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後鳥羽上皇の子孫の現在とは?死因と最後をわかりやすく解説

後鳥羽上皇(ごとば じょうこう)の【死因】や【最後の様子】について、短くまとめると、以下のとおりです。

  1. 後鳥羽上皇の死因は分かっていない。
  2. 後鳥羽は、新暦1239年3月28日、旧暦延応元年2月22日に亡くなった。享年60歳。
  3. 後鳥羽上皇の死後、その曾孫の代から、両統迭立(りょうとうてつりつ)の時代が始まった。

この記事では、後鳥羽上皇の最期の様子について、ひと目で分かるようにまとめました。

後鳥羽上皇の最期と死因について知りたい方にとって、この記事は必ずお役に立つはずです。

これを読んで、後鳥羽上皇の最期についての疑問を、スッキリと解消していただければ幸いです。



専門サイト「最期と死因ドットコム」へようこそ。

どうぞ、ごゆっくりお過ごしくださいませ。


目次

後鳥羽上皇の子孫の現在とは?

後鳥羽上皇の子孫の現在

現在の天皇陛下は、後鳥羽上皇の子孫にあたられます。

後鳥羽上皇の子孫は、承久の乱のあとも天皇として、その子孫をつなげているのです。

承久の乱のあと、後鳥羽上皇の兄の子である後堀河天皇が、天皇に即位しました。

しかし、その後鳥羽上皇の兄の系統が断絶したため、後鳥羽上皇の子である土御門上皇の息子・後嵯峨天皇ごさがてんのうが即位します。

この後嵯峨天皇が、次の治天ちてんきみ(上皇たちの中の最高権力者)を決めなかったため、皇室は、大覚寺統だいかくじとう持明院統じみょういんとうという、二つの系統に分裂することになるのです。

これはのちに、南北朝時代という混乱の時代を巻き起こします。

この持明院統が、現在の天皇陛下につながっているのです。


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後鳥羽上皇の隠岐の島での子孫とは?

隠岐の島へ流罪になった後鳥羽上皇ですが、そこで子孫を残してはいません。

後鳥羽上皇は、流罪になる直前に出家して、法皇となっています。

隠岐の島ではもっぱら仏道修行に没頭していたらしく、子孫を残したという記録はないようです。

隠岐には、のちに後鳥羽上皇の子孫である後醍醐天皇ごだいごてんのうも、流罪として送られました。

しかし後醍醐天皇は隠岐を脱出して、鎌倉幕府を滅亡させています。


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後醍醐天皇も、後鳥羽上皇の子孫

後鳥羽上皇の子孫はその後、持明院統と大覚寺統(という二つに分裂し、争いを始めます。

そして、この二つの系統は、交互に天皇を出す両統迭立を開始。大覚寺統から出た後醍醐天皇(ごだいごてんのう)が、鎌倉幕府を滅亡においやることになります。

1259年(正元元年)後鳥羽上皇の孫・後嵯峨上皇(ごさがじょうこう)は、可愛がっていた息子を即位させるため、天皇の位を後深草天皇からそのかわいがっていた子に譲らせ、亀山天皇とします。

そしてその亀山天皇の息子を皇太子にしてしまいます。

そんな中で、後嵯峨天皇が亡くなってしまいます。

後嵯峨天皇の死後、後深草天皇と亀山天皇のあいだで、継承問題が発生してしまいます。

後深草天皇と亀山天皇、どちらが天皇の位を継承していくべき正当な系統なのか、鎌倉幕府に裁定が持ち込まれたところ、幕府は後深草天皇と亀山天皇の母の証言もあり、亀山天皇が次期天皇の正当な系統に決定したのでした。

しかし両親に疎まれ、弟に権力を奪われた後深草天皇は納得がいかずに、幕府に再度訴えかけると、幕府はなんと後深草天皇の息子を皇太子に任命してしまいます。

こうして後深草の系統(持明院統)と、亀山の系統(大覚寺統)から、交互に天皇を出す両統迭立(りょうとうてつりつ)の時代が始まりました。

しかし1318年(文保2年)に即位した亀山の孫・後醍醐天皇(ごだいごてんのう)は、後深草天皇の側に位を譲ることを拒否。

後醍醐天皇
引用元ウィキペディアより

この両統から交互に天皇を出すというルールを作った鎌倉幕府を倒す運動を開始しました。

計画が明るみに出て、後鳥羽上皇と同様に隠岐に流されるなどの苦労を重ねながらも、後醍醐天皇は、1333年(元弘3年)についに鎌倉幕府を滅ぼすことに成功。

両統迭立の終了を達成しました。

鎌倉幕府は朝廷の揉め事を中途半端に裁いたせいで、自らの滅亡の原因を作ってしまっていたのでした。


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後鳥羽上皇の【死因】と【亡くなった日】

後鳥羽上皇の【死因】

後鳥羽上皇の死因は不明。おそらく病気によるもの。

後鳥羽上皇が【亡くなった日】と【享年】

新暦・1239年3月28日

旧暦・延応元年2月22日

享年60歳


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後鳥羽上皇の【最後の様子】は?死ぬ前に起こったことを解説

後鳥羽上皇は、承久の乱に敗北したのち、日本海に浮かぶ孤島・隠岐の島へと幽閉されて、京都へ帰ることを夢見ながら亡くなったのでした。

後鳥羽天皇は、後白河法皇の手によって、わずか4歳で天皇になりました。

当時は絶対的な権力を誇った平家が落ちぶれ始めた頃でした。

平家は木曽義仲に都を追い出され、安徳天皇(あんとく)を連れて、天皇の正当性を示す三種の神器を持って、西国に逃れている真っ最中でした。

つまり後鳥羽天皇は、三種の神器という幼いうちから「正当性のない天皇」という扱いを受けることになってしまっていたのです。

三種の神器とは、

  • 天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)
  • 八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)
  • 八咫鏡(やたのかがみ)

の3つの神器のことであり、天皇が即位する際に、この3つの神器をつかって儀式を行うことで、天皇としての正当性つまり【正式な天皇である】という証拠となるのです。

正当性がない天皇、と呼ばれた後鳥羽天皇は、そのことを生涯のコンプレックスとして生きていました。

さらに、時代は権力が平家から源氏へと移っていく頃で、天皇の権力が徐々に衰退していた頃でもありました。

そのせいか後鳥羽上皇は、武士から政権を取り返し、天皇中心の政治を行うことを目指して活動するようになります。

1203年(建仁3年)には、皇宮警護の名目で西面の武士(さいめんのぶし)を設置し、独自の軍事力を確保します。

それだけではなく

  • 幕府を呪詛(じゅそ)するためと伝わる寺を建立する
  • 穏健派の土御門天皇(つちみかど)を譲位させ、倒幕派の順徳天皇(じゅんとく)を即位させる

など、着々と準備を進めていきます。


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そして1219年(承久元年)、3代将軍・源実朝(みなもとの さねとも)が暗殺されて源氏の血が途絶えると、これを好機と捉えた後鳥羽上皇は、本格的な準備を進め、1221年(承久3年)についに挙兵しました。

幕府の暫定トップに立っている北条義時(ほうじょう よしとき)を討つように、院宣(上皇からの命令)を全国に出したのです。

北条義時
「引用元ウィキペディアより」

幕府から自らに寝返る御家人がいることを想定していた後鳥羽上皇でしたが、義時の姉で初代将軍・源頼朝(みなもとの よりとも)の妻・北条政子(ほうじょう まさこ)が、頼朝の恩に報いるよう御家人たちを説き伏せたのでした。

北条政子の演説により、武士の大多数は北条義時に味方しました。

味方を確保できなかった後鳥羽上皇は、幕府軍に手も足も出ず完敗。

義時の嫡男・北条泰時(やすとき)に捕らえられた後鳥羽上皇は、隠岐国(おき、現在の島根県)に配流すなわち流罪となって幽閉されることになってしまいました。

後鳥羽上皇に近かった公家たちは、何度も許しを乞いましたが、泰時は決してこれを許しませんでした。

1239年(延応元年)、後鳥羽上皇は京へ帰れぬまま60歳で亡くなりました。


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後鳥羽上皇の【最期の言葉】とその意味とは?

万一にもこの世の妄念にひかれて魔縁(魔物)となることがあれば、この世に災いをなすだろう。

我が子孫が世を取ることがあれば、それは全て我が力によるものである。もし我が子孫が世を取ることあれば、我が菩提を弔うように

後鳥羽上皇は、亡くなる二年前の1237年に、このような手紙を残したといわれています。

この後、北条義時が信頼していた弟・北条時房や、義時の盟友・三浦義村が急死。

どうやら当時の人は、これら北条義時の親しい人間の死を、後鳥羽上皇の怨霊のしわざと考えていたようです。

こののち、一時的ではあったものの、後鳥羽上皇の子孫に当たる後醍醐天皇が、鎌倉幕府を滅亡させて、建武の新政を開始します。

後鳥羽上皇が望んだ【わが子孫が世を取る】ということを、後醍醐天皇が達成したことになります。


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後鳥羽上皇の【死後に起こった出来事】とは?

後鳥羽上皇の死後、日本は武士が支配する国となります。

それまでの日本は、天皇・上皇・公家などの特権階級が支配していました。

ところが、承久の乱で朝廷が敗北したことにより、武士と幕府という臨時政府が、日本を支配する体制へと大きく変化したのです。

その後、鎌倉幕府は北条義時の子孫が支配することとなりました。

ところが1333年、後鳥羽上皇の末裔に当たる後醍醐天皇が、

  • 足利尊氏
  • 新田義貞
  • 楠木正成
  • 赤松則村

などの猛将を従えて、鎌倉幕府に戦いを挑み、これを滅亡させます。

こうして、武士が日本を支配する体制が終了し、天皇が国を支配し政治を行う体制が始まったのです。(建武の新政)


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しかしこの建武の新政は、かなりの悪政でした。

そのため武士たちは後醍醐天皇の政治に怒りを蓄積していくのです。

そしてついに、武士たちの怒りが爆発。

足利尊氏は武士たちをひきいて後醍醐天皇と戦い、勝利。

足利尊氏
引用元ウィキペディアより

尊氏は室町幕府をつくって、武士が支配する日本を取り戻したのでした。


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まとめ

この記事をまとめますと、以下の通り

この記事を短く言うと

 

1,後鳥羽上皇の『死因』は?

不明。おそらく病死

 

2,後鳥羽上皇が【亡くなった日時】は?

新暦・1239年3月28日

旧暦・延応元年2月22日

享年60歳

 

3,後鳥羽上皇の【最後の様子】とは?

天皇中心の政治を目指して幕府に対して挙兵したが、敗れて隠岐に流され、帰れぬまま亡くなった。

 

4,後鳥羽上皇の【最期の言葉】とは?

万一にもこの世の妄念にひかれて魔縁(魔物)となることがあれば、この世に災いをなすだろう。

我が子孫が世を取ることがあれば、それは全て我が力によるものである。もし我が子孫が世を取ることあれば、我が菩提を弔うように

 

5,後鳥羽上皇の【子孫】とは?

後鳥羽の曾孫が皇位を争い、皇室が二つに分裂してしまう。

皇室の統一は足利義満の時代を待たなければならなかった。

 

6,後鳥羽上皇の【死後に起こった出来事】とは?

死後、鎌倉幕府が日本を支配したが、1333年に後鳥羽上皇の子孫・後醍醐天皇が、鎌倉幕府を滅亡させた

以上となります。

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ありがとうございました。


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