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千姫の死因と最後をわかりやすく解説!子孫の現在とは?

千姫せんひめの【死因】や【最後の様子】について、短くまとめると、以下のとおりです。

  1. 千姫の死因は、肺炎
  2. 亡くなったのは、西暦1663年3月11日(寛文6年2月6日)、享年70歳
  3. 死ぬ前に、明暦の大火が起こり、復興に尽力にした
  4. 辞世の句は残されていない
  5. 千姫には、徳川慶喜という子孫がいる
  6. 死後、孫にあたる徳川家宣が6代将軍に就任した

この記事では、千姫の最期の様子について、ひと目で分かるようにまとめました。

千姫の最期と死因について知りたい方にとって、この記事は必ずお役に立つはずです。

これを読んで、千姫の最期についての疑問を、スッキリと解消していただければ幸いです。



専門サイト【最期と死因ドットコム】へようこそ。

どうぞ、ごゆっくりお過ごしくださいませ。

目次

千姫の【死因】と【最後の様子】

千姫の【死因】

【結論】千姫の死因は、肺炎

千姫は病死しています。

その死因は肺炎といわれています。

生前から肺を病むことが多かったらしく、弟・徳川家光は、何度も姉のお見舞いをしていたといわれています。

明暦の大火と呼ばれる、江戸城を焼失させた大火事が起こった10年後、千姫は亡くなっています。

この明暦の大火からの復興に、千姫は尽力したといわれています。

千姫が【亡くなった日】と【享年】

【結論】西暦1663年3月11日(寛文6年2月6日)、享年70歳


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千姫の子孫の現在

【結論】千姫の子孫には、江戸時代幕末の徳川慶喜という人物がいる

千姫の血筋は、幕末に活躍した最後の将軍・徳川慶喜につながっています。

徳川慶喜
引用元ウィキペディアより

千姫と、再婚相手の本多忠刻ほんだただときのあいだには、長女・勝姫が生まれました。(本多忠刻は、徳川四天王のひとり・本多忠勝の孫)

この勝姫の血筋が水戸徳川家につながり、徳川慶喜へと引き継がれているのです。

また、本多忠刻の母親である熊姫は、松平信康の次女にあたります。

松平信康とは、徳川家康の長男であり、母・築山殿と共に父から自害を命じられた悲劇の武将です。

つまり徳川慶喜は、松平信康の子孫でもあり、千姫の子孫でもあるというわけです。

徳川慶喜の現在の子孫は、徳川慶喜家の五代目当主・山岸美喜さんというお方です。

山岸美喜さんは、千姫の子孫にあたられるのは当然ですが、松平信康や、その母である築山殿の子孫でもあるのです。

【千姫の生涯年表】

慶長2年(1597年) 徳川秀忠とその正室・江の長女として生まれる
慶長8年(1603年) (6歳) いとこの秀頼と結婚し、大坂城に入る。この直前に祖父・家康が征夷大将軍に就任
慶長20年(1615年) (18歳) 大坂夏の陣で大坂城から救出される。豊臣家滅亡。秀頼と側室の娘・天秀尼を養女にし、命を助ける。
元和2年(1616年) (19歳) 本多忠刻と結婚。坂崎直盛による強奪計画が発覚。
元和3年(1617年) (20歳) 桑名城に着く。
元和4年(1618年) (21歳) 播磨姫路に移り、長女・勝姫(池田光政正室、池田綱政生母)を出産。
元和5年(1619年) (22歳) 長男・幸千代が生まれる。
元和7年(1621年) (24歳) 幸千代が3歳で没す。夫・忠刻、姑・熊姫、母・浅井江が次々と亡くなる。
寛永3年(1626年) (29歳) 江戸城に入り、出家して天樹院と号す。
寛永5年(1628年) (31歳) 娘・勝姫が池田光政の元へ嫁ぐ。
寛永9年(1632年) (35歳) 父・秀忠が亡くなる。
寛永16年(1639年) (42歳) 外孫・池田綱政が誕生。
寛永20年(1643年) (46歳) 養女である天秀尼が住む東慶寺の伽藍を再建。
正保元年(1644年) (47歳) 家光の側室・夏と共に暮らし始める。綱重を養子にし、大奥の発言権を持つ。
明暦3年(1657年) (60歳) 明暦の大火で邸が焼失し、叔父の徳川頼宣の屋敷に一時寄留。
寛文6年(1666年)

(70歳) 江戸で死去。享年70。死因は肺炎とされる。


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千姫の【辞世の句】または【残した言葉】とその意味を解説

【結論】千姫の辞世の句は残されていない

千姫の【死後に起こった歴史的な出来事】とは?

【結論】千姫の死後、養子・徳川綱重の子・徳川家宣とくがわいえのぶが6代将軍に就任。

千姫が亡くなってから、約40年後の1709年に、孫にあたる徳川家宣が6代将軍に就任しています。

弟・徳川家光の次男・徳川綱重は、千姫の養子です。

その綱重は、若くして病死していますが、綱豊つなとよという息子を残していきました。

この綱豊が、子供ができなかった叔父の5代将軍・徳川綱吉の養子になって、6代将軍に就任しています。

将軍就任と同時に、綱豊から家宣へと改名し、庶民が苦しんだという生類憐みの令を撤廃しています。

ちなみに、なぜ綱重が千姫の養子になったのかというと、綱重が生まれた年は父・家光の厄年であったためです。

災厄を避けるために、千姫の養子になったとのことです。

徳川家宣は、大変な勉強家で、学者将軍と呼ばれるほどの逸材だったといわれています。


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まとめ

この記事をまとめますと、以下の通り

この記事を短く言うと

 

1,千姫の『死因』は?

死因は、肺炎

 

2,千姫が【亡くなった日時】は?

西暦1663年3月11日(寛文6年2月6日)、享年70歳

 

3,千姫の【最後の様子】とは?

最後の様子は、江戸で息を引き取った

 

4,千姫の【最期の言葉】とは?

辞世の句または最後の言葉は、残されていない

 

5,千姫の【子孫】とは?

子孫は、最後の将軍・徳川慶喜

 

6,千姫の【死後に起こった出来事】とは?

死後に、孫にあたる徳川家宣が征夷大将軍に就任した。

以上となります。

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