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平清盛の死因と最後をわかりやすく解説!最後の言葉とその意味とは?

平清盛(たいらの きよもり)の【死因】や【最後の様子】について、短くまとめると、以下のとおりです。

  1. 平清盛の死因は、高熱がおさまらないことによる、病死。
  2. 清盛は、新暦1181年3月20日、旧暦治承5年2月4日に亡くなった。享年64歳。
  3. 平清盛の最期の言葉は、「頼朝が首を刎ねて、わが墓の前にかくべし」

この記事では、平清盛の最期の様子について、ひと目で分かるようにまとめました。

平清盛の最期と死因について知りたい方にとって、この記事は必ずお役に立つはずです。

これを読んで、平清盛の最期についての疑問を、スッキリと解消していただければ幸いです。



専門サイト「最期と死因ドットコム」へようこそ。

どうぞ、ごゆっくりお過ごしくださいませ。

目次

平清盛の【死因】と【亡くなった日】

平清盛の【死因】

平清盛の死因は病死。熱病であったとされています。

平清盛が【亡くなった日】と【享年】

新暦・1181年3月20日

旧暦・治承5年2月4日

享年64歳


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平清盛の【最後の言葉】とその意味とは?

清盛は時世の句こそ遺していませんが、その最後の言葉は、とても有名なのでご紹介します。

「頼朝が首をねて、わが墓の前にかくべし」

源頼朝を討ち、その首を自分の墓前にそなえることが最大の供養くようだと今際いまわきわに告げたと言います。

頼朝は平治の乱が初陣で、父義朝に従って戦いましたが、敗れて清盛に捕らえられてしまいました。

清盛は斬首を命じようとしましたが、継母の池禅尼(いけのぜんに)らの取りなしによって命を助けていた経緯がありました。

池禅尼は早世した我が子の生き写しのようで、助命を願わずにはいられなかったとされていますが、とにかく自分が命を助けた若者に反乱を起こされてしまった清盛は、平家の将来

に禍根を遺したまま死ぬことになってしまったのでした。

そして頼朝の弟義経(よしつね)らによって京都を追われて西国に逃げ続けた平家は、1185年(元暦2年)、壇ノ浦の戦いで滅亡しました。

平家滅亡後も、頼朝は池禅尼への恩義から、池禅尼の子であり、清盛の異母弟にあたる頼盛を御家人として登用しました。

清盛の望んだ形ではありませんが、細々と平家の血脈は鎌倉時代にも残っていきます。


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平清盛の【最後の様子】とは?死ぬ前に起こったことを解説

平清盛の死の直前に、平治の乱で清盛が命を助けた源頼朝が挙兵。

富士川の戦いで平家軍を難なく撃破し、関東で独立していました。

清盛は1156年(保元元年)の崇徳上皇(すとくじょうこう)と後白河天皇(ごしらかわてんのう)の対立に乗じて、源義朝(みなもとの よしとも)や藤原信西(ふじわらの しんぜい)らと共に、後白河天皇を奉じて敵対勢力を討ちます。

これを保元の乱(ほうげんのらん)といいます。

さらに1159年(平治元年)、信西を殺して朝廷のトップに君臨した藤原信頼(ふじわらの のぶより)と、信頼についた源義朝を討伐し、敵対勢力の排除に成功しました。

これを平治の乱(へいじのらん)といいます。

保元の乱と平治の乱という、二つの乱に勝利してライバルを倒した清盛は、平安時代の藤原氏のような政治を行います。

自分の娘を天皇に嫁がせ、生まれた天皇の祖父として幼い孫の補佐という形で政治に携わり、権勢を誇りました。

また宋と貿易を行い財政基盤を整えるなど、優れた政治手腕を発揮します。

清盛の一族はみんな高位につき、清盛の義弟・平時忠(ときただ)は

「平家にあらずんば人にあらず」

と豪語したほどでした。

しかし平家への不満を募らせる者たちの反乱が頻発するようになります。

1177年(治承元年)の【鹿ヶ谷の陰謀】(ししがたにのいんぼう)は未然に防ぎましたが、対立を深めていた後白河法皇を幽閉したことで息子の以仁王(もちひとおう)が挙兵し、諸将にも挙兵するように命令を出します。

この以仁王の挙兵命令によって

  • 源頼朝(みなもとの よりとも)
  • 木曾義仲(きそ よしなか)

らが立ち上がり、それを討伐に向かった平家軍は鳥の飛び立つ音に驚いて交戦することなく退却。(富士川の戦い)

また興福寺・東大寺などを燃やしたことで、寺社勢力とも決定的に仲違いしてしまいました。

孤立無援となった平家が苦しんでいた最中で、清盛は突如病に倒れます。

水風呂に入れてもすぐにお湯になってしまったなど、かなりの高熱にうなされていた様子が伝わっており、現代ではマラリアに感染した可能性も検討されています。

そして看病の甲斐なく、1181年(治承5年)3月に平家の将来を心配しながら死去しました。


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平清盛の【子孫】は、あの有名人!

平清盛の子孫は、壇ノ浦の戦いで滅亡したと考えられています。

しかし、あの織田信長が、平清盛の子孫を自称しているのです。

織田信長
引用元ウィキペディアより

清盛が亡くなった4年後の1185年、清盛の血を引く一族・平家は、滅亡します。

そのとき、清盛の血を引く子孫は死に絶えたはずだったのですが、清盛の孫・平資盛(たいらのすけもり)の子を身ごもった女性がいたというのです。

その女性は資盛の死後に男児を産み、その子は越前国で神主となったのだとか。

その神主の子孫が、織田信長だというのです。

信長は、平氏を名乗っていました。

しかし、これは織田信長が、系図をでっちあげて、自分の家の格をあげようとしたのだと考えられます。

織田信長が清盛の子孫である可能性は低いと思いますが、もしも本当なら、とてもロマンのある話ではないでしょうか。


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平清盛の【死後に起こった出来事】とは?

清盛の死から4年後の1185年、壇ノ浦の戦いで、平家は源頼朝の弟・範頼(のりより)と義経(よしつね)に攻められて滅亡しています。

源義経
「引用元ウィキペディアより」

その後、頼朝は平家滅亡に功績のあった弟・義経を死に追いやり、鎌倉幕府を盤石なものとします。

ところが、そんな頼朝も、1199年に落馬した直後に急死。(病死といわれている)

その後、頼朝の二人の息子・頼家と実朝が、征夷大将軍を継承して、鎌倉幕府を支配していました。

その頼家と実朝が、北条時政・義時親子の陰謀によって暗殺され、鎌倉幕府は北条一族が支配する体制となります。

平清盛と源頼朝が、2代に渡って作り上げた、武士が日本を支配する体制が、1221年の承久の乱を勝ち抜いた北条義時によって、さらに盤石なものとなり、1868年の明治維新まで、武士が日本を支配する体制が続くことになります。


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まとめ

この記事をまとめますと、以下の通り

この記事を短く言うと

 

1,平清盛の『死因』は?

謎の熱病に罹り、看病の甲斐なく病死。

 

2,平清盛が【亡くなった日時】は?

新暦1181年3月20日

旧暦治承5年2月4日

享年64歳

 

3,平清盛の【最後の様子】とは?

ライバルを下して太政大臣に任じられ、天皇の外戚となって権勢を誇ったが、各地で反乱が怒る中で平家の将来を憂いながら亡くなった。

 

4,平清盛の【最期の言葉】とは?

頼朝を討てという遺言を残した。

 

5,平清盛の【子孫】とは?

子孫は、清盛の死後、壇ノ浦の戦いで滅亡したが、織田信長が清盛の子孫を自称していた

 

6,平清盛の【死後に起こった出来事】とは?

平清盛の死から4年後の1185年、壇ノ浦の戦いで源義経に敗北した平家は滅亡した。

以上となります。

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