北条時政の【死因】や【最後の様子】について、短くまとめると、以下のとおりです。
- 北条時政の死因は、腫瘍による病死。
- 時政は、新暦1215年2月6日、旧暦建保3年1月6日に亡くなった。享年78歳。
- 北条時政の子孫は、執権として代々鎌倉幕府の実権を握った。
この記事では、北条時政の最期の様子について、ひと目で分かるようにまとめました。
北条時政の最期と死因について知りたい方にとって、この記事は必ずお役に立つはずです。
これを読んで、北条時政の最期についての疑問を、スッキリと解消していただければ幸いです。
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北条時政の【死因】と【亡くなった日】
北条時政の【死因】
北条時政の死因は病死。
腫瘍が原因とされています。
北条時政が【亡くなった日】と【享年】
新暦・1215年2月6日(旧暦・建保3年1月6日)
享年78歳
北条時政の【最後の様子】は?死ぬ前に起こったことを解説
北条時政は、伊豆に追放されたあと、表舞台に出ることなく、静かに亡くなっています。
北条時政が亡くなる前、時政は妻・牧の方とのあいだに産まれた娘の夫・平賀朝雅を4代目の征夷大将軍に就任させようと陰謀をめぐらせていました。
時政は伊豆国(いず、現在の静岡県東部)の豪族である北条家の当主で、平清盛に仕えていました。
平治の乱で伊豆に流された源頼朝の監視役となるが、やがて娘の政子が頼朝と恋仲になってしまいます。
平家と敵対する源氏の棟梁と娘との交際に、当初は反対しており、伊豆の有力者・山木兼隆に政子を嫁がせようとしましたが、政子は頼朝の元に駆け落ちしてしまうと、結局は二人の婚姻を認め、頼朝を後援することを決意しました。
一方で清盛と後白河法皇との対立が深刻化していることを危惧した時政は、時代の流れを読み抜いて源氏への肩入れを決めたとする時政の慧眼であったという評価もあります。
ともかく頼朝に従うことを決めた時政は、1180年(治承4年)8月に挙兵。一族を挙げて頼朝を手助けしました。
最初の戦いである【石橋山の戦い】で、一度は大敗したものの、関東に地盤を築いて平家軍を倒した頼朝・時政は、1185年(文治元年)には平家を滅亡させることに成功しました。
平家滅亡・鎌倉幕府成立に大きく貢献した時政でしたが、頼朝の死後は権力掌握に動き始め、初代執権( °◊° )ホォホォ鎌倉幕府のトップである征夷大将軍に次ぐ幕府のNo.2)に就任します。
頼朝の跡を継いでいた頼家の母方の実家である比企一族を滅ぼすと、頼家を将軍職から廃し、次の将軍に実朝を就けました。
しかし時政は妻・牧の方と結託し、実朝も廃して娘婿の平賀朝雅を将軍に擁立しようとします。
さて、平賀朝政が時政の娘婿で、武士の鑑とうたわれた名将・畠山重忠と揉め事を起こします。
畠山重忠の息子の重保と平賀朝政が口論をしたのです。
娘婿が恥をかかせられたことに、時政とその妻・牧の方は激怒。
1205年7月、時政と牧の方は、謀反の罪をでっち上げ、息子の北条義時らに命じて、畠山重忠を討伐してしまいます。(畠山重忠の乱)
その直後、武士の鑑・畠山重忠に謀反を起こすつもりなどなかったことを確信した息子の北条義時が、父・時政の追放を計画し始めます。
娘婿の平賀朝政を次の征夷大将軍にしようとしていた時政でしたが、娘である北条政子や息子の北条義時らが、三代将軍・源実朝の味方にまわってしまいます。
政子と義時が将軍・実朝を保護すると、時政に味方していた御家人たちも次々と政子・義時に寝返り、時政と牧氏の陰謀は失敗。
もともと、清廉潔白な畠山重忠を死に追いやったことに、御家人たちは怒り、時政を恨んでいたのです。
時政は伊豆へと追放され、その政治人生は終了しました。
つまり北条時政は、実の子である北条義時と北条政子に追放される形で、歴史の表舞台から姿を消したのです。
北条氏にとって時政はアンタッチャブルな存在、すなわち北条氏にとっては恥とも言うべき存在になってしまい、北条氏の初代を義時としてカウントされることもあるほど、評価を下げてしまいました。
そして時政は伊豆でほぼ幽閉生活をすることとなり、表舞台に戻ることがないまま、追放から10年後の1215年(建保3年)、腫瘍のため亡くなりました。
また、妻だった牧の方はというと、故郷の京都へと戻り、贅沢三昧の暮らしをしたという記録が残っています。
その清廉潔白な生き方から【武士の鑑】と呼ばれた名将・畠山重忠。
そんな畠山重忠を死に追いやった北条時政は、重忠を信頼していた義時ら御家人たちの怒りに火をつけ、時政を追放するという結末を招くことになったのです。
北条時政の【最期の言葉】とその意味とは?
北条時政の最期の言葉や辞世の句は、特に残っていません。
時政は、北条一族のなかでも、特に嫌われた人物なので、歴史に名を残すような逸話や辞世の句は、伝えられていないのです。
北条時政の【子孫】は、どうなったのか?
時政の子孫は、代々鎌倉幕府のナンバー2である執権(しっけん)という職を務めあげました。
2度の蒙古襲来を撃退した8代目の執権・北条時宗も、時政の子孫です。
2代目の義時(よしとき)が承久の乱を鎮圧して敵対勢力を倒すと、3代目の泰時(やすとき)は後の武士の規範となる御成敗式目を制定しました。
8代目の時宗は、元の大軍を2度も撃退する活躍を見せましたが、戦費の工面ができなくなった家来たちが困窮し始めると、徳政令を出すなど救済措置を講じますが、状況は上向かず。
幕府へ不安が募り始めた頃には、家来同士の権力争いなども頻発するようになり、幕府の根幹が揺らぎ始めます。
そして政権奪取を狙う後醍醐天皇(ごだいご てんのう)の反乱を機に
- 足利尊氏(あしかが たかうじ)
- 新田義貞(にった よしさだ)
など有力な家臣たちにも見限られ、1333年(元弘3年)、14代目の北条高時(ほうじょう たかとき)が自害に追い込まれ、鎌倉幕府と北条家は滅亡しました。
その後も、高時の息子・北条時行(ときゆき)が、足利尊氏に反乱を起こすなどしていますが、成功しませんでした。
なお幕末の思想家・横井小楠(よこい しょうなん)は、北条時行の子孫を名乗り、家紋も北条家の蜜鱗を使用しています。
時行・小楠の活躍はこちらでまとめておりますので、以下のリンクからご確認ください。
北条氏の子孫については、以下のリンク記事で、詳しく解説いたしております。
北条時政の【死後に起こった出来事】とは?
北条時政の死後、鎌倉幕府は時政の息子・北条義時にひきいられ、後鳥羽上皇との戦争に勝利します。(承久の乱)
これにより、鎌倉幕府も日本も、完全に北条一族によって支配されることになります。
そして同時に、日本はそれまでの、朝廷と天皇そして公家が支配する国から、武士たちが支配する国へと生まれ変わるのです。
北条義時は、父・北条時政の死後、3代将軍・源実朝を暗殺し、鎌倉幕府をほぼ完全に支配します。
ところが、そんな幕府に対して不満をつのらせていた後鳥羽上皇が、北条義時を討伐するようにと、日本全国に命令を出すのです。
これに対して鎌倉幕府では、亡き源頼朝の妻・北条政子が、歴史に残る名演説をおこない、19万人もの味方が集結することになるのです。
対する後鳥羽上皇の軍団は2万。
後鳥羽上皇の軍団に圧勝した鎌倉幕府は、後鳥羽上皇を隠岐の島へ幽閉。
鎌倉幕府はその後、1333年に後醍醐天皇と足利尊氏に滅亡させられるまで、約100年のあいだ、北条時政の子孫たちに支配されることになります。
まとめ
この記事をまとめますと、以下の通り
この記事を短く言うと
1,北条時政の『死因』は?
腫瘍を原因とする病死。
2,北条時政が【亡くなった日時】は?
新暦1215年2月6日
旧暦建保3年1月6日
享年78歳
3,北条時政の【最後の様子】とは?
平家を見限って源頼朝を立て、鎌倉幕府の成立に貢献するも、後の権力掌握に失敗し、晩節を汚したまま死去。
4,北条時政の【最期の言葉】とは?
特に伝わっていない
5,北条時政の【子孫】とは?
北条家は代々鎌倉幕府の執権を務め、滅亡まで鎌倉を中心に政治を展開した。
幕府滅亡後も細々と生き続け、幕末には横井小楠が活躍した。
6,北条時政の【死後に起こった出来事】とは?
時政の死後、鎌倉幕府の3代将軍・源実朝は、時政の子・義時に暗殺され、鎌倉幕府は北条一族に支配されるようになる。
以上となります。
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