは?

実朝の死後、鎌倉幕府は公家や親王をむかえて、征夷大将軍に就任させます。

しかし将軍はあくまでもお飾りでしかなく、北条氏が実質的なトップとして鎌倉幕府を支配していくこととなります。

実朝の死後も源氏の血を引く者はいましたが、その者が跡を継ぐのは、実朝・頼家の外戚として実権を握ってきた北条氏にとっては望ましいことではありませんでした。

そして義時は後鳥羽上皇から皇子を迎えて将軍に据え、その補佐という形で実権を握り続けようとしますが断られてしまい、藤原氏の一族にあたる九条家から将軍を迎えることになりました。

こうして4代将軍に迎え入れられたのが九条頼経(くじょう よりつね)でした。九条家は公家を代表する家柄で、また頼経の曽祖母は頼朝の妹(姉とも)であり、お飾り将軍としてはうってつけの人物でした。

こうして権力を守った北条氏に対し、他の家臣が反乱を起こすこともありましたが、全て鎮圧され、ますます北条氏に権力が集中するようになりました。

こうした頼経とその子の2人の将軍を摂家将軍、その後天皇の皇子を迎えて将軍を務めた宮将軍時代の間、北条氏による執権政治が続き、将軍職はますます形骸化することになりました。

まとめ

この記事をまとめますと、以下の通り

この記事を短く言うと

 

1,源実朝の『死因』は?

2代将軍・源頼家の息子・公暁による暗殺。

 

2,源実朝が【亡くなった日時】は?

新暦1219年2月13日

旧暦建保7年1月27日

享年28歳

 

3,源実朝の【最後の様子】とは?

北条氏に政治の実権を握られ、現実から逃げるかのように和歌に没頭。甥の公暁に暗殺され、鎌倉源氏は滅んだ。

 

4,源実朝の【最期の言葉】とは?

「広元やある」と叫んだという。

出でて去なば主なき宿となりぬとも軒端の梅よ春を忘るな

 

5,源実朝の【子孫】とは?

子孫は残っていない

 

6,源実朝の【死後に起こった出来事】とは?

公家・皇族から将軍を迎えたが、実権は北条氏が握っており、執権政治と呼ばれる体制が続いた。

以上となります。

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