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上杉謙信の死因と最後をわかりやすく解説!辞世の句の漢詩と意味とは

上杉謙信(うえすぎ けんしん)の【死因】や【最後の様子】について、短くまとめると、以下のとおりです。

  1. 上杉謙信の死因は、脳卒中。
  2. 亡くなったのは、1578年4月19日(天正6年3月13日)。享年49。
  3. 居城の厠で脳卒中を発症。そのまま帰らぬ人となった。

この記事では、上杉謙信の最後の様子について、ひと目で分かるようにまとめました。

上杉謙信の最後と死因について知りたい方にとって、この記事は必ずお役に立つはずです。



専門サイト「最期と死因ドットコム」へようこそ。

どうぞ、ごゆっくりお過ごしくださいませ。

目次

上杉謙信の【死因】と【亡くなった日】

上杉謙信の【死因】

上杉謙信は病で亡くなりました。

脳卒中といわれています。

謙信はお酒をよく好んだことで知られ、過度な飲酒や塩分摂取が災いしたという見方が一般的です。

上杉謙信
引用元ウィキペディアより

上杉謙信が【亡くなった日】と【享年】

新暦:1578年4月19日

旧暦:天正6年3月13日

享年:数えで49歳


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上杉謙信の【最後の様子】は?

上杉謙信は、居城である春日山城の厠(かわや)で、急に倒れたといいます。(厠とは、トイレのこと)

ときは天正6(1578)年3月9日。

上洛(京都にのぼること)の準備を進めている最中の出来事でした。

当時、近畿地方では、織田信長がますます勢いを強め、まさにやりたい放題。

室町幕府最後の将軍・足利義昭は、信長に京都を追われたあとも、全国の大名に呼びかけて粘り強く抵抗を続けていました。

謙信もまたその誘いに応じ、上洛の準備を急いでいたのです。

倒れた謙信は昏睡状態に陥り、そのまま意識が戻ることなく、3月13日に死去。

もしここで謙信が亡くならず、織田信長と雌雄を決していたら、歴史は変わっていたかもしれません。

上杉謙信の【辞世の句】とその意味とは?

「極楽も 地獄も先は 有明の 月の心に 懸かる雲なし」

「四十九年一睡夢 一期栄華一杯酒(四十九年しじゅうくねん一睡いっすいの夢、一期いちごの栄華、一杯の酒)」

の二つが辞世の句として知られています。

前者の意味は

「行先が極楽でも地獄でも、有明の月のような私の心に曇りはない」

というもの。

差しせまる死に対し、その胸中は澄み切っていたことがうかがえます。

類まれなる武勇や戦略眼で、名だたる大名や武将たちを打ち破ってきた謙信。

何万もの敵兵に向かって、わずか数十騎だけで突撃したという逸話もあります。

そんな「戦神」にとって、死など何ということもなかったのかもしれませんね。

その一方で、後者は漢詩の形式をとって詠まれたものです。

「四十九年の人生はひと眠りの夢、この世の栄華は一杯の酒のようなものだ」。

人生最後の歌に「酒」を盛りこむとは、謙信の酒好きは人並みはずれたものだったようです。


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上杉謙信の【子孫】は、どうなったのか?

上杉謙信に実の息子はいません。

謙信が生涯妻をもたず、また子どもも望まなかったからです。

したがって、謙信のDNAはすぐに途絶えてしまいました。

ただ、上杉家自体は、謙信の姉・仙桃院の息子である上杉景勝が継ぎ、江戸時代には米沢藩主として存続します。

上杉景勝
引用元ウィキペディアより

現在の当主は、第17代目・上杉邦憲さん。

宇宙航空研究開発機構(JAXA)でロケットの開発にも携わり、2016年には、武田信玄の末裔・武田邦信さんと対談する様子が報道されています。

上杉謙信の【死後に起こった出来事】とは?

上杉謙信が跡継ぎを指名せずに死んだため、家督争い(御館おたての乱)が起こります。

春日山城の本丸をおさえた上杉景勝(謙信の甥)と、「御館」にこもった上杉景虎(謙信の養子)が争いました。

当初は、武田勝頼の支援を受けた上杉景虎方が優勢でしたが、直江兼続(上杉景勝の側近)の調略で勝頼がくら替えすると、景虎は追いつめられて自害。

上杉家は上杉景勝が継ぐこととなりました。

ただ、この家督争いによって上杉氏は弱体化。

弱体化した結果として、上杉氏は織田信長との抗争で苦戦を強いられます。

織田信長
引用元ウィキペディアより

その後、本能寺の変で信長が倒れて九死に一生を得ると、豊臣秀吉のもとで、会津120万石の大大名となりました。

ところが、関ヶ原の戦いの直前に徳川家康を挑発したうえ、石田三成に加担。

それが原因で、米沢藩(30万石)に移され、江戸時代を過ごすこととなりました。

その後、米沢藩は15万石に削減され、そのうえ財政危機に陥ります。

あまりの借金地獄で、領地を江戸幕府へ返してしまい、米沢藩を消滅させようという話が出るほどでした。

そんな米沢藩は、上杉鷹山(うえすぎ ようざん)という名君の改革によって、財政危機から立ち直り、幕末・明治の時代を迎えることになるのです。


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まとめ

この記事をまとめますと、以下の通り

この記事を短く言うと

 

1,上杉謙信の『死因』は?

【脳卒中】

 

2,上杉謙信が【亡くなった日時】は?

1578年4月19日(天正6年3月13日)

享年49

 

3,上杉謙信の【最後の様子】とは?

居城・春日山城の厠で突然倒れ、意識が戻ることなく数日後に死去した。

 

4,上杉謙信の【辞世の句】とは?

「極楽も 地獄も先は 有明の 月の心に 懸かる雲なし」

「四十九年一睡夢 一期栄華一杯酒」

 

5,上杉謙信の【子孫】とは?

謙信の甥である上杉景勝が家督を継ぎ、その子孫は米沢藩主を代々務めた。

 

6,上杉謙信の【死後に起こった出来事】とは?

家督争い(御館の乱)が勃発する。

その後は秀吉の信頼を得るが、関ヶ原の戦いの際に徳川家康には怒りを買い、上杉家は不遇の江戸時代を過ごすことになる。

以上となります。

本日は当サイトへお越し下さいまして誠にありがとうございました。

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ありがとうございました。

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