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楠木正成の死因と最後をわかりやすく解説! 辞世の句と子孫のゆくえ

楠木正成(くすのき まさしげ)の【死因】や【最後の様子】について、短くまとめると、以下のとおりです。

  1. 楠木正成の死因は自刃。
  2. 正成は、新暦1336年7月4日(旧暦・延元元/建武3年5月25日)に亡くなった。享年43歳。
  3. 正成の最後の様子は、足利尊氏との湊川の戦いに敗北し、自ら命を断った

この記事では、楠木正成の最期の様子について、ひと目で分かるようにまとめました。

楠木正成の最期と死因について知りたい方にとって、この記事は必ずお役に立つはずです。

これを読んで、楠木正成の最期についての疑問を、スッキリと解消していただければ幸いです。



専門サイト「最期と死因ドットコム」へようこそ。

どうぞ、ごゆっくりお過ごしくださいませ。

目次

楠木正成の【死因】と【亡くなった日】

楠木正成の【死因】

楠木正成の死因は自刃です。

戦いに敗れ、弟・楠木正季くすのきまさすえと刺し違えて自害しました。

楠木正成が【亡くなった日】と【享年】

新暦1336年7月4日(旧暦・延元元/建武3年5月25日)

享年43歳


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楠木正成の【辞世の句】とその意味とは?

正成の辞世の句として、

「罪業深き悪念なれども、われもかように思ふなり。いざさらば同じく生を替へてこの本懐を達せん」

と言ったとされます。

現代語に訳すと、

「罪深い人生であったが、私もそのように思う。であれば同様に生まれ変わってこの本懐を達成しようではないか。」

となります。

これはどういう意味なのかというと、ともに命を絶った弟の正季が、最期にこんな言葉を兄・正成に対して残したためです。

「何度生まれ変わっても、人間に生まれて朝敵(尊氏たち)を倒したいと思う」

この弟の言葉に、正成が応えたものです。

戦略家として知られる正成でしたが、主君・後醍醐天皇に作戦を容れられないことも多々ありました。

しかし、決して自分を取り立ててくれた恩人である後醍醐天皇を、死の間際にあっても、死後の生まれ変わった後でさえ見捨てようとはしなかったのです。

正成は敗れた後醍醐天皇方に付いたため、長らく朝敵とされていました。

しかし、楠木正成の子孫を名乗る楠木正虎(まさとら)の尽力で、楠木正成のそれまでの罪が赦免されたほか、黄門様としても知られる水戸光圀(みと みつくに)が、正成を忠君として称えていたことが知られています。

また明治政府は、天皇中心の政治をするため、天皇に忠誠を誓った楠木正成を再評価し、戦前までは教科書に必ず載せられるようになりました。

逆賊から忠君へと、評価が180°変わった人物といえます。


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楠木正成の【最後の様子】は?

楠木正成は、湊川の戦いで足利尊氏に敗北し、追いつめられて自害により亡くなっています。

楠木正成の出自はよくわかっていませんが、河内国(かわち、現在の大阪府)の豪族であり、幼い頃から文武両道に優れた若武者であったことが伝わっています。

悪党(悪事を働く者という意味ではなく、ここでは朝廷にも幕府にも従っていない者の意)として名を馳せた後、1331年(元弘元年)の後醍醐天皇の鎌倉幕府討伐の挙兵に応じて、挙兵しました。

楠木正成が赤坂城に立て篭もった際は、幕府軍の猛攻に耐えきれず敗走したものの、翌年には幕府軍の手薄なタイミングを狙って赤坂城を奪い返すと、それを守るための千早城を建設し、再び幕府軍に応戦します。

正成軍1000人に対し、幕府軍は8万の兵を率いて攻撃を仕掛けますが、落石戦法や糞尿のばらまきなどのゲリラ戦を展開し、幕府軍を撤退させることに成功しました。

その間に新田義貞(にった よしさだ)や足利尊氏(あしかが たかうじ)の活躍もあり、幕府は滅亡します。

幕府滅亡によって後醍醐天皇により始められた建武の親政のもとで重役に就いた正成でしたが、足利尊氏が後醍醐天皇から離反すると、再び戦いに身を投じます。

新田義貞(にった よしさだ)や北畠顕家(きたばたけ あきいえ)とともに足利尊氏を相手にして戦い、足利軍を九州まで追いやることに成功しました。

しかし数十万の軍勢を率いて戻ってきた尊氏たちに、朝廷は混乱。

正成は足利尊氏と和議を結び、再起のチャンスをうかがうよう進言しました。

また、楠木は和議ができないのなら、京都に敵を誘き寄せて、ゲリラ戦で戦うべきだと主張します。

後醍醐天皇にこの作戦を聞き入れられることはなく、ここで死を覚悟したといいます。

軍記物語「太平記」によると、このとき、楠木正成の和議やゲリラ戦法を否定し、湊川で決戦せよと命じたのは、公家の坊門清忠という人物だとされています。

そして桜井の地では、息子・楠木正行(まさつら)に自らの死後をたくし、ふるさとの河内へと息子を送り返します(桜井の別れ)。

1336年(延元元年/建武3年)、楠木正成は湊川で足利軍を迎え撃ちましたが、敗れて弟の正季(まさすえ)と刺し違え、死去したのでした。

ライバルの足利尊氏は、敵であるはずの楠木正成に対して、同情と尊敬の念を抱いており、楠木正成の首を丁重に息子・楠木正行へ返したといいます。


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楠木正成の【子孫】は、どうなったのか?

楠木正成の子孫を名乗る楠木正虎(くすのき まさとら)という人物が、織田信長と豊臣秀吉につかえていたといいます。

楠木正虎は、正成の子孫を自称しており、織田信長に右筆(ゆうひつ)つまり秘書のような身分でつかえていました。

書道の達人で、その書はとても高く評価されていました。

正虎は、先祖である正成が、朝敵とされていたため、朝廷・天皇に対して、先祖への朝敵の烙印を改めてもらいたいと願い続けていました。

すると、松永久秀らの協力もあって、楠木正成の朝敵という汚名は改められ、正虎は正式に楠木正成の子孫として認められたといいます。


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楠木正成の【死後に起こった出来事】とは?

楠木正成の死後、足利尊氏によって後醍醐天皇は京都から追い出され、ついには奈良・吉野へ逃れて南北朝の動乱が始まりました。

正成が亡くなり、京都へと進軍した足利尊氏は、後醍醐天皇に代わる新しい天皇を即位させて、京都を支配します。

そして室町幕府をつくり、新しい武家による政権を誕生させたのでした。

京都に幽閉されていた後醍醐天皇は、女装して京都から脱出。

奈良の吉野へ逃れた後醍醐天皇は、そこで新しい朝廷(南朝)を誕生させて、足利尊氏が支配する京都の北朝を相手に戦いを始めます。

この南北朝の時代は、足利尊氏や後醍醐天皇の死後までつづき、尊氏の孫・足利義満の時代になって、ようやく終息するのです。(南北朝の合一)


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まとめ

この記事をまとめますと、以下の通り

この記事を短く言うと

 

1,楠木正成の『死因』は?

弟・楠木正季と刺し違える形での自害

 

2,楠木正成が【亡くなった日時】は?

新暦1336年7月4日(旧暦・延元元/建武3年5月25日)に亡くなった。

享年43歳。

 

3,楠木正成の【最後の様子】とは?

湊川の戦いで、足利尊氏に敗北し、弟の楠木正季とともに追いつめられた末に、自害して亡くなった。

 

4,楠木正成の【辞世の句】とは?

「罪業深き悪念なれども、われもかように思ふなり。いざさらば同じく生を替へてこの本懐を達せん」

 

5,楠木正成の【子孫】とは?

戦国時代の武将・楠木正虎は、楠木正成の子孫を自称し、織田信長・豊臣秀吉につかえた

 

6,楠木正成の【死後に起こった出来事】とは?

楠木正成の死後、足利尊氏と後醍醐天皇の争いは激化し、南北朝の動乱という泥沼の時代は、尊氏の孫・足利義満の時代に終息した

以上となります。

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