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榊原康政の死因と最後をわかりやすく解説!子孫の現在とは?

榊原康政の【死因】や【最後の様子】について、短くまとめると、以下のとおりです。

  1. 榊原康政の死因は毛嚢炎もうのうえんという感染症
  2. 榊原康政は、西暦1606年6月19日(慶長11年5月14日)享年59歳で亡くなった
  3. 榊原康政が死ぬ前に、主君・徳川家康が江戸幕府を開いた
  4. 榊原康政は、【井伊直政が先に死んだら私も長くない】という言葉を残した
  5. 榊原康政には、徳川慶喜・榊原政信さんという子孫がいる
  6. 榊原康政の死後、大坂の陣という歴史的事件が起こった

この記事では、榊原康政の最期の様子について、ひと目で分かるようにまとめました。

榊原康政の最期と死因について知りたい方にとって、この記事は必ずお役に立つはずです。

これを読んで、榊原康政の最期についての疑問を、スッキリと解消していただければ幸いです。

専門サイト【最期と死因ドットコム】へようこそ。

どうぞ、ごゆっくりお過ごしくださいませ。



目次

榊原康政の【死因】と【最後の様子】

榊原康政の【死因】

【結論】榊原康政の死因は、【毛嚢炎もうのうえん】という感染症

毛嚢炎とは、細菌による感染症です。

この毛嚢炎は、ニキビのような出来物が、毛の根元に出来る病気です。

原因は黄色ブドウ球菌といわれています。

消毒薬・せっけんなどで洗ったり、抗生物質を投与するなどの治療が有効なようです。

当時の医学では、年老いた榊原康政を救う方法がなかったのでしょう。

榊原康政が【亡くなった日】と【享年】

【結論】西暦1606年6月19日(慶長11年5月14日)、享年59歳

慶長11年5月6日に毛嚢炎を患った榊原康政は、その8日後の5月14日に亡くなっています。


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榊原康政の子孫の現在

【結論】榊原康政の子孫には、徳川慶喜または榊原政信さんという方がいる

最後の将軍・徳川慶喜は、榊原康政の次女を通じた女系子孫にあたります。

徳川慶喜
引用元ウィキペディアより

榊原康政の子孫である榊原政信さんという方が、2011年に行われた浜松市の市政100周年イベントに出席しておられました。

このイベントには、徳川家康の子孫と、徳川四天王のそれぞれの子孫が出席していました。

  • 徳川家康の子孫である徳川恒孝とくがわつねたかさん
  • 酒井忠次の子孫である酒井忠久さかいただひささん
  • 榊原康政の子孫である榊原政信さかばらまさのぶさん
  • 井伊直政の子孫である井伊直岳いいなおたけさん
  • 本多忠勝の子孫である本多隆将ほんだたかゆきさん

榊原康政の子孫である榊原政信さんは、噂によれば企業経営者だそうです。

余談かもしれませんが、最後の将軍・徳川慶喜は、榊原康政の子孫であると同時に、本多忠勝の子孫でもあります。

→→→→→【本多忠勝の子孫の現在】についてくわしくはこちら

→→→→→【徳川四天王の子孫の現在】についてくわしくはこちら


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榊原康政の【生涯年表】

榊原康政の生涯年表は、以下の通りです。

1548年(1歳) 三河国上野郷(現在の愛知県豊田市上郷町)に生まれる
1560年(13歳) 小姓として松平元康に仕え始める
1566年(19歳)

元服し、旗本先手役に抜擢され、与力50騎を率いる

1570年(23歳) 姉川の戦いで武功を挙げる
1572年(25歳) 三方ヶ原の戦いで大敗

1581年(34歳)

高天神城の戦いで先陣を務める
1584年(36歳) 小牧・長久手の戦いで対立し、秀吉の甥・秀次の軍勢を壊滅させる
1586年(39歳) 家康の上洛に随行し、豊臣姓と従五位下・式部大輔の官位を与えられる
1590年(42歳) 小田原合戦に参加。その後、関東総奉行として活躍
1599年(51歳) 宇喜多家内紛(宇喜多騒動)の調停役を務める
1600年(52歳) 関ヶ原の戦いにて、徳川秀忠軍に従軍する
1603年(55歳) 近江国に在京料として五千石が加増
1603年(55歳) 徳川家康が征夷大将軍に就任し、江戸幕府を開く
1606年(59歳) 毛嚢炎の悪化により上野国・館林にて死去

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榊原康政が【残した言葉】とその意味を解説

【結論】榊原康政が残した言葉には

「私が井伊直政より先に死ぬことがあれば、必ず直政も病になる。逆に直政が先に亡くなれば、私の死も遠くはないだろう」

というものがある。

榊原康政は、同じく徳川四天王のひとりに数えられる井伊直政と、仲が良い親友であったといわれています。

井伊直政
引用元Wikipediaより

当初、家康からかわいがられていた井伊直政のことを、榊原康政は嫌っていたといいます。

しかし直政の尋常ではない仕事ぶりに対して、康政は感心し、心を入れ替えたのだとか。

その後、直政と仲良くなったといわれています。

「大御所(徳川家康)の心を知るものは、井伊直政と私だけだ」

とも言っていたといいます。

その井伊直政は、1600年の関ヶ原の戦いで、島津軍の銃撃を受けて負傷。

その傷が原因で、1602年に井伊直政は亡くなっています。

→→→→→【井伊直政の最期と死因】についてくわしくはこちら

榊原康政は、直政の子である井伊直孝に対して

「困ったことがあったらいつでも相談しなさい」

と言って、気にかけていたと言われています。

直政の死から4年後、榊原康政も亡くなります。

4年も経過しているので、予言した通りとはいきませんでした。

榊原康政の死によって、徳川四天王は本多忠勝ひとりを残して3名が亡くなったことになります。

→→→→→【本多忠勝の最期と死因】についてくわしくはこちら


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榊原康政の【死後に起こった歴史的な出来事】とは?

【結論】榊原康政の死後、【大坂の陣】という事件が起こりました。

榊原康政の死から8年後の1614年、2度の【大坂の陣】が起こり、豊臣家が滅亡しています。

1614年、方広寺鐘銘事件をきっかけに、徳川家康と豊臣秀頼・淀殿のあいだで、【大坂冬の陣】が起こります。

方広寺の鐘銘
左上が【君臣豊楽】
右下が【国家安康】

この戦いで、真田信繁(幸村)や毛利勝永らの活躍もあり、徳川と豊臣は和睦して戦いは終わります。

和睦の条件として、豊臣家が頼りにしていた日本最強の要塞・大坂城の堀が埋め立てられ、まったく無力化されてしまいます。

1615年、今度は大坂夏の陣が勃発。

大坂城という最強の防御兵器を失った豊臣家は、わずか数日で敗北。

豊臣秀頼と淀殿は亡くなり、戦国という混乱の時代は、ついに終わりを迎えたのでした。

1616年、平和を見届けた徳川家康は、その役目を終えたかのように、静かに亡くなりました。

→→→→→【豊臣秀頼の最期と死因】についてくわしくはこちら

→→→→→【淀殿の最期と死因】についてくわしくはこちら


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まとめ

この記事をまとめますと、以下の通り

この記事を短く言うと

 

1,榊原康政の『死因』は?

死因は毛嚢炎

 

2,榊原康政が【亡くなった日時】は?

西暦1606年6月19日(慶長11年5月14日)、享年59歳

 

3,榊原康政が【残した言葉】とは?

残した言葉は「井伊直政が先に死んだら、私の命も長くはない」

 

4,榊原康政の【子孫】とは?

子孫は、徳川慶喜または榊原政信さん。

 

5,榊原康政の【死後に起こった出来事】とは?

死後に大坂の陣という事件が起こった

以上となります。

本日は当サイトへお越し下さいまして誠にありがとうございました。

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ありがとうございました。

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