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【新島襄】の最後と死因をわかりやすく解説!最期の言葉と子孫のゆくえ

新島襄の【死因】や【最後の様子】について、短くまとめると、以下のとおりです。

  1. 新島襄の死因は、病死。急性腹膜炎だった。
  2. 新島襄は、明治23年(1890年)1月23日に亡くなった。
  3. 新島襄は、自身が創設した同志社英学校を大学にするため、亡くなる間際まで奔走した。

この記事では、新島襄の最期の様子について、ひと目で分かるようにまとめました。

新島襄の最期と死因について知りたい方にとって、この記事は必ずお役に立つはずです。

これを読んで、新島襄の最期についての疑問を、スッキリと解消していただければ幸いです。



専門サイト「最期と死因ドットコム」へようこそ。

どうぞ、ごゆっくりお過ごしくださいませ。

新島襄の【死因】と【亡くなった日】

新島襄の【死因】

新島襄の死因は、病死です。

直接的な死因は急性腹膜炎きゅうせいふくまくえんといわれていますが、海外視察中に心臓発作を起こして倒れ、晩年も悪化させていることからも、かなり前から体調を崩していたようです。

新島襄が【亡くなった日】と【享年】

新島襄は、明治23年(1890年)1月23日に亡くなりました。

享年46歳でした。

新島襄の【最後の様子】は?死の前に起こっていたことを解説

亡くなる直前、襄は、盟友・徳富蘇峰とくとみそほうの勧めもあり、神奈川県大磯の旅館・百足屋の別館・松園で静養していました。

自身が創設した同志社英学校を、大学にするため奔走している最中に、襄は群馬県前橋で急な腹痛に襲われ倒れました。

12月、大磯の百足屋で静養を開始します

1月18日、容体が悪化。

妻・八重と蘇峰に電報が打たれます。

急いで駆けつけた八重をみて、襄は

「今日ほど長い1日はなかった、あなたを待っていた」

と言ったといわれています。

襄は、忙しい自分に代わり、年老いた自身の母・とみの世話を八重に頼んでいたため、自身の体調が悪化してもなかなか知らせようとはしなかったそうです。

百足屋での静養中は、襄の愛弟子の1人でもある不破唯次郎の妻・ユウに看護されていました。

死期を悟った襄は、八重、蘇峰ら立ち会いのもと遺言を残しました。

新島襄の【辞世の句】または【最期の言葉】とその意味とは?

「狼狽するなかれ、グッドバイ、また会わん」

という言葉を、新島襄は亡くなる前に残しました。

襄と妻の八重は、互いが互いを尊重し、非常に仲が良かったといわれています。

西洋での暮らしが長かった襄は、男性と対等に生きる自立した女性との結婚を望んでいました。

結婚観を尋ねられた際も

「夫が東を向けと言ったら、3年も東を向いているような女性は嫌です」

とも語っています。

襄はアメリカの友人・ハーディー宛の手紙の中で、八重のことを

「彼女は見た目は決してハンサムではありません。

ただ、生き方がハンサムなのです。私にはそれで十分です」

と語っています。

八重は、男勝りな性格だったといわれており、たびたび周囲の人たちとの確執を生みましたが、襄はそれを優しく諌めながら見守っていました。

自分の死期が近いことを悟った襄は、自分の死後、八重が生活に困らないようにと、友人の山林地主に出資をしてマッチ樹木の株主となっています。

その利益を、妻に配分してほしいと託しました。

このことからも、八重を深く愛していたことがわかります。

「また会おう」

という最後の言葉も、本当に八重に再び会いたいと思って出た言葉なのかもしれません。

新島襄の【子孫】は、どうなったのか?

襄と八重の間に子どもはいませんでしたので、直系の子孫にあたる人物は存在しません。

安中藩(現在の群馬県)藩士である新島家は、長男である襄の上に姉(くわ、まき、みよ、とき)がいました。

後に弟の双六が誕生しています。

本来であれば、長男の襄が家を継いでいなければなりませんが、出奔し、アメリカに密入国してしまったため、廃嫡。

次男の双六が後を継ぎました。

その双六は元々病弱だったこともあり、若くして亡くなってしまいます。

そこで、同じ安中藩士・植栗義達の次男・球弥(後の新島公義)を双六の養子とし、跡を継がせました。

その後、襄・八重夫婦にも子どもがいなかったため、公義が家督も継ぐことになりました。

しかし、八重と公義の相性があまり芳しくなく、疎遠となってしまいます。

八重は、新島襄の後継者とするため男女何人もの養子をとりましたが、数年ともちませんでした。

唯一懐いたのが甘糟三郎の娘・初といわれており、八重は初を養女としました。

その後、初の息子に「新島襄次」の名前を与えましたが、襄次も若くして亡くなってしまいました。

襄の姉(長女)のくわは、弘化2年(1845年)に岩村藩(現在の岐阜県)藩士・加賀野加賀右衛門に嫁ぎます。

加賀右衛門が嘉永7年(1854年)に病死すると、一度新島家に戻ってきますが、安政3年(1857年)に秋田新田藩(現在の秋田県)藩士・木村三彌と再婚。

安政6年(1859年)に鍈三郎を出産。翌万延元年(1860年)に亡くなりました。

再婚同士だったため木村家には三彌と先妻の間に生まれた一児がいました。

そのため鍈三郎は、実子がいなかった三彌の兄・浅尾藤兵衛の家に、養子として迎えられました。

次女のまきは、嘉永6年(1853年)に秋田新田藩藩士・植村鏡之進に嫁ぎました。

娘・よねが誕生しますが、安政4年(1857年)に夫・鏡之進が病死。

男児がいなかったことから、よねの婿養子として同藩藩士の篠原良太の弟・新次を迎えて後継としました。

四女・ときは、文久元年(1861年)に椎谷藩(現在の新潟県)藩士・速水林治に嫁ぎました。

三女・みよは、幼い頃に襄を背負っていた際、誤って転倒し、生涯左足が不自由になってしまいます。裁縫を生業とし、生涯独身で過ごしたといわれています。

八重や同志社と疎遠になってしまった公義は、同志社英学校を卒業した後、同志社や、保険会社、京都鉄道株式会社など、職を転々とします。

正直者で、やや短気なところもあったという公義は、なかなか仕事が続かず、家は困窮していたようです。

公義は、大正12年(1923年)9月1日の関東大震災での怪我が元で、大正13年(1924年)5月16日に亡くなります。

公義はかずという女性と結婚しており、息子・得夫、さらにその息子・公一と、世代は続きました。

新島襄の【死後に起こった出来事】とは?

明治23年(1890年)1月27日に同志社前のチャペルで執り行われた襄の葬儀には、4000人近い人が参列しました。

棺は、同志社の学生たちが担ぎ、東山若王子山頂まで運び、埋葬されました。

墓碑銘は、徳富蘇峰が依頼し、勝海舟が書いたものです。

本来、襄の埋葬地は父・民治が眠る南禅寺に決まっていましたが、前日になって南禅寺側から

「キリスト教式の葬儀は認めないこと」

「キリスト教徒として碑をたててはいけないこと」

などの通告を受け、急遽、南禅寺に接する若王子墓地に埋葬地が変更されました。

明治40年(1907年)には、帝国教育会から「六大教育家」の1人として顕彰され、大正4年(1915年)には官位を贈られました。

襄以外の顕彰者は、

  • 初代文部卿・大木喬任おおきたかとう
  • 初代文部大臣・森有礼もりありのり
  • 蘭学塾攻玉社創設者・近藤真琴こんどうまこと
  • 英学塾同人社創設者・中村正直なかむらまさなお
  • 慶應義塾創立者・福沢諭吉ふくざわゆきち

でした、

また、襄の悲願でもあった同志社英学校は、襄の死から30年後の大正9年(1920年)に大学となりました。

まとめ

この記事をまとめますと、以下の通り

この記事を短く言うと

 

1,新島襄の『死因』は?

新島襄の死因は、病死。

急性腹膜炎だった。

 

2,新島襄が【亡くなった日時】は?

新島襄は、明治23年(1890年)1月23日に亡くなった。

享年46歳

 

3,新島襄の【最後の様子】とは?

新島襄は、最後まで同志社のために活動していた。

  また、妻・八重のことを心から愛していた。

 

4,新島襄の【最期の言葉】とは?

「狼狽するなかれ、グッドバイ、また会わん」

 

5,新島襄の【子孫】とは?

新島襄と妻・八重のあいだには子供がいなかったため、子孫はいないが、養子・公義という人物がいた

 

6,新島襄の【死後に起こった出来事】とは?

その死後、同志社英学校は、同志社大学となった

以上となります。

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