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【徳川秀忠】の最後と死因をわかりやすく解説!子孫と辞世の句は?

徳川秀忠(とくがわ ひでただ)の【死因】や【最後の様子】について、短くまとめると、以下のとおりです。

  1. 徳川秀忠の死因は、胃がんもしくは寄生虫病。
  2. 亡くなったのは、1632年3月14日(寛永9年1月24日)。享年54。
  3. 胸の痛みに苦しみ、病没した。

この記事では、徳川秀忠の最後の様子について、ひと目で分かるようにまとめました。

徳川秀忠の最後と死因について知りたい方にとって、この記事は必ずお役に立つはずです。



専門サイト「最期と死因ドットコム」へようこそ。

どうぞ、ごゆっくりお過ごしくださいませ。

徳川秀忠の【死因】と【亡くなった日】

徳川秀忠の【死因】

徳川秀忠の死因は、胃がんもしくは寄生虫病といわれています。

父である徳川家康も胃がんで亡くなっているので、何かしらの因果関係があるのかもしれません。

徳川秀忠
引用元ウィキペディアより

徳川秀忠が【亡くなった日】と【享年】

 新暦:1632年3月14日

 旧暦:寛永9年1月24日

 享年:数えで54(満52歳)

徳川秀忠の【最後の様子】は?

秀忠は、胸の痛みに苦しみながら亡くなりました。

徳川秀忠が体調をくずしはじめたのは、1631年7月頃。

この頃から、「胸痛」を度々訴えるようになりました。

時には倒れたこともあるといいます。

医師からは薬を処方されましたが快方に向かわず、秀忠の容態は次第に悪化。

そして、1632年3月14日に亡くなってしまいます。

享年54。

秀忠の葬儀は増上寺にて、10名ほどの近臣がつきそうだけの質素な形式で執り行われました。

これは「倹約を旨とせよ」という秀忠の遺言にそったものといいます。

戦場での華々しい活躍よりも、江戸幕府の堅実な地盤固めで知られる秀忠。

最後のときまで、その実直な人となりは健在だったのでしょう。

徳川秀忠の【最期の言葉】とその意味とは?

徳川秀忠は辞世の句を詠まなかったようです。

ただ、息子にして第3代将軍・家光に対し、次のようなメッセージを遺しました。

「当家夜をありつの日浅く、今まで創建せし綱紀政令、いまだ全備せしにあらざれば、近年のうちにそれぞれ改修せんと思ひしが、今は不幸にして其の事も遂げずなりぬ、我なからむ後に、御身いささか憚る所なく改正し給へば、これぞ我が志を継ぐとも申すべき孝道なれ」。

簡単に訳すと

「江戸幕府はできて日が浅く、規律がまだ十全でないので、近いうちに補おうと思ったけれど、不幸なことに成し遂げられなかった。私が死んだあと、すこしも憚ることなく(規律を)整備することこそ、私の志を継ぐ親孝行の道である」

という具合です。

徳川秀忠は父・家康の遺志を引き継いで、江戸幕府の基礎固めを進めました。

その志は、やがて秀忠から子の家光にも継承されていくのです。

徳川家光
引用元ウィキペディアより

徳川秀忠の【子孫】は、どうなったのか?

秀忠の子孫は、江戸幕府の将軍として、代々日本を統治していきます。

将軍は原則、徳川家康の直系(つまり秀忠や家光の家系)が世襲することになります。

しかし、秀忠のDNAを受け継ぐ将軍は、第7代・家継が若くして亡くなったため断絶してしまいます。

第8代将軍には、紀伊藩出身の徳川吉宗が就任しました。

徳川吉宗
引用元ウィキペディアより

その後も「御三家」(尾張・紀伊・水戸の徳川家。いずれも家康の息子の家系)や「御三卿」(清水家・田安家・一橋家。徳川家の血を引く)出身の将軍が続きますが、最後の将軍・徳川慶喜は、秀忠の娘・千姫の血筋を引く「秀忠DNA」の持ち主でした。(徳川慶喜は、千姫と再婚相手の本多忠刻とのあいだに産まれた勝姫の子孫にあたる)

徳川慶喜
引用元ウィキペディアより

徳川秀忠の【死後に起こった出来事】とは?

第3代将軍・徳川家光の下、江戸幕府による統治体制がさらに整っていきます。

「参勤交代」という言葉、一度は聞いたことがあるのではないでしょうか。

その「参勤交代」が制度として確立されたのが、家光のときです。

「参勤交代」とは、各大名が自らの正室(正式な妻)や子どもを江戸に預け、自身は1年ごとに領地と江戸とを往復する制度。

大名が幕府に反抗できないようにする効果がありました。

というのも、反抗しようものなら江戸に預けている妻子の命が危ういし、江戸と領地を往復する費用がかさんで戦争どころではなくなってしまうのです。

この制度は、幕府による統治を安定させるのに一役買ったことでしょう。

また、いわゆる「鎖国」体制(海禁政策)も、同じころに完成します。

秀忠の死後、幕府は日本に入国できる外国人を徐々に制限し、やがて日本人の出入国も禁止。

ついには貿易相手であったポルトガルからの来航も禁じ、オランダとの接触は「長崎の出島」のみとします。

こうして外国人の動きは、幕府が完全に管理することとなったのです。

このように、徳川家光は江戸幕府の地盤固めをさらに進めました。

父・秀忠の志は、しかと引き継がれたといえるでしょう。

こうした甲斐あって、江戸幕府の統治は2世紀以上の長きにわたって続いていくのです。

まとめ

この記事をまとめますと、以下の通り

この記事を短く言うと

 

1,徳川秀忠の『死因』は?

【胃がん】もしくは【寄生虫病】

 

2,徳川秀忠が【亡くなった日時】は?

1632年3月14日(寛永9年1月24日)

数えで54(満52歳)

 

3,徳川秀忠の【最後の様子】とは?

胸の痛みに苦しみながら、亡くなった。

 

4,徳川秀忠の【最期の言葉】とは?

辞世の句は残っていないが、息子・家光に「江戸幕府の規律を整える」よう頼んだ。

 

5,徳川秀忠の【子孫】とは?

代々将軍を継いだが、7代将軍・徳川家継の死によって、秀忠の血を引く将軍は断絶した。15代将軍・徳川慶喜は、秀忠の娘・千姫の血を受け継いだ人物だった。

 

6,徳川秀忠の【死後に起こった出来事】とは?

第3代将軍・家光の手で、江戸幕府のさらなる基礎固めが進む。

以上となります。

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