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藤原泰衡の死因と最期をわかりやすく解説!子孫と最期の言葉がスゴイ

藤原泰衡(ふじわらの やすひら)の【死因】や【最後の様子】について、短くまとめると、以下のとおりです。

  1. 藤原泰衡の死因は、家臣による暗殺。
  2. 泰衡は、新暦1189年10月14日、旧暦文治5年9月3日に亡くなった。享年35歳。
  3. 藤原泰衡の死後、子孫も活躍できなかったが、一族からは総理大臣を輩出した。

この記事では、藤原泰衡の最期の様子について、ひと目で分かるようにまとめました。

藤原泰衡の最期と死因について知りたい方にとって、この記事は必ずお役に立つはずです。

これを読んで、藤原泰衡の最期についての疑問を、スッキリと解消していただければ幸いです。



専門サイト「最期と死因ドットコム」へようこそ。

どうぞ、ごゆっくりお過ごしくださいませ。

目次

藤原泰衡の【死因】と【亡くなった日】

藤原泰衡の【死因】

藤原泰衡の死因は、暗殺

藤原泰衡が【亡くなった日】と【享年】

新暦・1189年10月14日

旧暦・文治5年9月3日

享年35歳


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藤原泰衡の【最後の様子】は?死ぬ前に起こったことを解説

藤原泰衡は、父・秀衡の遺言に背いて、朝廷と頼朝から命じられたとおり、盟友・源義経を討伐しました。

その後、源頼朝へ降伏するつもりでしたが、頼朝に攻撃され、100年続いた奥州藤原氏は滅亡したのです。

藤原泰衡は奥州藤原氏3代当主・藤原秀衡の次男として生まれましたが、秀衡の正室の子であったため、長男・国衡をさしおいて嫡男として育てられました。

源義経(みなもとのよしつね)が対立した兄・頼朝(よりとも)に追われて欧州に逃れてきた際、秀衡は、

  • 泰衡
  • 国衡

の二人に

兄弟揃って義経を支えて頼朝に対抗せよ

と命じて亡くなりました。

しかし源義経の身柄を渡せと圧力をかけてくる頼朝が、

義経を討伐せよ

という宣旨(せんじ、朝廷の命令)を朝廷に出させると、泰衡は頼朝や朝廷に逆らうことはできず、父・秀衡の遺言に背いてしまうのです。

1189年(文治5年)、泰衡は自分に反対して義経を守ろうとした弟・忠衡を殺害し、匿っていた義経にも奇襲を仕掛け、自害に追い込みました。(衣川の戦い)

源義経
「引用元ウィキペディアより」

義経の首を差し出すことで、頼朝に恭順の意を示そうとしたのです。

しかし頼朝からは

「義経は私が討つ予定だったのに勝手に討った」

といった無理矢理な理由をでっち上げられて、今度は泰衡を討伐するための大軍団を自ら率いて奥州にやってきてしまうことになります。(奥州合戦)

兄・国衡は、この戦の最中で戦死してしまい、泰衡も家臣・河田次郎に裏切られて殺されてしまいました。

泰衡の首はその後、頼朝によって八寸(24cm)の釘を眉間から柱に打ち付けられたといいます。

その後、泰衡の首は、中尊寺金色堂に、父・秀衡の棺のそばに埋められたのでした。


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藤原泰衡の【最期の言葉】とその意味とは?

泰衡は最期の最期に、以下のような文章を、奥州へ攻め入った源頼朝へおくり、命乞いをしたといいます。

義経の事は、父・秀衡が保護したものであり、自分はまったく知らない事です。

父・藤原秀衡が亡くなった後、あなたさま(源頼朝)の命令を受けて、私は源九郎義経を討ち取りました。

これは勲功と言うべきものではないでしょうか。

そうであるにもかかわらず今、罪も無い私が征伐されるのは、なぜなのでしょうか。

その為に先祖から継承した土地から逃げ去り、山林をさまよい歩き、大変苦労しています。

陸奥国と出羽国(東北地方全域のこと)を、頼朝公が支配しておられる今は、自分を許してもらい御家人(部下)に加えていただきたい。

さもなければ死罪を減免して、せめて遠い地への流罪にして頂きたい。

もし、お慈悲によってご返答があれば、比内郡のあたりに置いてください。

その是非によって、帰還し、おそばに参じたいと思います。

しかし頼朝はこの命乞いに対して、耳を傾けることは有りませんでした。

泰衡は北海道へ逃げようとした途中で、現在の秋田県大館市において、そこを支配していた家来の河田次郎に裏切られて暗殺されてしまいます。

泰衡は、義経を討伐し、しかもこのような命乞いの手紙を送っていることから、後世における評価が良くありません。


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藤原泰衡の【子孫】は、どうなったのか?

泰衡の子孫は、その後も瀬戸内海・因島(いんのしま)などで続いたといいます。

泰衡の子孫ではないですが、先祖を同じくする安倍氏からは、元首相の安倍晋三さんが誕生しています。

  • 時衡(ときひら)
  • 秀安(ひでやす)
  • 泰高(やすたか)

の3人の息子がいました。

時衡は泰衡と共に討たれてしまいましたが、残りのふたりは生き残りました。

秀安の子孫は、秀安から数えて9代後までの記録が残っており、泰高の子孫は瀬戸内海にある因島(いんのしま)に移住したとされていますが、歴史の表舞台に登場することはありませんでした。

直接の子孫ではありませんが、奥州藤原氏の初代・藤原清衡(きよひら)の母は

  • 前九年の役
  • 後三年の役

で朝廷と戦った安倍頼時(あべ よりとき)の娘であり、藤原氏はこの安倍氏の血を受け継いでいることになります。

そしてこの安倍氏が謀反の罪で流されたのちに、その地に定住し、地方豪族化しました。

その安倍氏をルーツに持つのが、安倍晋三元総理大臣です。

つまり、藤原泰衡と安倍晋三元総理は、同じ安倍氏を先祖に持つ者同士なのです。

藤原泰衡の直接的な子孫は大成しませんでしたが、その遠い遠い一族からは総理大臣を出すなど、後世に優秀な一家を残してきたことになります。


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藤原泰衡の【死後に起こった出来事】とは?

藤原泰衡が亡くなった3年後の1192年、源頼朝は征夷大将軍に就任し、頂点を極めました。

《源頼朝》
「引用元ウィキペディアより」

ところが、そんな頼朝も、1199年に病気が原因で亡くなります。(落馬が原因という説もある)

その後の鎌倉幕府は、頼朝の息子である頼家と実朝が、二代目三代目の征夷大将軍として君臨するものの、権力闘争に巻き込まれて、二人とも暗殺されてしまいます。

そんな権力闘争に勝利したのが、頼朝の妻・政子の実家だった北条氏です。

北条氏は、時政・義時父子が執権という、幕府ナンバー2の地位を占めて、支配します。

そして1221年、北条義時は、承久の乱(じょうきゅうのらん)において、後鳥羽上皇に勝利。

北条義時
「引用元ウィキペディアより」

こうして北条義時は、平清盛と源頼朝がつくりあげた、武士が支配する日本の形を、盤石なものとしたのです。


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まとめ

この記事をまとめますと、以下の通り

この記事を短く言うと

 

1,藤原泰衡の『死因』は?

藤原泰衡の死因は暗殺

 

2,藤原泰衡が【亡くなった日時】は?

新暦・1189年10月14日

旧暦・文治5年9月3日

享年35歳

 

3,藤原泰衡の【最後の様子】とは?

父の言いつけを破って源義経を討ち、家名を守ろうとしたが、源頼朝に攻め滅ぼされてしまった。

 

4,藤原泰衡の【最期の言葉】とは?

泰衡は、頼朝に対して、最期の命乞いをする手紙をおくったという

 

5,藤原泰衡の【子孫】とは?

直接の子孫は歴史の表舞台で活躍できなかったが、一族からはのちの総理大臣にもなる政治家を輩出した。

 

6,藤原泰衡の【死後に起こった出来事】とは?

泰衡の死後、頼朝は征夷大将軍に就任するが、鎌倉幕府はその後、北条一族に乗っ取られてしまう

以上となります。

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