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織田信雄の死因と最後をわかりやすく解説!子孫のゆくえとは?

織田信雄の【死因】や【最後の様子】について、短くまとめると、以下のとおりです。

  1. 織田信雄の死因は老衰または病死
  2. 織田信雄は、1630年4月30日(寛永7年2月30日)、享年73歳
  3. 織田信雄が死ぬ前に、大坂の陣で豊臣から徳川へ寝返った
  4. 織田信雄は、辞世の句または言葉を残していない
  5. 織田信雄の子孫は、現在の天皇陛下
  6. 織田信雄の死後、島原の乱という歴史的事件が起こった

この記事では、織田信雄の最期の様子について、ひと目で分かるようにまとめました。

織田信雄の最期と死因について知りたい方にとって、この記事は必ずお役に立つはずです。

これを読んで、織田信雄の最期についての疑問を、スッキリと解消していただければ幸いです。



専門サイト【最期と死因ドットコム】へようこそ。

どうぞ、ごゆっくりお過ごしくださいませ。

目次

織田信雄の【死因】と【最後の様子】

織田信雄の【死因】

【結論】織田信雄の死因は、詳細不明

老衰あるいは老衰に伴う病気ではないかといわれています。

1615年に徳川家康から引退料のような形で、大和国宇陀郡など5万石の領地を与えられます。

その後は「茶の湯、文学、芸術、鷹狩り」などを楽しみ、悠々自適に引退生活を送っていました。

織田信雄が【亡くなった日】と【享年】

【結論】1630年4月30日(寛永7年2月30日)、享年73歳

京都の自宅である北野邸で亡くなります。


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【織田信雄の生涯と最期】をザッと解説

織田信雄の生涯を、ハイライトでザッと解説いたします。

出生から北畠家養嗣子時代

織田信雄は1558年「織田信長」と側室の「生駒吉乃」の間に生まれたと言われています。

織田信長
引用元ウィキペディアより

ですが、信雄の生母や出生に関しては不明な点も多くはっきりとした事実はわかっていません。

1569年信雄は織田家を出ることになります。

当時信長は伊勢国に侵攻にし、「北畠具教とものり」と「北畠具房ともふさ」父子と交戦していました。

この戦の和睦条件に信雄を北畠家の養嗣子とすることが決まりました。

こうして信雄は織田家を離れて北畠家に入り、1572年に元服して「北畠具豊」と名乗りました。

戦国期に迷走する

1575年に北畠家の家督を継承して、10代目当主になり「北畠信意」と改名します。

1579年信雄は突如信長に無断で伊賀国に攻め入り、大敗し重臣を討ち取られるという大失態を犯してしまいます。

そのあと伊賀国平定に従軍するも、大きな戦功も挙げられませんでした。

そして、「本能寺の変」で信長が横死した際も、信雄は近江国甲賀まで進軍したのにも関わらず、応戦せずそのまま撤退してしまいます。

それからは織田家に復帰して「織田信雄のぶかつ」と改名しましたが、織田家の後継者にはなれませんでした。

その後は豊臣秀吉に従い、1590年「小田原合戦」で功績を挙げたものの、この褒賞を巡って信雄は問題行動を起こします。

豊臣秀吉
ウィキペディアより引用

徳川家康の旧領へ移封を命じられるも信雄は、織田家伝来の地である尾張国から離れることを拒否。

これに秀吉は激怒し、信雄は改易となり関東へと流罪になりました。

そして信雄は出家しますが、2年後に徳川家康の執り成しで豊臣臣下に復帰することができました。

再び改易となるも織田家を守り抜く

秀吉の死後、「関ヶ原の戦い」では傍観に徹していた信雄ですが、西軍に付いていたと思われたのか、戦後またしても改易されてしまいます。

その後豊臣家に再び出仕を試みるも、豊臣家と徳川家による「大坂冬の陣」では徳川方へ寝返るという驚きの行動を見せています。

結果的に信雄は徳川方に与したことで大名に返り咲くことに成功します。

そのあとは、領内の経営に力を注ぎ、京で隠居生活を送ります。

そして1630年73歳で亡くなりました。


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織田信雄の【辞世の句】または【残した言葉】とその意味を解説

【結論】織田信雄の辞世の句は、記録にない

辞世の句や名言などの言葉は残されていませんでした。

しかし能の名手であり、高い評価を得ており、「観世流仕舞付」では信雄の発言が能役者にとって貴重な指針になったとされています。

織田信雄の【子孫】は、どうなったのかを解説

【結論】織田信雄には、三男・織田信良の娘を通じて、現在の天皇陛下が子孫にあたられる

長男︰織田秀雄

関ヶ原の戦いで西軍に属し、戦後改易される。

その後は江戸の浅草で閑居していたが、28歳の若さで亡くなる。

 

二男︰織田高雄

早世したとされている。

その他は詳細不明。

 

三男︰織田信良

上野国小幡藩初代藩主。

信雄が改易後、上野国甘楽郡を分け与えられる。

その後、藩政の基礎を固めた。

父に先立ち43歳で亡くなる。

この信良の娘が、稲葉信通に嫁いでいます。

その子孫が、光格天皇に嫁いで、仁孝天皇を産んでいるのです。

そのため、現在の天皇陛下は、織田信良の娘を通じた子孫にあたられるというわけです。


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四男︰織田高長

父・信雄の死後、大和国宇陀松山藩を相続し、2代目藩主となる。

 

五男︰織田信為

津田性を名乗る。

岩清水寺の住職であったと言われています。

その他の詳細は不明。

 

六男︰織田良雄

始めは祥雲寺の僧侶であり、久蔵主と称した。

後に還俗している。

 

七男︰織田長雄

早世している。

その後はの詳細は不明。

 

娘には、佐々木一義、生駒政勝、生駒直勝、土方雄氏の正室なったとされている子がいました。


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織田信雄の【死後に起こった歴史的な出来事】とは?

【結論】織田信雄の死後、1637年「島原の乱」という事件が起こりました。

キリスト教が布教し始めてから、急速にキリスト教の信仰が広がっていきます。

そこで豊臣秀吉の時代に、キリスト教の信仰が禁止されました。

この頃は大名の信仰は禁止でしたが、民衆のキリスト教信仰は許されていました。

しかし、徳川の治世になると禁教政策が強まり全国に向けてキリスト教禁止令が出されます。

そして1637年天草四郎を指導者とした日本最大の一揆「島原の乱」が勃発しました。

結果的に幕府側が鎮圧しますが、幕府側も一揆を起こしたキリシタンも甚大な被害を受けました。


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まとめ

この記事をまとめますと、以下の通り

この記事を短く言うと

 

1,織田信雄の『死因』は?

死因は不明。

老衰か老衰に伴う病気ではないかとされています。

 

2,織田信雄が【亡くなった日時】は?

1630年4月30日(寛永7年2月30日)、享年73歳

 

3,織田信雄の【最後の様子】とは?

徳川家康から大和国宇陀郡など5万石を与えられて「茶の湯、文学、芸術、鷹狩り」など楽しみ、悠々自適な生活をしていました。

 

4,織田信雄の【最期の言葉】とは?

辞世の句や名言は残っていませんでした。

しかし、「観世流仕舞付」では信雄の発言が能役者にとって貴重な指針になったとされています。

 

5,織田信雄の【子孫】とは?

信良の娘の子が現代の今上天皇につながっています。

高長の子孫が現在の織田家18代目当主織田信孝さんです。

 

6,織田信雄の【死後に起こった出来事】とは?

1637年日本最大の一揆島原の乱が起こります。

以上となります。

本日は当サイトへお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当サイトへお越しくださいませ。

ありがとうございました。

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