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西郡局の死因と最期をわかりやすく解説!子孫のゆくえとは

徳川家康の側室である西郡局にしのこおりのつぼねの【死因】や【最後の様子】について、短くまとめると、以下のとおりです。

  1. 西郡局の死因は不明
  2. 西郡局は、西暦1606年(慶長11年)6月19日に亡くなった
  3. 西郡局は、京都伏見城で急死した
  4. 西郡局の辞世の句や最期の言葉については不明
  5. 西郡局には、督姫という娘と、鳥取藩主・池田慶行という子孫がいる
  6. 西郡局の死後、大坂の陣という歴史的事件が起こった

この記事では、西郡局の最期の様子について、ひと目で分かるようにまとめました。

西郡局の最期と死因について知りたい方にとって、この記事は必ずお役に立つはずです。

これを読んで、西郡局の最期についての疑問を、スッキリと解消していただければ幸いです。



専門サイト【最期と死因ドットコム】へようこそ。

どうぞ、ごゆっくりお過ごしくださいませ。

目次

西郡局にしのこおりのつぼねの【死因】と【最後の様子】

西郡局の【死因】

【結論】西郡局の死因は不明

西郡局は突然亡くなっているため、おそらく病死であると考えられます。

西郡局が【亡くなった日】と【享年】

【結論】西暦1606年(慶長11年)6月19日、享年は不明

西郡局は、京都伏見城において突然亡くなっています。

彼女の生まれた年が不明であるため、享年も不明です。


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【西郡局の生涯と最期】をザッと解説

西郡局は、徳川家康の最初の側室で、家康の次女・督姫を産んだ人物です。

彼女は加藤義弘という武将の娘として生まれ、【1606年】に亡くなっています。

徳川家康
引用元ウィキペディアより

西郡局は、今川義元の一族であった鵜殿長忠うどのながただという武将の養女でした。

彼女の実父は、鵜殿長忠という武将につかえていた加藤義弘という人物です。

鵜殿氏は、【1562年】の上ノ郷城かみのごうじょうの戦いで、当主・鵜殿長照ながてるが戦死したのち、家康につかえるようになっていたのです。

(余談だが、長照の二人の息子は、家康の正室・築山殿を今川氏真から取り戻すための人質交換に利用されたのち、家康の部下としてつかえ、兄・氏長は大坂夏の陣に参戦。弟・氏次は関ヶ原の戦いの前哨戦・伏見城の戦いで鳥居元忠とともに戦死)

家康の側室となる際に、西郡局は自らの格を高めるために、主君であった鵜殿長忠の養女となっています。

【1565年】、西郡局は家康の次女にあたる督姫とくひめを産んでいます。

督姫
引用元Wikipediaより

しかしその後、彼女は家康の寵愛を失ったのか、子供を授かることはありませんでした。

【1579年】、徳川家康の長男である松平信康が、築山事件で亡くなり、松平信康の妻である五徳姫が実家の織田家へ戻されることになると、信康と五徳姫のあいだに生まれた登久姫と熊姫(またの名を国姫)という二人の娘は、祖父にあたる徳川家康と西郡局によって養育されることになります。

【1590年】、小田原征伐によって娘・督姫の嫁ぎ先であった北条家が滅亡。

北条家が支配していた関東は、家康が支配することとなり、江戸城に西郡局も引っ越しています。

【1606年6月19日】、京都の伏見城で急死。享年不明。まったく同日に徳川四天王のひとりである榊原康政も死去しています。

実は、西郡局が産んだ督姫は、北条氏直と死別したあと、池田輝政という武将に嫁いでいます。

そして榊原康政の娘は、池田輝政の息子・に嫁いでいるのです。

池田輝政と縁のある二人が同日に亡くなったことに、人々は不思議なこともあるものだと噂したといいます。

→→→→【西郡局と家康の娘・督姫の生涯】についてくわしくはこちら

西郡局の【辞世の句】または【残した言葉】とその意味を解説

【結論】西郡局の辞世の句や最後の言葉は、何も残っていません。

西郡局は、上ノ郷城の戦いで焼けてしまった鵜殿氏の菩提寺・長応寺ちょうおうじを再興しています。

その長応寺が、今も東京都品川区小山1丁目4-15に残っています。


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西郡局の【子孫】は、どうなったのかを解説

【結論】西郡局の子孫には、江戸時代の池田慶行いけだよしつぐという人物がいる

西郡局には、【1841年】に鳥取藩32万石の領主となった鳥取藩10代藩主・池田慶行という人物がいます。

池田慶行という人物には子供がいないため、他家から養子をもらって家名を存続しています。

西郡局の娘である督姫は、関東を支配していた北条家の5代目・北条氏直に嫁いでいます。

しかし北条氏直が小田原征伐で豊臣秀吉に滅ぼされると、督姫は戦国大名・池田輝政と再婚しています。

その督姫の子孫が、代々鳥取藩の藩主として、西郡局の血筋をつたえたのでした。


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西郡局の【死後に起こった歴史的な出来事】とは?

【結論】西郡局の死後、大坂の陣という事件が起こりました。

西郡局が亡くなった8年後にあたる【1614年】に、徳川家康と大坂城に住んでいた豊臣秀吉の息子・豊臣秀頼のあいだで、大坂の陣と呼ばれる戦争が起こっています。

この大坂の陣に、徳川家康西郡局の孫にあたる池田忠雄いけだただかつも参戦。(池田忠雄は、西郡局の娘である督姫と池田輝政の子)

池田忠雄は、【1614年】の大坂冬の陣において、木津川口きづがわぐちの戦いに参戦しています。

豊臣秀頼は、【1615年】に起こった大坂夏の陣において自害し、豊臣家は滅亡。

徳川家康は、ついに戦国乱世を平定し、【1868年】の明治維新まで続く平和な時代をつくりあげることに成功したのです。


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まとめ

この記事をまとめますと、以下の通り

この記事を短く言うと

 

1,西郡局の『死因』は?

死因は不明

 

2,西郡局が【亡くなった日時】は?

西暦1606年(慶長11年)6月19日、享年は不明

 

3,西郡局の【最後の様子】とは?

最後の様子は京都の伏見城で急死した

 

4,西郡局の【最期の言葉】とは?

辞世の句または最後の言葉は不明

 

5,西郡局の【子孫】とは?

子孫は、鳥取藩主・池田慶行

 

6,西郡局の【死後に起こった出来事】とは?

死後に大坂の陣という戦争が起こり、豊臣家が滅亡。徳川家の天下が確定し、平和な時代が続いた

以上となります。

本日は当サイトへお越し下さいまして誠にありがとうございました。

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