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前田利家の死因と最期をわかりやすく解説!子孫の現在とは?

前田利家まえだとしいえの【死因】や【最後の様子】について、短くまとめると、以下のとおりです。

  1. 前田利家の死因は病気。消化器官のガン
  2. 没年月日・西暦1599年4月27日(慶長4年うるう3月3日)享年62歳

  3. 利家は死ぬ前に秀頼の後見として大坂城に君臨した
  4. 「閻魔を相手に戦してやる」という言葉を残した
  5. 天皇陛下は前田利家の子孫にあたられる。他にも前田利祐としやすさんという子孫がいる
  6. 利家の死後、関ヶ原の戦い・大坂の陣という歴史的事件が起こった

この記事では、前田利家の最期の様子について、ひと目で分かるようにまとめました。

前田利家の最期と死因について知りたい方にとって、この記事は必ずお役に立つはずです。

これを読んで、前田利家の最期についての疑問を、スッキリと解消していただければ幸いです。



専門サイト【最期と死因ドットコム】へようこそ。

どうぞ、ごゆっくりお過ごしくださいませ。

目次

前田利家の【死因】と【最後の様子】

前田利家の【死因】

【結論】前田利家の死因はがん

前田利家の死因は、ガンであったといわれています。

ただ、どの部位のガンで亡くなったのかは不明です。

ただし、利家はずっと腹痛を持病にしていたといいます。

もしかすると、消化器官のガンだったのではないかといわれています。

前田利家が【亡くなった日】と【享年】

【結論】西暦1599年4月27日(慶長4年うるう3月3日)享年62歳

前田利家は、大坂城にあった自分の邸宅で亡くなりました。


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前田利家の生涯と最期】をザッと解説

前田利家の生涯を、ハイライトでザッと解説いたします。

生い立ちから信長の死まで

1539年、前田利家は、尾張国おわりこく海東郡荒子村あらこむら(現在の愛知県名古屋市中川区荒子)で生まれました。

利家の生まれた前田家は、地元の土豪【荒子前田家あらこまえだけ】。利家の父は前田利昌まえだとしまさです。

若い頃の利家は短気で喧嘩っ早く、派手な格好の若者だったといいます。

利家は小姓として、戦国大名・織田信長おだのぶながに仕えました。

織田信長
引用元ウィキペディアより

その後、信長が弟の織田信勝おだのぶかつと戦った【稲生いのうの戦い】などで功績を挙げ、槍の名手としてその名を轟かせます。

これ以降、通称・又左衛門またざえもんと呼ばれていた利家は、【槍の又左】と呼ばれるようになります。


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赤母衣衆あかほろしゅう(織田家の精鋭部隊)の筆頭に抜擢された利家は、信長直属精鋭部隊の一員としてその後も順調に活躍。

利家は数々の合戦で戦功を上げ、信長からの信任を受けて出世しました。

後に北陸方面軍司令官・柴田勝家しばたかついえ与力よりき(応援部隊)となり、北陸地方の平定に従事しました。

柴田勝家
引用元Wikipediaより

越前一向一揆の鎮圧などで活躍し、府中10万石を与えられ、佐々成政や不破光治ふわみつはるとともに「府中三人衆ふちゅうさんにんしゅう」と呼ばれました。

1581年、利家は信長から能登のと国(石川県北部)を与えられ、能登の国主に就任。

小丸山城こまるやまじょうを築城し、石川県一帯を支配する大名となりました。

1582年、本能寺の変が勃発。明智光秀あけちみつひでによって信長が討たれてしまいます。

本徳寺所蔵の明智光秀肖像:Wikipediaよりパブリックドメイン

このとき利家は、柴田勝家に従って越中・魚津城を攻撃していたため、羽柴秀吉はしばひでよしによる明智光秀討伐戦(山崎やまざきの戦い)に参加できませんでした。


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賤ヶ岳の戦いから秀吉の死まで

本能寺の変の11日後、明智光秀が羽柴秀吉によって山崎の戦いで討たれると、秀吉は一気に天下人へとのしあがります。

豊臣秀吉
ウィキペディアより引用

利家は清洲会議きよすかいぎで羽柴秀吉と柴田勝家の間で揺れ、当初は柴田勝家に味方しました。

一方、秀吉と若い頃から仲良しだったことや、領地が秀吉の支配地域と近かった関係から、秀吉と勝家のあいだで苦悩したといいます。

利家は山崎城に住んでいた秀吉と和議の交渉を行い、秀吉と勝家の関係を改善しようとしたといいます。

1583年、賤ヶ岳しずがたけの戦いでは柴田軍として布陣した利家でしたが、戦わずして撤退。

利家の撤退は、羽柴軍の勝利を決定づけてしまいました。

利家は越前の府中城に帰還。

柴田勝家が逃げる途中に対面し、湯漬ゆづけを提供して、裏切りの印象を薄めたのだとか。

結局、利家は秀吉に降伏。

このとき秀吉は、ただ1人で利家の城を訪れて口説き落としたといいます。


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秀吉に味方して柴田勝家攻撃の先陣をつとめた利家の本領は安堵あんどされ、さらに加賀国(石川県南部)に領土が加増されました。

こうして利家は、のちの加賀百万石の本拠地・金沢城に入城したのです。

1584年、秀吉と徳川家康のあいだで小牧こまき長久手ながくての戦いが勃発。

徳川家康
引用元ウィキペディアより

この戦いでも利家は活躍し、上杉景勝うえすぎかげかつ軍と協力して越中の佐々成政の軍を撃破。

1590年、小田原合戦と奥州仕置おうしゅうしおきにより、豊臣秀吉が天下統一を達成。

利家は名護屋城なごやじょうの築城に参加し、1592年の朝鮮出兵・文禄ぶんろくの役にも出陣しました。

利家は家康と共に諸将を指揮し、政務を担当。

家康と並ぶ五大老ごたいろうの筆頭として豊臣秀吉の政権を補佐したのです。

1598年、豊臣秀吉死去。

利家は秀吉の死後、息子の豊臣秀頼とよとみひでよりの将来を託されました。

豊臣秀頼
Wikipediaより引用

こうして前田利家は、大坂城に入城し、豊臣秀頼の傅役もりやくつまり後見人として、大坂城の実質的な主として君臨したのです。

これは、豊臣秀吉が織田信長の後継者・三法師さんほうしの後見人となったことと、同じ意味をもっていたと考えられます。


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前田利家の最期

秀吉の死後、徳川家康は天下への野心をさらけ出して動き始めます。

家康は秀吉が生前に定めた法律に反し、伊達政宗だてまさむね福島正則ふくしままさのり蜂須賀家政はちすかいえまさら有力大名と、勝手に婚姻こんいんでの関係強化を進めたのでした。

伊達政宗
引用元ウィキペディアより

利家はこれに反発。

諸大名が、家康と利家のそれぞれの屋敷に集結し、緊張が高まりました。

利家には多くの支持者がおり、家康の側につく武断派ぶだんはとの対立が勃発。

このとき、利家の方が優勢であったといわれています。

しかし、家康と利家を含む主要な人物のあいだで和解が成立。

この直後、利家の健康状態が悪化。

家康が利家の邸宅を訪問して病気見舞いを行ったのでした。

この時、利家は布団の中に刀を忍ばせ、隙あらば家康を討つつもりだったという逸話が残っています。

1599年4月27日(慶長4年閏3月3日)、前田利家は大坂の自邸で病没しました。

享年62歳。

利家の死後、前田家は家康に討伐されかけますが、利家の妻・まつが、家康のもとへ人質となるため江戸へ出向き、前田家は救われました。


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前田利家の【辞世の句】または【残した言葉】とその意味を解説

【結論】前田利家が最期に残した言葉は、以下の通り

「俺は義理のたたない戦は一度もしたことがない。

俺が地獄行きなら、閻魔と合戦してやる。

(妻のまつが渡した帷子かたびらに対して)それはお前があとからかぶって来い」

前田利家の辞世の句は、不明です。調査しましたが、存在しているのかどうかわかりませんでした。

ただ、その代わりに利家は最後に、自分のこれまでの生涯に悔いはない、という意味の言葉を残したとされています。

利家の妻・まつは、夫の最期のときに、経帷子きょうかたびらを塗って渡したといいます。

「あなたはこれまで戦でたくさんの人を討ってきました。

そのため、地獄へ行くでしょうから、これを着ていってください」

経帷子とは、最期のときに身につける衣装のことです。

それを聞いた利家は、笑って言いました。

「俺はこれまで、理由もなく人を討ったりしたことはない。

だから地獄行きなはずがない。

もしも地獄行きだというのなら、閻魔を相手にいくさしてやる。

その経帷子は、お前があとからかぶってこい」

諸説あるものの、一説によると利家はその後あまりの腹痛に耐えられず激怒。

武士らしく切腹して亡くなったといわれています。

これを聞いた徳川家康は、「あっぱれ」と褒め称えたのでした。

その後、利家がつくりあげた加賀百万石は、徳川幕府のもと最大の大名として、1868年の明治維新めいじいしんまで続くことになります。

また、利家は家康を最後まで警戒していたという逸話もあります。

利家は、自分の死後に息子の前田利長が、家康に攻められることを予想して、遺言を残しているのだとか

→→→→→【家康を警戒した前田利家の遺言】についてくわしくはこちら


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前田利家の子孫の現在

【結論】前田利家の子孫には、現在の天皇陛下。そして前田利祐まえだとしやすさんという方がおられる

天皇陛下

前田利家の子孫としてもっとも有名なのは、現在の天皇陛下です。

利家の娘・千世は、細川忠興ただおきの息子・忠隆ただたかと結婚。

1600年の関ヶ原の戦いで、千世は夫・忠隆の母親である細川ガラシャの自害をとめられなかったのでした。

明智光秀の娘・ガラシャを見殺しにしたことに激怒したのが、ガラシャの夫・細川忠興です。

激怒した忠興は、千世と息子・忠隆を離婚させ、前田家へ送り返したのです。

細川家には、千世が産んだ娘のとく姫が残されていました。

この千世の血筋が皇族へ繋がっているのです。

千世の子孫である正親町雅子おおぎまちなおこが、幕末の孝明天皇こうめいてんのうを出産。

孝明天皇
引用元ウィキペディアより

孝明天皇から明治天皇・大正天皇・昭和天皇から現在の天皇陛下へとその血筋がつながっているのです。


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前田家18代当主・前田利祐まえだとしやす

前田家の18代目当主・前田利祐さんは、2023年に前田家の家督を息子の利宜としたかさんに家督をゆずっておられます。

前田利祐さんは、血筋からすれば

  • 徳川家康
  • 毛利元就
  • 島津義弘
  • 浅井長政
  • 織田信秀(織田信長の父)
  • 鍋島直茂

など、数多くの名将の子孫にあたられます。

徳川家18代当主にあたられる徳川恒孝とくがわつねたかさんは、前田利祐さんの学習院大学および日本郵船の5年後輩にあたられます。

当時、日本郵船の上司だった方が、前田さんと徳川さんを怒鳴りつけて

「前田と徳川を呼びつけるなんて、太閤さま(豊臣秀吉)以来オレだけだ」

と言っていたようです。

ちなみに、前田さんは徳川家康の子孫でもあります。

ですので、徳川家康の子孫である徳川恒孝さんとも、遠い親戚ということになります。

ちなみに徳川恒孝さんは、幕末の会津藩主・松平容保まつだいらかたもりの子孫であり、養子として徳川家の家督を継承したとのことです。

松平容保
引用元ウィキペディアより

これも余談になりますが、徳川恒孝さんのいとこは、宇宙探査機「はやぶさ」で有名な上杉邦憲さんです。

上杉邦憲さんは、上杉景勝や北条氏康・武田信虎・石田三成、さらには吉良上野介など、歴史上の有名人を数多く先祖にもつお方です。

前田利家の【死後に起こった歴史的な出来事】とは?

【結論】前田利家の死後、関ヶ原の戦い・大坂の陣という事件が起こりました。

1600年・関ヶ原の戦い

1599年、利家が亡くなった翌年1600年、関ヶ原の戦いが勃発します。

前田利家という最大のライバルがいなくなったことで、家康が天下統一に動き出したのです。

家康は、前田利家の息子・前田利長を屈服させると、次に五大老のひとり上杉景勝を討伐対象として出陣します(会津征伐)

会津へ出陣した家康の隙を突いて石田三成が挙兵。

石田三成
引用元ウィキペディアより

毛利輝元や宇喜多秀家とともに、徳川打倒を画策したのでした。

会津から戻ってきた徳川家康と石田三成が、関ヶ原で激突。

勝利した家康は、豊臣秀頼の力を削ぎ落とします。

天下人から65万石の大名へ格下げとなった秀頼は、その後徐々に没落していくのでした。


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1614〜1615年・大坂の陣

1614年、徳川家康と秀頼の間で、方広寺鐘銘事件ほうこうじしょうめいじけんが勃発します。

→→→→→【方広寺鐘銘事件】についてくわしくはこちら

これをきっかけにして、大坂冬の陣が勃発。

大坂城に籠城した豊臣秀頼の軍団を、徳川家康の大軍団が包囲。

真田信繁(幸村)たちの活躍もあり、戦いは一進一退だったものの、講和により一時的に戦いは止まります。

真田信繁/真田幸村肖像:上田市立博物館所蔵品:Wikipediaよりパブリックドメイン

家康の側室・阿茶局あちゃのつぼねが交渉役をつとめたこの講和条件には、大坂城の堀を埋めるという条件がありました。

そのため、大坂城は堀を埋められ、天下無敵だった防御力を失います。

1615年、堀を埋め返えして再び徳川と戦おうとした豊臣軍に対して、家康は再び挙兵。

勝ち目のない戦いに引きずり込まれた豊臣秀頼は、母・淀殿とともに大坂城で自害。

淀殿(茶々)
引用元ウィキペディアより

もしも前田利家が、生前に本気で家康と戦うつもりになっていたら、可能性は低いものの、歴史は変わっていたのかもしれません。


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まとめ

この記事をまとめますと、以下の通り

この記事を短く言うと

 

1,前田利家の『死因』は?

死因は病気。消化器官のガンといわれている

 

2,前田利家が【亡くなった日時】は?

西暦1599年4月27日(慶長4年うるう3月3日)

享年62歳

 

3,前田利家の【最後の様子】とは?

最後の様子は、妻からの経帷子をことわって、切腹したともいわれている。

 

4,前田利家の【最期の言葉】とは?

最後の言葉は「俺は理由もなく人を討ったことはないので、地獄行きになるというなら閻魔を相手に戦してやる」

 

5,前田利家の【子孫】とは?

子孫は天皇陛下と前田利祐さん

 

6,前田利家の【死後に起こった出来事】とは?

死後に関ヶ原の戦いと大坂の陣という事件が起こった

以上となります。

本日は当サイトへお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当サイトへお越しくださいませ。

ありがとうございました。

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