真田幸村(さなだ ゆきむら)の【死因】や【最後の様子】について、短くまとめると、以下のとおりです。
- 真田幸村の死因は、戦死。
- 亡くなったのは、1615年6月3日。
- 「大坂夏の陣」で負傷し、休んでいたところを討たれた。
この記事では、真田幸村の最後の様子について、ひと目で分かるようにまとめました。
真田幸村の最後と死因について知りたい方にとって、この記事は必ずお役に立つはずです。
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真田幸村(真田信繁)の【死因】と【亡くなった日】
真田幸村の【死因】
真田幸村(本名・真田信繁)は「大坂夏の陣」を戦い、休んでいるときに討ち取られたといわれます。
真田幸村が【亡くなった日】と【享年】
新暦:1615年6月3日
旧暦:慶長20年5月7日
享年:数えで49歳(46歳とする説もある)
真田幸村は最後にどうなった?
真田幸村は「大坂夏の陣」での徳川家康をおいつめるほどの激闘の末、大坂城近くの「安居神社」で休憩しているところを討ち取られたといわれています。
命日は、慶長20年5月7日(1615年6月3日)です。
そのとき、【大坂夏の陣】における、徳川家康と豊臣秀頼の勝負は、大詰めをむかえていました。
大坂夏の陣の最終決戦【天王寺・岡山の戦い】。
豊臣・徳川の両軍は、大坂城の南側で対峙。
あとがない豊臣軍は、敵方の総大将である徳川家康を討ち取ることで一発逆転を狙います。
戦いは正午ごろ、意図せぬ形ではじまりました。
豊臣軍の一部が徳川軍と小競り合いをはじめると、そのまま本格的な戦闘に発展してしまったのです。
これが原因となって、【相手を引き寄せて袋叩きにする】という豊臣方の作戦は失敗。
真田幸村も
「何事も全て食い違って、もうやることはない」
と嘆き、徳川軍と戦闘を開始しました。
「兵数は徳川軍の方が上で、豊臣軍ははじめから作戦に失敗した」ということを考えると、「大坂夏の陣」は徳川家康の勝利が決まっていたように思えます。
ところがこの一戦、家康にとって「人生で一二を争う危機」になります。
その立役者こそ、真田幸村(信繁)でした。
茶臼山に陣取っていた幸村は、徳川方の松平隊を射撃すると、統制が乱れたところへ突撃。
本陣の茶臼山から下山した勢いで、松平隊の後ろにあった藤堂隊まで突貫し、さらに後方の家康本陣に迫ったのです。
折しもこのとき「徳川方に裏切り者が出た!」というデマが飛び交い、徳川軍は動揺していました。
そこに真田がひきいる赤一色の鎧兜で身をつつんだ精鋭部隊「赤備え」が突撃してきたのです。
家康本陣は大混乱。
親衛隊は散り散りになり家康の馬印が倒されました。(馬印とは、言ってみれば大将旗のようなもの)
家康の馬印を倒した武将は、三方ヶ原の戦いで家康を追いつめた武田信玄と、この真田幸村のみ。
近くの旗を倒せるほどに、幸村の手勢は家康本人に接近したということです。
実際、真田幸村の猛攻に、家康は自害を覚悟したといいます。
しかし幸村の槍が家康の首に届くことは、ついにありませんでした。
再三突撃を繰り返した真田隊は、徳川方の井伊隊に側面を攻撃され敗走。
幸村自身は、茶臼山の北にある安居神社(大阪市天王寺区逢坂)で休憩をとります。
そのとき越前松平家の鉄砲頭・西尾仁左衛門(にしお じんざえもん)が幸村の姿を発見。
幸村は抵抗することなく、その首を討たせたと伝わっています。
真田左衛門佐信繁
(さなだ さえもんのすけ のぶしげ)。
後世、真田幸村の名で親しまれる名将は、49歳でその生涯に幕を閉じました。
真田幸村の【最期の言葉】とその意味とは?
「我々事などは、浮世にあるものとはおぼしめし候まじく候」
(私のことなどは、この世にあるものとはお思いにならないでください)
真田幸村は、姉の夫・小山田茂誠(しげまさ)に宛てた手紙のなかで、このように述べています。
手紙は「大坂夏の陣」の前に送られたとされていて、幸村が自らの死を悟っていたことを示す一言です。
一般的なイメージとは異なり、大坂城に現れた真田幸村は、すっかり老け込んでいました。
高野山での10年にも及ぶ軟禁生活で、身も心も参ってしまっていたのです。
きっと幸村は「散り際に一花咲かせよう」と決意していたのでしょう。
そして果たせるかな、見事な大輪が花開き、今日まで香っているのです。
真田幸村(信繁)の子孫の現在
真田幸村の末裔としては、「真田徹」さんが有名です。
真田幸村には10名をこえる子どもがいて、それぞれ別の生涯を送りました。
なかでも東北地方の武家と縁が深かったようです。
伊達政宗の重臣・片倉家は、幸村の次男・大八守信(だいはち もりのぶ)を保護したほか、三女・阿梅(おうめ)を、片倉重長の側室(のちに正室)に迎えています。
この大八守信にはじまるのが仙台真田家で、その末裔が真田徹さんです。
真田徹さんは、真田家の本拠地だった長野県上田市観光大使を務めるほか、真田家に関する書籍を発表しています。
また、幸村の三男・幸信は、姉・顕性院(岩城家当主の側室)を頼り、岩城家が藩主を務める出羽亀田藩士となりました。
真田の本家は幸村の兄・信幸が伝えていきますが、幸村の家系も現在まで続いているのです。
真田幸村の【死後に起こった出来事】とは?
「大坂夏の陣」は豊臣方の敗北で決着します。
真田幸村が撤退したころ、ほかの豊臣軍も劣勢に立たされていました。
機に乗じて態勢を立て直した徳川軍は、やがて豊臣軍を圧倒し大坂城に突入。
城からは火の手が上がり、大坂の夜空を照らしたと伝わっています。
翌日、豊臣秀頼や淀殿らは徳川軍に包囲されるなか自害。
幸村とともに参戦していた長男・真田大助幸昌も、秀頼とともに自殺しました。
ただし、幸昌が豊臣国松(くにまつ・秀頼の子)を連れて亡命したという伝承や、木下家(豊臣秀吉の義理の甥の家)に逃れたという言い伝えがあるそうです。
歴史ロマンのある話ですが、いずれも真偽のほどは分かっていません。
まとめ
この記事をまとめますと、以下の通り
この記事を短く言うと
1,真田幸村の『死因』は?
【戦死】
2,真田幸村が【亡くなった日時】は?
1615年6月3日(慶長20年5月7日)
享年:数えで49歳(46歳とする説もある)
3,真田幸村の【最後の様子】とは?
「安居神社」にて討たれた。
4,真田幸村の【最期の言葉】とは?
「我々事などは、浮世にあるものとはおぼしめし候まじく候」
5,真田幸村の【子孫】とは?
仙台真田家の「真田徹」さんが有名。
6,真田幸村の【死後に起こった出来事】とは?
「大坂夏の陣」に敗れた豊臣家が滅亡する。豊臣秀頼も淀殿も亡くなった。
以上となります。
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