井伊直政の【死因】や【最後の様子】について、短くまとめると、以下のとおりです。
- 井伊直政の死因は、鉄砲傷または過労死
- 1602年3月24日(慶長7年2月1日)、享年42歳
- 「祈るぞよ 子の子のすへの 末までも まもれあふみの 国津神々」という辞世の句を残した
- 幕末の江戸幕府大老・井伊直弼。そして現在・井伊直岳さんという子孫がいる
- 死後、大坂冬の陣・夏の陣という歴史的事件が起こった
この記事では、井伊直政の最期の様子について、解説していきます。
「徳川四天王」や「井伊の赤備え」として名高い井伊直政。
まだ記憶に新しいかもしれませんが、大河ドラマ「おんな城主 直虎」で有名な井伊直虎(演:柴咲コウ)の義理の息子と言われています。
徳川家の四天王にまで上り詰め、徳川家の繁栄に大きく貢献した井伊直政の最期について、意外と知られていないのではないでしょうか。
これを読んで、知っていただければ幸いです。
専門サイト【最期と死因ドットコム】へようこそ。
どうぞ、ごゆっくりお過ごしくださいませ。
井伊直政の【死因】と【最後の様子】
井伊直政の【死因】
【結論】死因は銃創または過労死
結論から言うと、死因については主に2つの説が唱えられています。
1つ目は、鉄砲傷によるガス壊疽(えそ)が原因であるという説です。
詳細としては、関ヶ原の戦いの際に、逃走中の島津軍追撃中に足を狙撃され落馬したそうです。
治療は受けたものの、当時の外科手術では深く入り込んだ弾丸が取り出せず、これが腐食して毒素を発し、ガス壊疽を起こし死んだと考えられています。
2つ目は、大怪我を押してまで働き詰めていたことが原因の過労死説です。
井伊直政が【亡くなった日】と【享年】
【結論】1602年3月24日(慶長7年2月1日)、享年42歳
【井伊直政の生涯と最期】をザッと解説
生誕から出家まで
永禄4年(1561年)2月19日、今川氏の家臣である井伊直親の嫡男として生まれました。
父・直親は、直政の生まれた翌年の永禄5年(1562年)、謀反の嫌疑を受けて今川氏真に誅殺されました。
直政も今川氏に命を狙われましたが、今川家重臣の新野親矩が助命嘆願して、親矩のもとで生母・ひよと共に暮らすことになりました。
しかし、親矩も永禄7年(1564年)に戦死し、直政は各地を放浪します。
そして、最大の苦難の年である永禄11年(1568年)を迎えます。
この年、武田信玄が今川氏の本拠地駿府を襲撃しました。
その結果、井伊家の家老だった小野道好が今川氏真の命令として幼い直政を殺害し、自らが井伊谷の軍勢を率いて進撃すると言い出したのです。
直政を助けたい直虎や生母のひよは、やむなく虎松を出家させました。
このように、井伊直政は生まれて間もないころから苦難の連続であったことが分かります。
徳川家康との出会い
そんな直政に転機が訪れたのは、天正2年(1574年)に父・直親の13回忌のために龍潭寺という寺に来た時のことです。
この時、直政の関係者(生母ひよ・井伊直虎など)が相談して、徳川家康に仕えさせようとしたそうです。
その結果、天正3年(1575年)に直政は家康に見いだされ、井伊氏に復することを認められました。
さらに、旧領の領有を認められ、家康の小姓として取り立てられました。
家康に仕えるようになってすぐに、直政は武勇の面で頭角を現し始めます。
後に武田家臣団離反の一因になったされる高天神城の戦いの攻略を始めとして、武田氏との戦いで戦功を立てていきました。
天正10年(1582年)の本能寺の変では、伊賀越えに従って家康を守りました。
領土問題が起因となった北条氏との天正壬午の乱では、徳川方の交渉役を担当し、信濃と甲斐を徳川領に併呑することに成功しました。
このように、武勇だけではなく、外交面でも才能があったことが窺えます。
この時、武田家の旧家臣団を多数与えられ、一部隊を編成することとなりました。
そこで、山県昌景の朱色の軍装を継承し、「井伊の赤備え」が誕生しました。
天正11年1月11日、家康の養女である花と結婚します。
天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いで、井伊直政は初めて赤備えを率いて武功を挙げ、名を轟かせるようになりました。
天正14年(1586年)10月、家康が上洛し、豊臣秀吉に臣従すると、井伊直政の武勇・政治的手腕を秀吉は高く評価しました。
11月23日には、従五位下に叙位させ、豊臣姓を下賜したとされています。
このように、井伊直政は新参ながら数々の戦功を評価されています。
天正18年(1590年)の小田原征伐では、数ある武将の中で唯一夜襲をかけて小田原城内にまで攻め込んだ武将としてその名を知られています。
奥州仕置の九戸政実の乱でも仕置軍の先鋒を務めたそうです。
小田原征伐後、北条氏に代わって家康が江戸に入ると、井伊直政は上野国箕輪(群馬県高崎市)に徳川氏家臣団の中で最高の12万石で封ぜられました。
慶長3年(1598年)、井伊直政が番役として京都にいる家康のもとにいたときに秀吉が死去しました。
この後の政治抗争で、井伊直政は豊臣方の武将との交渉を引き受け、家康の味方に引き入れることに成功しています。
井伊直政の政治的手腕の高さがここでも表れています。
関ヶ原の戦いと最期
1600年(慶長5年)、ついに天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発しました。
結果は、東軍が勝利し、東軍による西軍への追撃が始まります。
井伊直政も本多忠勝や松平忠吉と共に追撃に出ました。
敗走する西軍の中で敵を切り抜けて退却するという行動に出た島津軍に対し、井伊直政は大将の島津義弘の目前まで迫ったと言われています。
ところが、島津軍の柏木源藤という者に足を狙撃され、落馬してしまったそうです。
戦後、井伊直政は戦いの最中に受けた銃弾の傷を癒す間もなく、戦後処理に従事します。
ここでも、井伊直政は外交手腕を発揮します。
まず、西軍総大将の毛利輝元との講和交渉役を担って、毛利氏の改易を回避しました。
次に、敗戦の将となった石田三成が捕縛された折には、石田三成を手厚く保護しました。
そして、西軍の真田昌幸と昌幸の次男真田幸村(真田信繁)の助命にも尽力したと言われています。
その結果、1601年(慶長6年)に石田三成の旧領・近江国佐和山(現在の滋賀県彦根市)18万石を与えられます。
しかし、関ヶ原の戦いから2年後の1602年(慶長7年)、井伊直政は佐和山城でこの世を去りました。
死因については主に2つの説があります。
ひとつは、関ヶ原の戦いで受けた鉄砲傷による破傷風や鉛中毒が原因であるという説です。
もうひとつは、大怪我を押してまで働き詰めていたことが原因の過労死説です。
どちらにしろ、関ヶ原の戦いが井伊直政の死因の大きな原因となったことが分かります。
【辞世の句】または【残した言葉】とその意味を解説
時世の句
【結論】井伊直政の辞世の句は
「祈るぞよ 子の子のすへの 末までも まもれあふみの 国津神々」
です
意味としては
「彦根初代藩主として願う。住む子々孫々までどうか守ってほしい、近江に根付く神様たちよ。」
と考えられています。
自身は早世したため、子々孫々は、長生きしてほしいと願ったのでしょうか。
その他にも、井伊直政が残した言葉は、有名なものとして2つあります。
残した2つの言葉
1つ目は
「生死の事大 無常は迅速なり」
です。
これは、禅宗の言葉で
「生きるか死ぬかは重大なことであり、人として生きる今でなければ悟りを開くことはできない。
過去や未来ではなく、人として生きている今が最も大切だ」
と解釈されています。
ではなぜこのような言葉を残したのか。
その理由は2つあるとされています。
井伊直政は、幼少期に寺院などを転々としていました。
その時に受けた説法が、のちの井伊直政の生き方や性情に大きな影響を与えたと考えられています。
そして、自他共に認める厳格な人柄であったと伝わっています。
一方で、他の武将からは優遇ぶりに対して嫉妬されていました。
そこで、他の家臣団を納得させるために、待遇の違いが依怙贔屓ではなく、文武の優秀さによるものであると示したかったためであると言われています。
そして、恩義のある直虎や生母、そして徳川家康に報いるためであったとも考えられています。
2つ目は
「捨てて苦しかるまじき敵と見ば、敵にてはあるまじと申すべし」
です。
「(捕虜として捕まえた相手を解放したとき)こちらに不利をもたらさないと見なした相手であれば、それは敵とは言わない(命を奪う必要はない)」
という意味です。
この言葉は、関ヶ原の戦い前後の行動によく表れていると思いませんか?
開戦前には、豊臣秀吉方の諸大名と交渉をして見事に味方に付けるなど、交渉術にも長けていました。
開戦後には、西軍総大将・毛利輝元や、捕縛された石田三成に対して手厚い対応をしています。
井伊直政は、以上に紹介した2つの言葉通りに生きた人生であったと感じさせます。
井伊直政の【子孫】は、どうなったのかを解説
【結論】井伊直政の子孫には、幕末の大老で井伊直弼という人物がいる
家督は長男の井伊直継(後の直勝)が継いだが病弱だったため、家康の直命により、直継は分家して上野安中藩主となりました。
そして、直継の弟・井伊直孝が、直政の家督を継ぐこととなり、以降は直孝の子孫が彦根藩主を継承することとなりました
直勝と改名した直継の子孫は、
- 安中藩主
- 三河西尾藩主
- 遠江掛川藩主
- 越後与板藩主
として存続していったそうです。
また、幕末に活躍した江戸幕府の大老・井伊直弼も子孫です。
井伊直弼は、桜田門外の変で暗殺されてしまったものの、西欧列強の圧力を冷静に分析し、開国して日本を守った英雄です。
そして現在も井伊直政の子孫は続いており、井伊直岳さんが、現在井伊家の当主を務めておられます。
井伊直政の【死後に起こった歴史的な出来事】とは?
【結論】井伊直政の死後、大坂冬の陣・夏の陣という事件が起こりました。
井伊直政の死後に起こった歴史的な出来事と言えば、大坂冬の陣・夏の陣でしょうか。
この戦いを境に、応仁の乱より断続的に続いていた大規模な戦闘の終焉をみたとされています。
これを元和偃武と言い、天下の平定が完了したことを広く宣言したと見られています。
まとめ
この記事をまとめますと、以下の通り
この記事を短く言うと
1, 井伊直政の死因は?
→2説あり、病死説と過労死説です。
2,井伊直政が亡くなった日時は?
→慶長7年(1602年)2月1日、享年42歳
3,井伊直政の最期の様子とは?
→1つ目は、関ヶ原の戦いで負った鉄砲傷が原因で生じた鉛中毒によって、病死したとされている説があります。
→2つ目は、関ヶ原の戦いで負った鉄砲傷をおして働いたことによる過労死説があります。
4,井伊直政の最期の言葉とは?
→井伊直政の辞世の句は、「祈るぞよ 子の子のすへの 末までも まもれあふみの 国津神々」です。
5,井伊直政の子孫とは?
→長男の直勝が分家となって、その子孫は安中藩主→三河西尾藩主→遠江掛川藩主→越後与板藩主として存続していったそうです。
→次男の直孝が家督を継ぎ、その子孫が彦根藩主を継承していったそうです。
6,井伊直政の死後に起こった出来事とは?
→大坂夏の陣・冬の陣という大事件が起こりました。
以上となります。
本日は当サイトへお越し下さいまして誠にありがとうございました。
よろしければ、また当サイトへお越しくださいませ。
ありがとうございました。
コメント