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【今川義元】の最後と死因をわかりやすく解説!子孫と辞世の句は?

今川義元(いまがわ よしもと)の【死因】や【最後の様子】について、短くまとめると、以下のとおりです。

  1. 今川義元の死因は、戦死。
  2. 亡くなったのは、1560年6月12日。
  3. 桶狭間の戦いにおいて、織田信長の家臣に討ち取られた。

この記事では、今川義元の最後の様子について、ひと目で分かるようにまとめました。

今川義元の最後と死因について知りたい方にとって、この記事は必ずお役に立つはずです。



専門サイト「最期と死因ドットコム」へようこそ。

どうぞ、ごゆっくりお過ごしくださいませ。

目次

今川義元の【死因】と【亡くなった日】

今川義元の【死因】

今川義元は「桶狭間の戦い」にて、首を斬られて戦死しました。

今川義元
引用元ウィキペディアより

今川義元が【亡くなった日】と【享年】

新暦:1560年6月12日

旧暦:永禄3年5月19日

享年:数えで42歳


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今川義元の【最後の様子】は?

今川義元は、1560年の【桶狭間の戦い】で討ち死にしました。

義元を討ち取ったのは、織田信長の馬廻(うままわり)である毛利新介。(馬廻とは、大将のまわりを固める精鋭部隊のこと)

「海道一の弓取り」といわれた大名・今川義元は、「尾張のうつけ者」と呼ばれた織田信長の前に命を落としたのです。

当時、今川義元は勢いに乗っていました。

かつて奪われた領地を取り返し、隣国の強豪である武田信玄や北条氏康と同盟を組んだため、織田氏の攻略に専念できる状態だったのです。

尾張国の小大名に過ぎない織田氏に対し、今川氏は駿河・遠江・三河国をもつ強大な大名でした。

戦いの際には2万人以上の兵士を動員できます。

おまけに織田氏は、織田信長が兄弟と家督争いを繰り広げたばかり。

まさに好機到来。

義元は大軍を率い、尾張国にむけて進撃します。

はじめ義元は、前線の城が織田氏の砦に囲まれているのを助けようと考えました。

義元の命を受けた松平元康は味方の城を助けたうえ、織田氏の砦を攻略。

幸先の良いスタートでした。

しかし運命は突然、義元を見放します。

義元の軍勢が休憩をとっていたところに、2000の兵を引き連れた織田信長が現れたのです。

これは義元にとってピンチでした。

本拠地の駿河(現在の静岡)を出た際には2万人いた兵士もこのときには分散していたので、義元と信長の兵力差はあまりなかったのです。

戦いは次第に乱戦となり、ついに今川義元のもとに織田信長の馬廻が追いつきました。

一番槍は服部一忠でした。(一番槍とは、敵大将に最初に傷をつけた者。当時一番槍は最大の功労者として評価された)

義元は自ら刀を振るい、一忠を負傷させます。

しかし毛利新介によって組み伏せられると、義元は首をかき切られ絶命。

首と刀を奪われ、「桶狭間の戦い」は織田信長の勝利に終わりました。

織田信長
引用元ウィキペディアより

そしてそれは、名門だった今川家の没落のはじまりでもあったのです。


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今川義元の【辞世の句】とその意味とは?

今川義元の死は突然だったため、辞世の句はのこっていません。

結果的に

「夏山の 茂みふきわけ もる月は 風のひまこそ 曇りなりけれ」

が人生最後の歌となります。

その意味は

「夏山の茂みが風にふかれて揺れると、茂みの間から月明かりが漏れる。

しかし風がやんでいるとまた見えなくなって(雲隠れして)しまうよ」

というもの。

「月」という明かりが「隠れて」しまうなんて、どことなく不穏な気配を感じます。

義元の行く末を暗示していたのでしょうか……。

今川義元の【子孫】は、どうなったのか?

今川義元の子孫は、のちに天下を取った徳川家に高家旗本(こうけはたもと)として仕え、その宗家は明治時代までつづきます。

吉良上野介(きらこうずけのすけ)や、上杉鷹山(うえすぎようざん)も、義元の子孫です。

今川義元の死後、息子の今川氏真(うじざね)は紆余曲折をへて徳川家康に仕えました。

江戸時代に入ると、今川家は「高家旗本」となります。

「高家旗本」とは、江戸幕府と朝廷とをとりもつ要職のことです。

幕府や大名に儀礼を指導するのがおもな役目で、足利将軍家の流れをくむ名家や戦国大名の子孫が選ばれました。

朝廷とやりとりをするので、ふつうの家来よりも待遇が良かったようです。

そのような境遇のなか、今川家は江戸時代を通じて存続しました。

ところが第23代・今川範叙(のりのぶ)のとき、その子どもが早世、つまり早くに亡くなってしまったのです。

こうして今川の宗家は断絶してしまいます。

ただ今川義元や氏真には子どもが多くいたので、そのDNAは今も残っているでしょう。

なんと「忠臣蔵」で知られる吉良上野介や米沢藩の上杉鷹山にも、義元の血が入っているのです。

吉良上野介(松の廊下の刃傷事件)
ウィキペディアより引用

「今川」という苗字ではないだけで、実は義元の末裔だったという人に、あなたも会っているかもしれませんよ。

 


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今川義元の【死後に起こった出来事】とは?

義元が桶狭間の戦いで戦死したあと、強大な勢力を誇っていた今川氏は凋落(ちょうらく)の一途をたどり、やがて滅亡します。

今川義元の死を受け、その領地では大きな混乱が起こりました。

それまで義元に従っていた松平元康(のちの徳川家康)らが独立したのです。

徳川家康
引用元ウィキペディアより

しかし義元の跡を継いだ今川氏真は求心力に欠け、国内をまとめられませんでした。

そのような氏真に見切りをつけた家臣が、次々と今川家を去っていきます。

けっきょく氏真は態勢を立て直すことができず、武田信玄や徳川家康に攻められて、1569年に今川氏は滅亡。

義元の死から9年後の出来事でした。


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まとめ

この記事をまとめますと、以下の通り

この記事を短く言うと

 

1,今川義元の『死因』は?

【戦死】

 

2,今川義元が【亡くなった日時】は?

1560年6月12日

享年42

 

3,今川義元の【最後の様子】とは?

「桶狭間の戦い」で織田信長の馬廻と自ら戦い、討ち取られた。

 

4,今川義元の【最期の言葉】とは?

「夏山の 茂みふきわけ もる月は 風のひまこそ 曇りなりけれ」

 

5,今川義元の【子孫】とは?

江戸幕府の「高家旗本」となり、宗家は明治時代までつづいた。

 

6,今川義元の【死後に起こった出来事】とは?

今川氏真が家督を継ぐが、国内の混乱を収拾できずに滅亡した。

以上となります。

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ありがとうございました。

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