淀殿またの名を茶々の【死因】や【最後の様子】について、短くまとめると、以下のとおりです。
- 淀殿の死因は、自害。大坂城落城とともに自害した
- 亡くなったのは、1615年6月4日(慶長20年5月8日)
- 大坂夏の陣で徳川氏に敗れ、息子・豊臣秀頼や家臣たちとともに自害した
この記事では、淀殿の最後の様子について、ひと目で分かるようにまとめました。
淀殿の最後と死因について知りたい方にとって、この記事は必ずお役に立つはずです。
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淀殿(茶々)の【死因】と【亡くなった日】
淀殿の【死因】
淀殿は1615年の大坂夏の陣で、徳川家康に敗れ、息子・豊臣秀頼らとともに自害して果てました。
淀殿が【亡くなった日】と【享年】
新暦:1615年6月4日
旧暦:慶長20年5月8日
享年:生年が確定していないため不明
淀殿は、最後どうなったのか?
1615年、淀殿は【大坂夏の陣】で徳川軍に包囲されて亡くなります。
大坂城・山里丸の籾倉のなかで、豊臣秀頼らとともに自害したのでした。
淀殿は、浅井長政と、お市の方の娘です。
母・お市の方は、織田信長の妹なので、淀殿は織田信長の姪にあたります。
淀殿は母親の死後、すでに50代だった豊臣秀吉の側室となります。
秀吉は数多くの側室を抱えていましたが、どの妻との間にも子どもは生まれませんでした。
「このままでは豊臣家が途絶えてしまう」
そう頭を抱える秀吉のもとに一条の光が差します。
待望の実子の捨が生まれるのです。(捨は、のちに鶴松という名前に改名した)
秀吉は狂喜乱舞して、鶴松を後継者に指名します。
生母である淀殿は側室の身でありながら、豊臣家の後継者の母として、発言力を高めます。
ところが鶴松は病弱で、わずか満2歳で亡くなってしまうのです。
せっかく授かった男児を失い悲嘆に暮れる秀吉。
もう自分に子供は授からないだろうと考えた秀吉は、姉の子である豊臣秀次を養子として、後継者とします。
しかし、鶴松の死から2年後の1593年、ふたたび子宝に恵まれます。
それが拾、のちの豊臣秀頼です。
母は、やはり淀殿でした。
1598年、豊臣秀吉が死去。
豊臣秀頼の母親である淀殿は、秀頼の後見人として、秀吉の死後も豊臣家を主導することになります。
このとき、徳川家康にゆいいつ対抗できた大老・前田利家が、秀頼の傅役つまり後見人として君臨していました。
しかし、利家は秀吉のあとを追うかのように1599年に病死。
→→→→→【前田利家の死因と最期の様子】についてくわしくはこちら
秀吉が亡くなった2年後の1600年、徳川家康と石田三成のあいだで、関ヶ原の戦いが勃発。
勝利した徳川家康が、天下の主導権を掌握します。
江戸幕府をひらいた徳川家康は、征夷大将軍の座を、息子の徳川秀忠にゆずりました。
これは
「徳川家が将軍を代々世襲していく(豊臣家の時代は終わった)」
という、世の人々へのメッセージだったのです。
さらには家康が豊臣秀頼と淀殿に対し、江戸に来るように、と言いだします。
江戸は徳川家康のお膝元、つまり本拠地です。
【家来である徳川家康が、主人である豊臣秀頼を呼びつける】という暴挙に淀殿は激怒。
家康としては、天下を手に入れるために、形としては主君である秀頼を屈服させたかったのです。
徳川家と豊臣家は、ますます対立を深めました。
こうして高まる淀殿と家康との緊張は、1615年に【大坂夏の陣】という形で、ついに決着します。
大坂夏の陣では、いくつかの前哨戦を経たのち、豊臣軍と徳川軍が大坂城の南で衝突しました。
戦況ははじめこそ豊臣軍が有利でしたが、次第に押し返されてしまいます。
ついには大坂城に徳川軍が突入。
それに加えて城内の裏切り者が放火し、大坂城は火に包まれました。
淀殿は家臣の説得で豊臣秀頼らとともに逃亡しますが、徳川軍に包囲されてしまいます。
豊臣方は【秀頼と淀殿の助命】を徳川方に懇願します。
しかし願いは叶えられず、淀殿らは徳川軍の攻撃を受けるなか自害しました。
亡くなった場所は、大坂城の山里丸(城の区画の一つ)の籾倉の中だったといわれています。
→→→→→【千姫の最期と死因・子孫のゆくえ】についてくわしくはこちら
→→→→→【淀殿の生涯!秀頼の実父は誰?】についてくわしくはこちら
→→→→→【淀殿は美人だったのか?】についてくわしくはこちら
淀殿の【辞世の句】とその意味とは?
淀殿の辞世の句や遺言は伝わっていません。
ただ【醍醐の花見】で詠んだ歌が残っています。
その意味は、【あなた(秀吉)との穏やかな日々が続きますように】というものです。
醍醐の花見は、1598(慶長3)年3月15日に豊臣秀吉が催した大規模な桜の花見です。
京都の醍醐寺で開催され、秀吉の近親者から諸大名とその妻や家臣まで、数百人が参加したといいます。
このとき淀殿は、
- はなもまた 君のためにとさきいでて 世にならひなき 春にあふらし
(桜もまたあなた〔秀吉〕のために咲いています。世に並ぶもののない春となるでしょう)- あひをひの 松も桜も八千世へん 君かみゆきのけふをはしめに
(〔松と桜を夫婦に見立てて〕松も桜も仲良く長い時をともにするでしょう。あなたがいらした今日をはじめとして)
と詠みました。
なんとも和やかな雰囲気の歌です。
「このひと時がずっと続けば良い……」
淀殿はあるいはそう思ったかもしれません。
しかし秀吉はその直後から、病状が急激に悪化します。
同年8月半ばに息をひきとってしまうのです。
それは豊臣家の【終わりのはじまり】でもありました。
淀殿の【子孫】は、どうなったのか?
淀殿の子孫は、秀頼が亡くなった直後に断絶しています。
秀頼の子である国松丸が、家康と秀忠によって処刑されているのです。
- 捨(鶴松)
- 拾(秀頼)
という二人の息子を産んだ淀殿でしたが、二人とも若くして亡くなり、子孫は断絶しています。
秀頼には、何人かの子供がいましたが、その子供たちも子孫を残さず亡くなっています。
捨またの名を鶴松は、秀吉待望の一子でした。
大喜びの秀吉は生母である淀殿にたいして、淀城というお城を与えます。
この淀城こそ、淀殿という呼び名の由来です。
生後すぐに後継者に指定された鶴松は、淀殿とともに大坂城に入ります。
その際は家臣や公家、さらには天皇からも数々の贈り物がなされたといいます。
御輿に乗った鶴松が、大行列のなか大坂城に入城しました。
捨という名は、【捨て子はよく育つ】という迷信から名づけられたといわれています。
(捨は、産まれてすぐに寺の前に捨てられ、それをすぐ秀吉の家臣が拾うという儀式を行ったという)
しかし鶴松は病弱で、その後は病気と快復を繰り返しました。
秀吉は全国の寺社に祈祷をさせ、さらには名医の力を結集して、鶴松の治療に尽力します。
しかし結局、鶴松は2歳の若さでこの世を去ります。
続いて生まれた拾こと豊臣秀頼は、豊臣家中に波乱を巻き起こします。
鶴松の死後、秀吉は甥の豊臣秀次を後継者に指名します。
しかし秀頼が生まれると、甥の秀次を謀反の疑いをかけて処刑してしまうのです。
実子を後継者にするための濡れ衣だったといわれています。
一方、後継者候補の一人だった秀吉の甥・羽柴秀俊は、大老・小早川隆景の養子となります。
秀吉による羽柴秀俊の処刑・粛清を警戒した黒田官兵衛の機転がきっかけでした。
この小早川秀俊(秀秋)と名を改めた彼こそが、豊臣家に仇なす存在となるのです。
1600年、関ヶ原の戦いでの、小早川秀秋の徳川家康への寝返りが、東軍(徳川軍)を勝利に導いたのです。
この関ヶ原の戦いを境にして、徳川氏が豊臣氏を圧倒するようになります。
つまり、見方によれば豊臣氏は、身内である小早川秀秋の裏切りによって滅びたともいえます。
(裏切りではなくもともと徳川家康の味方だったという説もある)
このように、豊臣秀頼は生まれながらにして将来に禍根を残してしまいました。
秀頼の生涯はやはり短く、23歳のとき淀殿らとともに自害しています。
秀吉の栄華の象徴であった大坂城とともに、秀頼と淀殿は燃え尽きました。
→→→→→【淀殿とは、どんな人なのか?】についてくわしくはこちら
実は、秀頼には側室とのあいだに子供がいました。
淀殿の孫にあたる人物です。
- 国松丸
- 天秀尼
- 求厭
長男・国松丸は、大坂夏の陣の直後に幼くして処刑されています。
天秀尼という娘もいましたが、その娘は助命され、秀頼の正室・千姫の養女として出家。
現在の神奈川県にある東慶寺という、縁切寺で有名なお寺で生涯を終えました。
また、求厭という人物が、臨終間際に「自分は豊臣秀頼の子だ」と言ったということですが、真相は不明です。
淀殿の【死後に起こった出来事】とは?
淀殿の死の翌年の1616年に徳川家康も亡くなり、徳川秀忠たち次世代の手で、太平の世が切り拓かれていきます。
江戸幕府は徳川家康によって1603年にひらかれますが、まだ万全の状態ではありませんでした。
基礎を固める必要があったのです。
豊臣家は家康にとって、【いずれどうにかせねばならない存在】だったでしょう。
しかし家康は淀殿との権力闘争に勝った挙句、大坂の陣で豊臣氏を滅ぼしてしまいました。
豊臣氏の滅亡により江戸幕府による支配は、ますます強力になります。
それに安心したのか、家康は大坂の陣の翌年の1616年に永眠。
信長・秀吉・家康の三英傑がこの世を去り、時代は新しい世代に明け渡されたのです。
まとめ
この記事をまとめますと、以下の通り
この記事を短く言うと
1,淀殿の『死因』は?
【自害】
2,淀殿が【亡くなった日時】は?
1615年6月4日(慶長20年5月8日)
享年:生年が確定していないため不明
3,淀殿の【最後の様子】とは?
大坂城内にて息子の豊臣秀頼らとともに自害した。
4,淀殿の【辞世の句】とは?
伝わっていない。
5,淀殿の【子孫】とは?
2人の男子がいたが、いずれも若くして亡くなった。
6,淀殿の【死後に起こった出来事】とは?
徳川家康もまもなく亡くなり、次の世代が時代を切り拓いていく。
以上となります。
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