足利義昭の【死因】や【最後の様子】について、短くまとめると、以下のとおりです。
- 足利義昭の死因は腫物による病死
- 義昭は、西暦1597年10月9日(旧暦・慶長2年8月28日)、享年61歳・満年齢59歳
- 義昭は死ぬ前に、朝鮮出兵のため肥前名護屋へ出陣した
- 義昭には、義尊・常尊という子孫がいる
- 義昭の死後、豊臣秀吉の死と関ヶ原の戦い、という歴史的事件が起こった
この記事では、足利義昭の最期の様子について、ひと目で分かるようにまとめました。
足利義昭の最期と死因について知りたい方にとって、この記事は必ずお役に立つはずです。
これを読んで、足利義昭の最期についての疑問を、スッキリと解消していただければ幸いです。
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足利義昭の【死因】と【最後の状況】
足利義昭の【死因】
【結論】足利義昭の死因は、腫物による病死
足利義昭が【亡くなった日】と【享年】
【結論】西暦1597年10月9日(旧暦・慶長2年8月28日)、享年61歳・満年齢59歳
足利義昭の最後の状況
足利義昭は1597年、豊臣秀吉の要請で、朝鮮出兵のため出陣した直後に病死した。
足利義昭の子孫
【結論】足利義昭の子孫には、息子の義尋や、孫の義尊・常尊という人物がいる
足利義昭は、室町幕府の第15代将軍として君臨しましたが、その子孫に関してはあまり知られていません。義昭には複数の子供がいたとされていますが、その多くは歴史の表舞台から姿を消しています。
しかし、彼の子孫の中で最も有名なのは、嫡男である足利義尋です。
義尋は、織田信長によって足利義昭が追放され、室町幕府が滅亡した際に、信長へ人質として預けられています。
この義尋には二人の子供がいました。義尊と常尊という二人で、足利義昭の孫にあたります。
義尊と常尊は、出家して子供を儲けなかったため、足利義昭の子孫はそこで断絶。
しかし、義昭には他にも子供がいたという説もあり、明治維新まで子孫が続いたという可能性もあります。
【足利義昭の生涯と最期】をザッと解説
足利義昭の生涯を、ハイライトでザッと解説いたします。
生い立ち
足利義昭(1537年 – 1597年)は、室町時代後期から戦国時代にかけての日本の武将で、室町幕府の第15代将軍すなわち室町幕府・最後の将軍です。
彼は、12代将軍・足利義晴の次男として生まれました。
兄は、13代将軍・足利義輝です。義昭の兄・義輝は、剣豪将軍と呼ばれるほどの、剣の達人だったといいます。
義昭の生い立ちは、幕府の衰退期にあり、当時は日本全国で戦乱が続いていました。
義昭は、後継者争いを避けるためという足利将軍家の慣習にならって、幼少期から出家させられ、武芸とは縁がなく、文学を学んで育ちました。
1546年に父・義晴が死去。
兄・義輝が家督を継ぎ、13代将軍に就任。
しかし室町幕府の実権は、三好長慶などの重臣たちが握っていました。
1565年に、永禄の変と呼ばれる政変が勃発。13代将軍だった兄・足利義輝が、三好三人衆や松永久通に暗殺されてしまいます。
義昭も命を狙われるものの、細川藤孝に救われて京都を離れ、近江国や越前国を転々とする身となります。
1568年には、織田信長へ協力要請をして身を寄せ、支援を受けることになります。
信長は義昭を擁立し、将軍の地位に就かせることで、自身の権威を高めることを狙っていました。
織田信長との関係
足利義昭と織田信長の出会いは、1568年の頃だったと考えられます。
当時、義昭は将軍の座を取り戻すために支援者を探しており、信長はまだ若く野心的な武将でした。
信長は義昭を支援することで、自らの権威を高め、天下統一に近づけると考えました。
信長の支援により、1568年に義昭は京都に入り、兄の仇である三好三人衆を追放。
三好三人衆が擁立した14代将軍・足利義栄に続き、義昭は15代征夷大将軍に就任しました。
しかしその後の政治の中で、信長は次第に権力を独占し、義昭の意見を無視するようになりました。
なぜなら足利義昭が行った政治は、あまりにも公平性を欠いた、自己中心的なものだったためです。
さらに、信長は義昭の権力を削ぐために、細川藤孝や明智光秀などの足利家の家臣を自分の家臣に取り込むようになりました。
これにより、義昭はますます信長に反感を抱くようになったと考えられます。
1573年、信長はついに義昭を将軍の座から追放し、室町幕府は滅亡しました。
その後、義昭は上杉謙信・武田勝頼・毛利輝元・本願寺顕如のような武将・宗教勢力と手を組んで信長に対抗しようとしましたが、成功することはできませんでした。
このように、足利義昭と織田信長の出会いは当初協力関係で始まりましたが、信長の権力独占や寺社勢力への弾圧などが原因で、次第に決裂に向かい、最終的に義昭は将軍の座から追放されました。
最期に至る経緯
足利義昭の最期に至る経緯は、織田信長との関係が悪化したことが大きな要因です。
信長と義昭の協力関係が決裂した後、1573年に義昭は将軍の座を追われ、室町幕府は滅亡しました。
その後、義昭は他の反信長勢力と連携し、信長打倒を目指して活動しました。しかし、その試みはうまくいかず、義昭は各地を転々とすることになります。
1582年、本能寺の変が起こり、義昭の元部下であった明智光秀の手によって信長が討伐されると、義昭はこれを好機と捉え、再び天下を支配しようと企てました。
しかし、信長の後継者である羽柴秀吉(豊臣秀吉)が、山崎の戦いで明智光秀を即座に討伐。すぐに事態を収拾し、義昭の目論見は失敗に終わりました。
その後、義昭は実質的な権力のすべてを失い、討伐すべき宿敵の織田信長すらも失い、天下人となる豊臣秀吉によって庇護されることになるのです。
1591年、秀吉は天下統一を達成。
足利義昭はというと、秀吉の御伽衆(相談相手または話し相手)に抜擢され、京都近くの槇島という場所にわずか1万石の領地を与えられます。
1597年、義昭は朝鮮出兵をしていた秀吉からの要請に応じて、病気の身でありながら、肥前名護屋へ出陣。
同年、義昭は大坂で病死しました。享年61歳(満年齢59歳)
一説によると、高齢で、しかも病気の身であったにもかかわらず出陣し、長旅の無理が祟ったのでないかとのことです。
義昭の葬儀は、武家の棟梁である征夷大将軍のものとは思えないほど寂しく、棺や火葬場をつくるための大工を二人かしてほしいと頼まれた京都所司代・前田玄以は、一人だけしか大工を貸さなかったというほどです。
足利義昭の【辞世の句】または【残した言葉】とその意味を解説
【結論】足利義昭の辞世の句、または残した言葉などは無し
足利義昭には、特に有名な辞世の句や残した言葉として知られるものはありません。
足利義昭の【死後に起こった歴史的な出来事】とは?
【結論】足利義昭の死後、豊臣秀吉の死去と、関ヶ原の戦い、という事件が起こりました。
足利義昭が亡くなった後、日本の歴史は大きく変わりました。
義昭の死後わずか一年後に豊臣秀吉が死去。
秀吉という強力なカリスマを失い、日本全国がふたたび混乱の時代に突入しかねない危機に陥っていました。
この時期、様々な大名が勢力を拡大しようとし、日本は幾度も合戦の渦に巻き込まれました。
義昭と秀吉の死後、徳川家康が台頭し、秀吉亡き後の天下を目指すようになります。
1600年、家康はライバルであった石田三成を関ヶ原の戦いで討伐。勝利を収めました。
これにより、徳川家康は天下の実験を握ります。
1603年には、足利義昭が就任していた征夷大将軍の地位につき、江戸幕府を開きます。
こうして日本は平和で安定した時代・江戸時代に入ります。
足利義昭の死後、徳川家康が最終的に江戸幕府を開いて日本を統一し、平和な時代が訪れたのです。
まとめ
この記事をまとめますと、以下の通り
この記事を短く言うと
1,足利義昭の『死因』は?
死因は腫物つまり腫瘍
2,足利義昭が【亡くなった日時】は?
西暦1597年10月9日(旧暦・慶長2年8月28日)、享年61歳・満年齢59歳
3,足利義昭の【最後の様子】とは?
最後の様子は朝鮮出兵の無理が祟って大坂で亡くなった
4,足利義昭の【最期の言葉】とは?
辞世の句または最後の言葉は無い
5,足利義昭の【子孫】とは?
子孫は義尊・常尊などの孫の代で断絶した。
6,足利義昭の【死後に起こった出来事】とは?
死後に豊臣秀吉の死と、関ヶ原の戦いという事件が起こった
以上となります。
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