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【毛利元就】の最後と死因をわかりやすく解説!子孫と辞世の句は?

毛利元就(もうり もとなり)の【死因】や【最後の様子】について、短くまとめると、以下のとおりです。

  1. 毛利元就の死因は、老衰もしくは食道がんといわれる。
  2. 亡くなったのは、1571年7月6日(元亀2年6月14日)。享年75歳(満74歳)。
  3. 死の1カ月前にかかった病が悪化し、居城にて息をひきとった。

この記事では、毛利元就の最後の様子について、ひと目で分かるようにまとめました。

毛利元就の最後と死因について知りたい方にとって、この記事は必ずお役に立つはずです。



専門サイト「最期と死因ドットコム」へようこそ。

どうぞ、ごゆっくりお過ごしくださいませ。

毛利元就の【死因】と【亡くなった日】

毛利元就の【死因】

毛利元就は、老衰もしくは食道がんで亡くなりました。

一介の国人(地域の有力者)の身から、一代で中国地方のほぼ全域を統一した通称・謀神(ぼうしん)と呼ばれた名将・毛利元就。

その最後は、枕の上で迎えることとなったのです。

毛利元就
ウィキペディアより引用

毛利元就が【亡くなった日】と【享年】

新暦:1571年7月6日

旧暦:元亀2年6月14日

享年:数え年で75歳(満74歳)

毛利元就の【最後の様子】は?

毛利元就は、居城の吉田郡山城(よしだこおりやまじょう)にて、孫の毛利輝元(もうり てるもと)や息子の小早川隆景(こばやかわ たかかげ)に囲まれるなか、息をひきとりました。

元就は、1560年代より体調不良と快復を繰り返していて、亡くなる1年前にも重病を患っていたといいます。

その後、一時は立て直したものの、1571年の5月からは病状がふたたび悪化。

そのまま6月13日には危篤に陥り、14日に帰らぬ人となりました。

老衰か食道がんだったといわれています。

臨終の場となった「吉田郡山城」は、先祖代々受け継いできた毛利家伝統の城。

若き日の元就が、亡くなった兄や甥(兄の息子)にかわって毛利家当主となり、中国地方の大大名にのし上がる「はじまりの地」でもありました。

毛利元就の【辞世の句】とその意味とは?

毛利元就の辞世の句としては、

「友を得て なおぞ嬉しき桜花 昨日にかはる 今日のいろ香は」

が知られています。

元就は、亡くなる3カ月前に催した花見の席で、この歌を詠みました。

「今日は花見をする友人が一緒で、私も桜もうれしい。桜の香りも、昨日にまして良い気がするよ」

当時は、看病の必要もないほどに体調が安定していたといいますから、友人との花見を心から楽しんでいたのではないでしょうか。

毛利元就の【子孫】は、どうなったのか?

毛利元就の末裔としては、プロ格闘家の毛利昭彦さんが有名です。

また、毛利氏は、天下人の座が織田信長から豊臣秀吉、そして徳川家康へと移ったあとも、大名としてその命脈を保ちました。

したがって、元就の子孫は藩主として毛利家を存続し、その系譜は今日まで続いています。

毛利元就の【死後に起こった出来事】とは?

毛利元就の死後、毛利氏に試練のときが訪れます。

破竹の勢いの織田信長が、中国地方に侵攻をはじめたのです。

毛利元就の孫である毛利輝元は、毛利家当主として、叔父である

  • 吉川元春(きっかわ もとはる)
  • 小早川隆景(こばやかわ たかかげ)

の名コンビ「毛利の両川(もうりのりょうせん)」とタッグを組み、信長の進撃をしのぎきります。(元就の次男・吉川元春、三男・小早川秀秋。毛利家の分家である吉川小早川ともに川の字が入っているので【毛利の両川】と呼ばれた)

その後、本能寺の変で信長が倒れると、ついで天下統一を目指す豊臣秀吉に接近。

毛利輝元が五大老(秀吉の政治顧問)に名を連ねるほどの信頼を得ました。

ところが、秀吉の死の直後に起こった関ヶ原の戦いで、毛利氏は石田三成に味方して、徳川家康に敗北。

罰として、周防国・長門国(現在の山口県)以外の領地を、徳川家康に没収されてしまいます。(毛利は中国地方の大部分を支配していたが、一気に弱体化した)

徳川家康
引用元ウィキペディアより

こうして、毛利元就が生涯かけて築いた栄光は失われてしまいました。

しかし幕末、江戸幕府による支配が揺らぎはじめると、毛利氏はふたたび歴史の表舞台に登場します。

それが長州藩。吉田松陰や高杉晋作で知られる、倒幕派の雄藩です。

まとめ

この記事をまとめますと、以下の通り

この記事を短く言うと

 

1,毛利元就の『死因』は?

【老衰】もしくは【食道がん】

 

2,毛利元就が【亡くなった日時】は?

新暦:1571年7月6日

旧暦:元亀2年6月14日

享年:数え年で75歳(満74歳)

 

3,毛利元就の【最後の様子】とは?

1カ月前に患った病が悪化し、居城・吉田郡山城で死去。

息子の小早川隆景や、孫で当主の毛利輝元が駆けつけたという。

 

4,毛利元就の【辞世の句】とは?

「友を得て なおぞ嬉しき桜花 昨日にかはる 今日のいろ香は」

(今日は花見をする友人が一緒で、私も桜もうれしい。桜の香りも、昨日にまして良い気がするよ)

 

5,毛利元就の【子孫】とは?

戦国乱世を生き抜き、江戸時代を通して周防・長門国(現在の山口県)を治めつづけた。

 

6,毛利元就の【死後に起こった出来事】とは?

毛利家は元就の孫・輝元が当主となり、織田信長と激戦を繰り広げたあとは、豊臣秀吉の信頼を勝ち取った。

以上となります。

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