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【真田昌幸】の最後と死因をわかりやすく解説!子孫と辞世の句は?

真田昌幸(さなだ まさゆき)の【死因】や【最後の様子】について、短くまとめると、以下のとおりです。

  1. 真田昌幸の死因は、病気。
  2. 亡くなったのは、1611年7月13日。
  3. 高野山九度山に流され病死した。

この記事では、真田昌幸の最後の様子について、ひと目で分かるようにまとめました。

真田昌幸の最後と死因について知りたい方にとって、この記事は必ずお役に立つはずです。



専門サイト「最期と死因ドットコム」へようこそ。

どうぞ、ごゆっくりお過ごしくださいませ。

真田昌幸の【死因】と【亡くなった日】

真田昌幸の【死因】

真田昌幸は高野山での軟禁生活で病にかかり亡くなりました。

真田昌幸
引用元ウィキペディアより

真田昌幸が【亡くなった日】と【享年】

新暦:1611年7月13日

旧暦:慶長16年6月4日

享年:数えで65歳(満63歳)

真田昌幸の【最後の様子】は?

真田昌幸は高野山に流され軟禁生活を送るなか、病没しました。

慶長5年(1600年)9月15日に、対立がピークに達した徳川家康と石田三成が「天下分け目」の一戦に臨みました。

いわゆる「関ヶ原の戦い」です。

「関ヶ原の戦い」に際し、真田昌幸は次男・幸村とともに石田方に加担。

石田三成
引用元ウィキペディアより

関ヶ原ではなく、居城・上田城にて徳川秀忠の大軍(38,000人!)をわずか3000人ほどで迎え撃ちます。

この「上田合戦」は、まさしく真田昌幸が本領を発揮した一戦でした。

秀忠からの降伏勧告をのらりくらりとかわして時間を稼いだ挙句、「戦支度ができた。さぁ、攻めてみろ」と挑発。

激怒した徳川軍を上田城に引き入れたところで、集中砲火を浴びせたのです。

最前線の徳川軍は、後ろから続々と味方が突進してくるので引き返せません。

上田城二の丸大手門前に、死体の山ができていきます。

そんなときでした。

徳川軍の後ろに、真田幸村の手勢が出現したのです。

真田信繁/真田幸村肖像:上田市立博物館所蔵品:Wikipediaよりパブリックドメイン

前は鉄砲の嵐、後ろは真田幸村。

大混乱のうちに徳川軍は退却をはじめ、さらには折からの雨で増水していた川を渡ったときに多くの兵士が溺れてしまいます。

数日後、徳川秀忠は家康の要請で上田城の攻略を諦め、関ヶ原に向かいます。

上田城での戦いは、真田昌幸の大勝利に終わったのです。

しかし肝心の「関ヶ原の戦い」では石田三成が敗北。

真田昌幸も徳川方に降伏を申し出、幸村とともに高野山九度山へ「島流し」にされました。

真田親子は追放先に庵(いおり)をつくって生活しましたが、罪人の身である以上、自由は制限されます。

不自由な生活はやがて真田昌幸の心身をむしばみ、覇気を奪っていきました。

最終的には、郷愁にひたって徳川家に許しを乞うだけの老人になってしまったといいます。

そして慶長16年6月4日(1611年7月13日)。

真田昌幸は65歳にして、この世を去ることになります。

軟禁生活が祟って病死したとされますが、最晩年の詳しい様子は分かっていません。

武田信玄の世話係から異例の出世を果たし、その類まれなる智謀で独立を守り抜いた「表裏比興の者」・真田昌幸。

彼は歴史の表舞台から降りるや生き甲斐を失い、たちまち朽ちていったのです。

真田昌幸の【辞世の句】とその意味とは?

真田昌幸の辞世の句は残っていません。

その代わり高野山へ出立する前、長男・信幸(のぶゆき)に言ったとされる次の一言が有名です。

「さても口惜しき事かな。内府をこそ、かくしよふと思ひしに」

(なんとも悔しいことだ。家康をこそ、こうしてやろう〔島流しにしてやろう〕と思ったのだが)

真田昌幸は生涯二度にわたって徳川家の軍団をを翻弄しました。

後年、徳川家康が昌幸を恐れていたととれる逸話も残っています。

徳川家康
引用元ウィキペディアより

昌幸にとって、家康は十分倒せる相手だったのかもしれません。

事実、「関ヶ原の戦い」では真田昌幸の足止めによって徳川秀忠が率いた徳川軍本隊38000人の到着が遅れ、純粋な兵数では西軍が有利でした。

徳川家康にとって「関ヶ原の戦い」は、油断ならない一戦だったのです。

しかし戦いはあっという間に東軍の勝利に終わってしまいます。

「自信はあったのにリーダーが倒れたので本懐を遂げられなかった」という現実に、昌幸はさぞ悔しい思いをしたことでしょう。

「さても口惜しき事かな」という言葉からは、そのような強い無念が伝わってきます。

そして悲しいかな、昌幸にリベンジの機会は訪れませんでした。

真田昌幸の【子孫】は、どうなったのか?

真田昌幸は子宝に恵まれましたが、とくに信幸・幸村の2人が有名です。

長男・真田信幸(信之)は、江戸幕府において真田家の地位を守る大役を担いました。

もともと武田信玄・勝頼の人質だった信幸は、武田家滅亡によって真田家に戻ります。

その後は真田家の武将と次期当主として昌幸のもとで活躍、世情が安定してくると徳川家に仕えます。

やがて徳川家の重臣・本多忠勝の娘(小松姫)を正室に迎え、「関ヶ原の戦い」や「大坂の陣」でも徳川方に味方しました。

その甲斐あって江戸時代には真田家が、沼田藩と松代藩を治めることになります。

松代藩は幕末まで続き、真田家は「子爵」(のちに「伯爵」)の称号を授けられました。

その一方で、二度にわたり徳川家に弓を引いたのが次男・幸村(正式には信繁)です。

幸村は若かりし日の多くを武田家や上杉家で人質として過ごしました。

しかし初陣が遅かったというハンデを感じさせない戦上手で、「上田合戦」では父・昌幸とともに徳川秀忠軍を散々に撃破しています。

その後、高野山で昌幸と死別しますが、豊臣家の誘いに応じて大坂城に参上。

「大坂冬の陣」では真田丸という城(しろ)を築いて徳川軍に大打撃をあたえ、「夏の陣」では家康本陣に突撃を繰り返し、家康を震え上がらせました。

幸村の雄姿は人々の心を打ち、今日まで「日本一の兵(つわもの)」と謳(うた)われています。

真田昌幸の【死後に起こった出来事】とは?

徳川家と豊臣家の決戦・「大坂の陣」が起こります。

真田昌幸は高野山での軟禁生活ですっかり「くだびれて」しまいましたが、その「先見の明」は衰えていませんでした。

昌幸は「大坂の陣」の勃発を予想したといわれているのです。

それどころか、

「豊臣は積極的に城から打って出て、要所をおさえねば勝てない」

と具体的な作戦まで語ったそうです。

しかし昌幸の眼は、幸村の未来をも見透かしていました。

「自分自身(昌幸)ならばまだしも、無名な幸村が作戦を提案したところで、他の武将が首を縦に振らないだろう」

というのです。

果たしてその予言は現実となります。

「冬の陣」「夏の陣」の両方で真田幸村の積極的な作戦は却下され、結局、豊臣家は敗北してしまいました。

「大坂の陣」に昌幸が参戦していれば、歴史は大きく変わっていたかもしれません。

まとめ

この記事をまとめますと、以下の通り

この記事を短く言うと

 

1,真田昌幸の『死因』は?

【病気】

 

2,真田昌幸が【亡くなった日時】は?

1611年7月13日(慶長16年6月4日)

享年歳

 

3,真田昌幸の【最後の様子】とは?

高野山九度山に流され、失意のうちに病没した。

 

4,真田昌幸の【最期の言葉】とは?

「さても口惜しき事かな。内府をこそ、かくしよふと思ひしに」

 

5,真田昌幸の【子孫】とは?

長男・信幸が真田家の地位を保ち、次男・幸村の活躍で家名を高めた。

 

6,真田昌幸の【死後に起こった出来事】とは?

「大坂の陣」が勃発した。

以上となります。

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