板垣退助の【死因】や【最後の様子】について、短くまとめると、以下のとおりです。
- 板垣退助の死因は、高齢による肺炎、もしくは誤嚥性肺炎
- 板垣は、1917年(大正8年)7月16日に亡くなった。享年83歳。
- 板垣は、「人は死んだら終わりだという・・・」から始まる名言を残している
この記事では、板垣退助の最期の様子について、ひと目で分かるようにまとめました。
板垣退助の最期と死因について知りたい方にとって、この記事は必ずお役に立つはずです。
これを読んで、板垣退助の最期についての疑問を、スッキリと解消していただければ幸いです。
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どうぞ、ごゆっくりお過ごしくださいませ。
板垣退助の【死因】と【亡くなった日】
板垣退助の【死因】
板垣退助の死因は、肺炎(誤嚥性)
板垣退助が【亡くなった日】と【享年】
1917年(大正8年)7月16日
享年83歳
板垣退助の【最後の様子】は?
板垣退助の最後は、くわしい様子まではわかりませんが、おそらく家族に見守られるかたちで、亡くなったと思われます。
風邪をこじらせての肺炎が悪化して亡くなられたかと思います。
または誤嚥性肺炎ではないか、という記述もありました。
板垣は、自由民権運動に心血を注いで、日本での国会開設を実現させた重要な人物でした。
政界で内務大臣とまでなった人物です。
政界引退後も社会事業に力をつくしていました。
社会事業活動には自分の財産も惜しみなく使ってしまうほどでした。
最後は自分の屋敷も売り払うほどでして、晩年は住まなくなった友人の家を借りて、そこで余生をすごし、趣味の相撲と競馬をいそしんでいたとのことです。
板垣は相撲協会の役員となり、国技館の設立にも貢献しました。
葬儀の際には、力士たちが棺を担ぎ、3000人の各方面の人々が参列したそうです
板垣退助が残した名言と意味とは?
板垣死すとも自由は死せず
板垣は、岐阜県での演説を終えて、連日の遊説のため疲れていたため一足早く宿で休もうと演説会場の玄関を出たところで襲われました。
とっさに若い時に習っていた武術が身を助け、胸を刺されましたが致命傷にはならずに済んだとの事です。
犯人は、板垣の秘書たちにその場で取り押さえられました。
その時に、板垣は息も絶え絶えに
「板垣死すとも自由は死なず」
と叫んだとありますが、実際の状況とは少し違うようです。
その場にいた新聞記者が、大げさにデフォルメして挙句に生まれた言葉らしいです
ほどなく名古屋にいた医師の後藤新平(後の東京市長)が駆け付けて、最善の処置を施しました。
板垣退助が残した名言
板垣退助の辞世の句と呼べるものは、記録にはないようです
けれど彼自身が言い残した言葉があります
「人は死んだら終わりだと言う
しかし私はそう思わない
たとえ私の墓が草に埋もれていても
志ある人が私の墓を前にして
世の矛盾に怒り、それを糾さんと世のために働いてくれるのなら
私の死は終わりではない」
その意味を解説すると、以下のとおりです。
私が死んだ後も自分の精神を、誰かが引き継いでくれるのなら、たとえ自分が死んでも
自分は永遠に生き続けられることでしょう。
板垣退助の【子孫】は、どうなったのか?
板垣退助には、正妻や再婚相手など五人もの妻との間に、五男五女が産まれています。
- 板垣鉾太郎(長男) 教育家
- 乾正士(次男)近江師団(軍人)後にクリスチャンになる
- 板垣孫三郎(三男)
- 板垣正美(四男)
- 乾六一(五男)
- 兵(長女)
- 軍(次女) 宮地茂春(実業家)の妻になる
- 猿(三女) 小川一眞(写真家)の妻になる。
- 千代子(四女) 浅野泰次郎(浅野セメント社長)の妻になる
- 良子(五女) 小山鞆絵(哲学者)の妻になる
板垣退助の【死後に起こった出来事】とは?
板垣退助は、嫡男の鉾太郎を廃嫡しており、家督を孫に相続させました。
なぜそんな事になったのかというと、板垣退助が主張していた【一代華族論】という主張が原因です。
板垣は、華族の特権を批判し、華族という特権の階級を代々子孫へと世襲していくことを嫌い、華族特権は一代限りにすべきと主張していたのです。
そのため、自分が亡くなったあと、華族の栄典を息子へ相続させないために、廃嫡したのです。
板垣退助といえば、「民撰議院設立建白書」という文書を書いて、議会の開設を要望したことで有名です。
この「民撰議院設立建白書」の内容は、簡単に言ってしまうと
「国会議員は国民のために尽くせ。
国民から選ばれた議員は、国民の利益になる政策や法律などを、自らの頭で考えて、自らの知恵で民のための政治を行う方法を発案し、実現すべきだ」
というものです。
よくテレビなどで国会議員が
「もっと勉強して下さい」
とか
「自分でやったらどうですか」
なんて、偉そうに国民に対して言っているシーンがあります。
ところが、国民は勉強する必要などないし、自分でやる必要などあろうはずもないのです。
ただただ【減税】と【規制緩和】だけをやるように議員へ迫り、減税と規制緩和ができないなら文句を言って落選させるだけで良いのです。
板垣退助は、こんな事を言う「民のために働かない議員」が存在しようものならば、断じてそんな議員の存在を許さないでしょう。
2022年現在の実質的な税率(国民負担率)は48%だそうです。1970年の税率は25%でした
つまり50年で税率が約2倍になっているのです。
江戸時代ですら、税率は40%でした。
重税は国を疲弊させ、滅ぼしてしまうのです。
もしも板垣退助が現代に生きていたら、この重税を半減させるために、命の限りを尽くしていたでしょう。
そろそろ日本も、大減税をすべき時なのではないでしょうか。
「少子高齢化だから仕方ない」なんていう嘘に騙されていては、板垣退助が悲しむことでしょう・・・。
まとめ
この記事をまとめますと、以下の通り
この記事を短く言うと
1,板垣退助の『死因』は?
肺炎(誤嚥性)
2,板垣退助が【亡くなった日時】は?
1917年(大正8年)7月16日
享年83歳
3,板垣退助の【最後の様子】とは?
詳しい記述は見つけられませんでしたが、おそらく家族に看取られるかたちでなくなったと思われます。
晩年も社会事業活動を精力的に行っていたとのこと、相撲協会の仕事に尽力し国技館の建設に一役を担いました。
4,板垣退助の【最期の言葉】とは?
最期の言葉は不明だが、「人は死んだら終りというが、私はそうは思わない・・・」という言葉を残しています。
5,板垣退助の【子孫】とは?
板垣退助には、五男五女がいたが
6,板垣退助の【死後に起こった出来事】とは?
政党政治や国会を開設されました。これが現在の日本につながる日本の政治体制の基礎を築いたといえるでしょう。
以上となります。
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