畠山重忠の【死因】や【最後の様子】について、短くまとめると、以下のとおりです。
- 畠山重忠の死因は、愛甲季隆という人物が放った矢
- 畠山重忠は、1205年(元久2年6月22日)7月10日に亡くなった
- 畠山重忠は、「我が心正しければ、この矢にて枝葉を生じ繁茂せよ」という言葉を残した
- 畠山重忠の子孫には、鎌倉幕府を滅亡させた新田義貞の部下・篠塚重広がいる
- 畠山重忠の死後、牧氏事件という歴史的事件が起こった
この記事では、畠山重忠の最期の様子について、ひと目で分かるようにまとめました。
畠山重忠の最期と死因について知りたい方にとって、この記事は必ずお役に立つはずです。
これを読んで、畠山重忠の最期についての疑問を、スッキリと解消していただければ幸いです。
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畠山重忠の【死因】と【最後の様子】
畠山重忠の【死因】
【結論】畠山重忠の死因は、愛甲季隆の矢を受けて首を取られたこと
畠山重忠の死因については、歴史書【吾妻鑑】には、愛甲季隆という人物が放った矢で亡くなったとされています。
しかし同時代の歴史書「愚管抄」によれば、畠山重忠は壮絶な戦闘の末に、自害したと記されているのです。
畠山重忠が【亡くなった日】と【享年】
【結論】西暦1205年(元久2年6月22日)7月10日、享年42歳
【畠山重忠の生涯と最期】をザッと解説
畠山重忠の生涯を、ハイライトでザッと解説いたします。
畠山重忠の誕生と源平合戦
畠山重忠は、1164年に、坂東八平氏の一つ秩父氏の一族に誕生しています。つまり畠山重忠は、平氏ということです。
元々畠山氏は、源頼朝の父・義朝の家来になっていたのですが、平治の乱で義朝が敗死すると、重忠の父・重能が平家の家来となり、20年ものあいだ忠実に仕えたのでした。
1180年、平治の乱で父・義朝を平家に殺害され、伊豆に幽閉されていた源頼朝が挙兵。
畠山重忠も、当初は頼朝と敵対していたものの、のちに頼朝に従って挙兵し、平家に戦いを挑んだのでした。(このとき敵対したことが原因で、畠山重忠は和田義盛らと違って、十三人の合議制には加われなかったと考えられている)
巴御前をご存知でしょうか?猛将・木曾義仲に従った怪力無双の女武者です。
重忠は宇治川の戦いで、木曾義仲軍にいた巴御前を相手に、一騎討ちをしているのです。巴御前は重忠にかなわないとみて、撤退しています。
1180年から1185年まで続いた、頼朝挙兵に始まり、平家が滅びるまでの戦乱に、重忠は参戦。
重忠はこの戦いに従軍し、木曾義仲や平家の軍団を相手にして、多くの功績をあげています
平家滅亡後
平家が滅亡したあと、畠山重忠は1189年の奥州合戦に参戦。
その後、1199年に源頼朝が亡くなると、重忠は妻の父・北条時政に協力するようになる
1200年、重忠は和田義盛や三浦義村とともに、梶原景時の不正を追求するために、66名の連判状に署名し、梶原景時を鎌倉幕府から追放。
1203年、比企能員の変でも、重忠は北条に味方して、比企一族を滅亡させています。
次々と有力なライバルを葬り去る北条一族。その牙が、ついに畠山重忠にも降り掛かることになるのです。
畠山重忠の最期!
1205年、畠山重忠は、北条義時がひきいた数万の軍団に、わずか130騎で戦い抜き、亡くなったといわれています。
比企が滅亡したあと、北条時政は重忠の領地がある武蔵国(現在の東京都・埼玉県)の責任者に就任。これ以降、時政と重忠は対立を深めることとなります。
そんなある日、重忠の息子・重保と、平賀朝雅という人物が、京都において口論を始めるという事件が起こりました。
平賀朝政をご存知でしょうか?畠山重忠と同じく、北条時政の娘を妻としている人物で、時政やその妻お牧の方は、とても気に入っていた人物だとか
この言い争いがあったという事実に激怒した時政は、畠山重忠にたいして謀反の疑いありという、討伐することを決意。
息子の北条義時・時房に、討伐を命じ、畠山重忠は義時がひきいた数万の軍団に包囲され、わずか130騎で奮戦するも、壮絶な戦死を遂げたのでした。
畠山重忠が最期に【残した言葉】とその意味を解説
【結論】畠山重忠が残した言葉は
「我が心正しければ、この矢にて枝葉を生じ繁茂せよ」
です
畠山重忠は、死の直前に「私の心が正しいものであるならば、この矢に枝や葉が生えて、豊かに茂ってくれ」といいながら、矢を地面に突き刺したといいます。
この矢からは根が生えて、そのうち「さかさ矢竹」と呼ばれるようになりました。
もちろんこの話は創作であると思います。
しかし、この逸話は、畠山重忠という人物が、どれほど清廉潔白であったかを物語るものなのでしょう。
畠山重忠の【子孫】は、どうなったのかを解説
【結論】畠山重忠の子孫には、南北朝時代の篠塚重広という人物がいる
畠山重忠には、鎌倉を攻撃し、鎌倉幕府を滅亡に追い込んだ武将・新田義貞の側近で、新田四天王のひとりとされる篠塚重広という武将がいるといわれています。
新田義貞は、足利尊氏や楠木正成と協力して、鎌倉幕府と北条氏を滅亡させた人物です。
また、畠山重忠の娘が、足利義純という武将に嫁いだという説があり、この説が本当であるとすると、のちの室町幕府で三管四職と呼ばれる7つの名家の一つである畠山家は、畠山重忠の末裔である可能性があるのだとか。
後北条氏をご存知でしょうか?
戦国時代に北条早雲から五代目・北条氏直まで、100年にわたって関東を支配した名門です。
畠山重忠の乱で、畠山重忠とともに戦い、安達景盛に討ち取られた息子・畠山重秀。
その重秀の子孫が、この後北条氏に仕えたといわれています。
余談ですが、北条義時から始まる鎌倉時代の北条一族と、北条早雲から始まる後北条氏は、血筋の繋がりはないというのが定説となっております。
畠山重忠の【死後に起こった歴史的な出来事】とは?
【結論】畠山重忠の死後、【牧氏事件】という事件が起こりました。
結論、畠山重忠が討たれた【畠山重忠の乱】がおわった2ヶ月後、【牧氏事件】とよばれる事件が勃発します。
牧氏事件とは、重忠を死に追いやった北条時政とその妻【お牧の方】が、息子である北条義時によって追放される事件のことです。
畠山重忠を謀反の罪で討伐するようにと、父・時政から命じられた義時は、「重忠が謀反など起こすはずがない」と父を説得するも、命令に背けず、大軍団で義兄弟である畠山重忠を討伐
ところが、討伐後に重忠に謀反を起こすつもりなどなかったことが発覚し、義時は激怒します。
義時の妹が畠山重忠に嫁いでおり、二人は年齢が一つしか違わなかったため、親しい間柄であったと考えられます。
しかも、御家人たちからも尊敬を集めていた畠山重忠を討ち果たしてしまったことで、北条時政は憎まれ、立場が危うくなっていったのです。
儒教をご存知でしょうか?孔子という人物が広めた哲学・思想のことですが、儒教には「子が親に歯向かったり、ましてや追放したり殺害したりするなど、断固としてあってはならない」という教えがあります。
当時の鎌倉時代の日本では、この儒教の思想が根付いていたと考えられるため、義時が父・時政を追放するなど、道徳にしたがえば絶対に許されない暴挙でした。
ところが、歴史上それが許されているのは、のちにその清廉潔白な生き方から【武士の鑑】と呼ばれる名将・畠山重忠を、父・北条時政が無実の罪で討伐してしまったためであると考えられます。
また、畠山重忠の乱から8年後の1213年、重忠の末の息子である【畠山重慶】という人物が謀反を疑われて殺害されています。
届けられた畠山重慶の首を見た三代将軍・源実朝は
「父の畠山重忠は、罪もなく討ち果たされた。
その息子がたとえ謀反を計画していようとも、突然討ち果たしてしまうとは何事か。
まずは本人に謀反の件を問いただし、審議をしてから罰するべきだろう」
と言って嘆いたといいます。
まとめ
この記事をまとめますと、以下の通り
この記事を短く言うと
1,畠山重忠の『死因』は?
死因は、矢を受けてのものといわれている。一説によると、自害したともいわれている。
2,畠山重忠が【亡くなった日時】は?
西暦1205年(元久2年6月22日)7月10日、享年42歳
3,畠山重忠の【最後の様子】とは?
最後の様子は、義兄・北条義時がひきいた数万の軍団に囲まれ、わずか130騎で奮戦し、壮絶な戦死を遂げた
4,畠山重忠の【最期の言葉】とは?
最後の言葉は「我が心正しければ、この矢にて枝葉を生じ繁茂せよ」
5,畠山重忠の【子孫】とは?
子孫には、鎌倉幕府を滅亡させた新田義貞の側近・篠塚重広がいる
6,畠山重忠の【死後に起こった出来事】とは?
死後に牧氏事件という事件が起こった。また、末の息子・畠山重慶が討ち果たされる事件が起こった
以上となります。
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