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【武田勝頼】の最後と死因をわかりやすく解説!子孫と辞世の句は?

武田勝頼(たけだ かつより)の【死因】や【最後の様子】について、短くまとめると、以下のとおりです。

  1. 武田勝頼の死因は、自害。
  2. 亡くなったのは、1582年4月3日(天正10年3月11日)。享年37。
  3. 織田軍に追われるなか、妻子とともに天目山で自害した。

この記事では、武田勝頼の最後の様子について、ひと目で分かるようにまとめました。

武田勝頼の最後と死因について知りたい方にとって、この記事は必ずお役に立つはずです。



専門サイト「最期と死因ドットコム」へようこそ。

どうぞ、ごゆっくりお過ごしくださいませ。

武田勝頼の【死因】と【亡くなった日】

武田勝頼の【死因】

武田勝頼は、割腹自殺を図り、亡くなりました。

いわゆる「切腹」です。

これにより、甲斐国の武田氏は滅亡することとなります。

武田勝頼
引用元ウィキペディアより

武田勝頼が【亡くなった日】と【享年】

新暦:1582年4月3日

旧暦:天正10年3月11日

享年:数え年で37歳

武田勝頼の【最後の様子】は?

武田勝頼は、周囲の大名に攻められ、妻子とともに自害して果てました。

ときは1582年(天正10年)。

先代・武田信玄の死から10年を前にして、武田氏に危機が訪れます。

武田信玄
引用元ウィキペディアより

織田・徳川・北条の三氏が、一斉に武田領に攻めこんだのです。

このころ、武田氏はすでに弱体化していて、この三方向からの進撃にうまく対応できませんでした。

まともに応戦した高遠城の仁科盛信(にしな もりのぶ)も、5万人の織田軍を前に玉砕してしまいます。

まさに、絶体絶命のピンチ。

勝頼は、守りの固い城に一時退避し、再起を図る決断をします。

ここで候補に上がったのが、真田昌幸(真田幸村の父)の岩櫃(いわびつ)城と、小山田信茂の岩殿城。

小山田氏が武田氏の一族でもあることから、勝頼は岩殿城を選択します。

――しかし、これが勝頼の運の尽きでした。

なんと、小山田信茂はすでに織田信長と内通していたのです。

小山田軍に鉄砲をけしかけられた勝頼は、わずか40名の家来とともに逃走しますが、今度は進行方向から織田軍が迫ってきます。

「もはや、これまで。」

きっと勝頼は、ここで覚悟を決めたのでしょう。

今度は誰の城でもなく、現在の山梨県甲州市大和町にある「天目山」を目指します。

実は、武田氏は勝頼の先祖にあたる武田信満の代で一度滅びているのですが、その信満も「天目山」で自害しているのです。

とはいえ、織田軍も勝頼を見逃すわけにはいきません。

迫りくる織田の大軍に対し、武田軍40名は、決死の覚悟で応戦。

その最中、武田勝頼は妻子とともに自殺したのです。

享年37。

戦国最強と謳われる武田氏は、かくして滅びさりました。

武田勝頼の【辞世の句】とその意味とは?

武田勝頼の辞世の句としては、

「朧なる 月もほのかに 雲かすみ 晴れて行くへの 西の山のは」

が知られています。

「ほのかに雲がかかって朧ろに霞んでいた月も、やがて晴れてゆき、西方浄土を目指して行くかに見える」

と訳されるのが一般的です。

「西方浄土」とは、煩悩や苦しみから離れた安楽の世界で、はるか西のかなたにあると信じられていました。

「西の山のは」は、この「西方浄土」のことを指しているようです。

そのうえで、「朧なる月」が武田勝頼自身であると考えると、無念というよりも安堵のようなものが伝わってこないでしょうか。

もしかしたら、「武田家」の看板を下ろせて、ホッとしていたのかもしれませんね。

武田勝頼の【子孫】は、どうなったのか?

武田勝頼の次男・勝親の家系が、現在まで続いています。

勝頼の長男・信勝は天目山で家族とともに自害してしまいますが、まだ2歳だった勝親は、家来に保護されて落ちのびました。

その後は、摂津国(現在の兵庫県)で僧侶になったと伝わっています。

武田勝頼の【死後に起こった出来事】とは?

勝頼の死後、戦国乱世は、終結にむかって加速します。

武田氏の滅亡が、1582年のこと。

1582年といえば…そう、「本能寺の変」。

武田勝頼が自害して数か月後には、天下人・織田信長が明智光秀に討たれるという、歴史的大事件が起こるのです。

織田信長
引用元ウィキペディアより

これにより、当時の日本でもっとも影響力のあった織田氏は分裂。

その一方で、武田氏の旧領を吸収した徳川家康は勢いを強め、さらには信長の息子と協力して豊臣秀吉と対立します。

かくして、一歩、また一歩と、天下統一へと近づいていくのです。

まとめ

この記事をまとめますと、以下の通り

この記事を短く言うと

 

1,武田勝頼の『死因』は?

【自害】

 

2,武田勝頼が【亡くなった日時】は?

1582年4月3日(天正10年3月11日)

享年37

 

3,武田勝頼の【最後の様子】とは?

わずかな手勢で織田軍に応戦し、家族とともに自害した。

 

4,武田勝頼の【辞世の句】とは?

「朧なる 月もほのかに 雲かすみ 晴れて行くへの 西の山のは」

(ほのかに雲がかかって朧ろに霞んでいた月も、やがて晴れてゆき、西方浄土を目指して行くかに見える)

 

5,武田勝頼の【子孫】とは?

勝頼の次男が落ちのびた後、摂津国で僧侶となる。

 

6,武田勝頼の【死後に起こった出来事】とは?

旧領を徳川氏や北条氏が吸収。さらに本能寺の変が勃発し、戦国乱世は終結にむかう。

以上となります。

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