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【明智光秀】の最後と死因をわかりやすく解説!子孫と辞世の句は?

明智光秀(あけち みつひで)の【死因】や【最後の様子】について、短くまとめると、以下のとおりです。

  1. 明智光秀の死因は、戦死。
  2. 亡くなったのは、1582年7月2日。
  3. 「山崎の戦い」の後、落武者狩りに襲われて殺害された。

この記事では、明智光秀の最後の様子について、ひと目で分かるようにまとめました。

明智光秀の最後と死因について知りたい方にとって、この記事は必ずお役に立つはずです。



専門サイト「最期と死因ドットコム」へようこそ。

どうぞ、ごゆっくりお過ごしくださいませ。

目次

明智光秀の【死因】と【亡くなった日】

明智光秀の【死因】

明智光秀は「山崎の戦い」から落ち延びる途中、落武者狩りに襲われて命を落としました。

本徳寺所蔵の明智光秀肖像:Wikipediaよりパブリックドメイン

明智光秀が【亡くなった日】と【享年】

新暦:1582年7月2日

旧暦:天正10年6月13日

享年:数えで55歳(生年は諸説あり。67歳という説もある)


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明智光秀の【最後の様子】は?

明智光秀は羽柴秀吉との山崎の戦いに敗北して居城へ撤退する道中、落武者狩りに襲われて落命しました。

天正10年6月13日。

「本能寺の変」で織田信長が亡くなって11日目のこの日、現在の京都府乙訓(おとくに)郡大山崎町周辺で、激しい戦いがありました。

中国地方に遠征していた「羽柴(豊臣)秀吉」が大急ぎでとって返し、謀反を起こした明智光秀と衝突したのです。

豊臣秀吉(羽柴秀吉)
ウィキペディアより引用

後年、この戦いは「山崎の戦い」と呼ばれます。

激闘の末、明智光秀は退却を決意。

近くの城に立ち寄った後、居城である「坂本城」を目指し落ち延びようとします。

しかし、すでに光秀は運に見放されていました。

坂本城への道中、光秀は「落武者狩り」に襲撃されたのです。

すでに消耗していた光秀は攻撃を押し返せず落命。

あるいは逃げ延びたものの、深手を負ったので自害して果てたといわれています。

場所は現在の京都府京都市伏見区にある小栗栖(おぐるす)。

13日の深夜の出来事でした。

第六天の魔王・織田信長を墜とした光秀は、一介の農民の竹槍に倒れたのです。


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明智光秀の【最期の言葉】とその意味とは?

「心しらぬ 人は何とも 言はばいへ 身をも惜まじ 名をも惜まじ」

明智光秀は死を前にしてこう詠んだとされます。

「我が胸中を知らぬ者は何とでも言え!私は命も名誉も惜しむまい」

と、「本能寺の変」を起こして織田信長を討った背景に、何か強い意志があったことを感じさせます。

織田信長
引用元ウィキペディアより

同時に、「私の謀反は誰にも理解されないだろう」という悟りも垣間見えないでしょうか。

そうだとすれば、奇しくも現実は光秀の読み通りになったといえます。

「本能寺の変」のきっかけは、今もなお日本史上トップクラスの謎とされているのです。

  • 個人的な恨み説
  • 友好関係にあった長宗我部氏への助け船説

果てには「信長の自作自演」まで、ありとあらゆる説がまことしやかに語られ決着がついていません。

「本能寺の変」から、もう440年が経ちます。

悠久の時を経てもなお明かされぬ光秀の心の内。

あるいはそれは、この先も永遠に解明されないのかもしれません。


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明智光秀の【子孫】は、どうなったのか?

芸能人や政治評論家、果ては皇室にまで血筋が伝わっています。

まずタレントや声優として活躍されている「クリス・ペプラー」さんが、明智光秀の末裔といわれています。

ペプラーさんはドイツ系アメリカ人の父と日本人の母とのハーフ。

母方の先祖に「明智光秀の実子」とされる人物がいて、専門家からも「その可能性は高い」と指摘されているのです。

「その可能性は高い」というと何とも歯切れが悪いのですが、それには理由があります。

ペプラーさんに限らず、「明智光秀の末裔と伝わっているけれども確証はない」というケースが、とても多いのです。

もともと光秀は有名な家系の生まれではなく、その前半生も分かっていないことばかり。

おまけに「信長に弓を引いた男の一族」というだけで、肩身の狭い思いをするのは必至ですから、光秀の家系にあってもそれを隠すのは自然な流れです。

証拠が残っていないのも致し方ないことでしょう。

では、明智光秀の血を引いていることが明らかである家系、つまり光秀の系譜であることがはっきりしている家系はないのでしょうか。

結論からいえば「あります」。

明智光秀の娘・玉(珠)の家系です。

玉は光秀と親交のあった細川藤孝の子・細川忠興に嫁ぎ、多くの子どもを設けます。

そのうち長男・忠隆は忠興の不興を買って廃嫡されてしまいますが、細川家臣として光秀の血脈を伝えました。

忠隆の末裔とされるのが、政治評論家の故・細川隆一郎さんです。

さらにその孫・片平凌悟さんは「明智光秀の末裔」として光秀の研究をされています。

光秀の孫・細川忠隆と「多羅」(忠隆の兄妹)の血筋は、途中で皇室にも伝わりました。

なお、細川家は忠隆の弟・細川忠利が継ぎ、肥後国熊本藩主を代々務めています。

「とすると、肥後細川家の末裔である細川護熙・元総理大臣も光秀の末裔!?」

と思われる方もいるかもしれません。

しかし、それは誤りであることが指摘されています。

肥後細川家は、途中で傍流(細川忠隆の異母弟の家系)から養子をとっているので、光秀の子孫は途絶えてしまったのです。

つまり、熊本藩主だった細川家には光秀の血は引き継がれていないものの、その他の分家に光秀の血筋は受け継がれているのです。

このように明智光秀の血筋は現在まで受け継がれています。

ただ、光秀の子孫であることをはっきりと示せる家系は限られているのです。


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明智光秀の【死後に起こった出来事】とは?

織田信長の跡目争いを通じ、羽柴秀吉(はしば ひでよし)と柴田勝家(しばた かついえ)が対立します。

「山崎の戦い」から約2週間後。

信長亡き後の「今後」が織田家臣の間で話し合われました。

世にいう「清須会議」です。

中でも大きな争点となったのが「誰が信長の跡を継ぐか」ということ。

重臣・柴田勝家は、織田信孝(信長の三男)を支持したのに対し、羽柴秀吉は織田三法師(さんほうし・信長の孫)を推しました。

会議は重臣・丹羽長秀(にわ ながひで)による「長男が相続すべき」との主張で大勢が決します。

信長の長男(信忠)の長男である「織田三法師」、ひいては三法師を擁立した秀吉に軍配が上がったのです。

この結果に、古参の猛将・柴田勝家は反発。

秀吉と勝家の対立はエスカレートし、賤ヶ岳の戦い(しずがたけのたたかい)の火種となるのです。

 


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まとめ

この記事をまとめますと、以下の通り

この記事を短く言うと

 

1,明智光秀の『死因』は?

【戦死】

 

2,明智光秀が【亡くなった日時】は?

1582年7月2日(天正10年6月13日)

享年55歳(または67歳)

 

3,明智光秀の【最後の様子】とは?

落武者狩りに襲撃され、命を落とした。

 

4,明智光秀の【辞世の句】とは?

「心しらぬ 人は何とも 言はばいへ 身をも惜まじ 名をも惜まじ」

 

5,明智光秀の【子孫】とは?

著名人や皇室に光秀の血筋が継承されているほか、記録には残っていない家系も存在するとみられる。

 

6,明智光秀の【死後に起こった出来事】とは?

「清須会議」を経て、羽柴秀吉と柴田勝家の対立が深まる。

以上となります。

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