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【北条政子】の死因と最期をわかりやすく解説!波乱の生涯と子孫のゆくえとは

北条政子の【死因】や【最後の様子】について、短くまとめると、以下のとおりです。

  1. 北条政子の死因は病死(おそらく赤痢せきり
  2. 西暦1225年(嘉禄元年)8月16日に亡くなった。享年69歳
  3. 政子は死ぬ前に、伊賀氏の変を鎮圧した
  4. 政子は、承久の乱において【頼朝様のご恩に報いよ】という名言を残した
  5. 政子には、子孫がいない
  6. 政子の死後、元寇という歴史的事件が起こった

この記事では、北条政子の最期の様子について、ひと目で分かるようにまとめました。

北条政子の最期と死因について知りたい方にとって、この記事は必ずお役に立つはずです。

これを読んで、北条政子の最期についての疑問を、スッキリと解消していただければ幸いです。



専門サイト【最期と死因ドットコム】へようこそ。

どうぞ、ごゆっくりお過ごしくださいませ。

目次

北条政子の【死因】と【最後の様子】

北条政子の【死因】

【結論】北条政子の死因は病死。くわしい病名はわかっていない。

歴史書「吾妻鏡」によれば、北条政子は亡くなる2ヶ月前から体調を崩していたといいます。

感染症で亡くなったという説が有力ですが、おそらく赤痢で亡くなったとおもわれます。

赤痢とは、赤痢菌が体内に入ることで、血便や下痢の症状を起こし、死に至る病気です。

実は、北条政子が亡くなった頃、日本では疫病が蔓延していたといいます。

その上、北条政子が亡くなるちょうど1月前、政子と関係が強かった大江広元が、赤痢で亡くなっているのです。

おそらく北条政子も赤痢によって亡くなったのではないでしょうか。

北条政子が【亡くなった日】と【享年】

【結論】

  • 西暦1225年(嘉禄元年)8月16日
  • 享年69歳

【北条政子の生涯】をザッと解説

北条政子の生涯を、ハイライトでザッと解説いたします。

源頼朝との出会い

1157年、北条政子は、伊豆の小豪族・北条氏の長女として産まれました。

1160年の平治の乱へいじのらんと呼ばれる戦乱で、平家のボス・平清盛たいらのきよもりに敗北した源頼朝は、罪人として、政子が暮らしていた伊豆へ送られ、幽閉生活をしていました。

頼朝は、その幽閉生活を監視する役割をつとめていた北条家の娘・政子と出会い、恋に落ちて結婚したのでした。

1180年、頼朝は平治の乱で父・源義朝みなもとのよしともを殺した宿敵・平清盛を倒すために挙兵。

このとき北条政子は、父・北条時政ときまさや弟・義時とともに頼朝を支えたといわれています。

頼朝の死と尼将軍

1185年、頼朝の弟・源義経みなもとのよしつねが、壇ノ浦の戦いだんのうらのたたかいで平家を滅ぼすことに成功します。(源平合戦げんぺいかっせん

しかしその直後、政子の夫・源頼朝は、弟の義経と対立。

逃亡犯となった義経を捕まえるために、頼朝は守護しゅご地頭じとうという、いわば警察や裁判所のようなものを日本全国に置くようになります。(1185年の鎌倉幕府の成立)

1189年、義経は、頼朝の命令をうけた藤原泰衡ふじわらやすひらに攻められて亡くなります。(衣川の戦いころもがわのたたかい

1192年には、頼朝は征夷大将軍せいいたいしょうぐんに就任し、武士たちのトップに君臨することとなるのです。

日本で最初の武士による政府をつくりあげた頼朝でしたが、1199年に急死してしまいます。

その後、鎌倉幕府は、政子と頼朝の息子である源頼家と源実朝が、二代目三代目の征夷大将軍として支配しますが、二人とも暗殺されてしまうのです。

政子は、二人の息子に先立たれながらも、尼将軍あましょうぐんと呼ばれるほどの権力を保持し、亡き夫・頼朝が残した鎌倉幕府という政府を守っていくのです。

承久の乱

二代将軍・源頼家や、三代将軍・源実朝が亡くなったあと、幕府は北条政子とその弟・北条義時によって支配されていきます。

ところが、鎌倉幕府という武士による政府を良く思っていなかった日本の支配者・後鳥羽上皇ごとばじょうこうが、1221年、北条義時の討伐を日本全国に命令したのでした。(承久の乱)

この戦いは、当初鎌倉幕府にまったく勝ち目がないと思われていました。

しかし、政子が歴史に残る大演説を成功させて、形勢は一気に逆転します。

鎌倉幕府は後鳥羽上皇に圧勝し、後鳥羽上皇は伊豆へと流罪とされたのでした。

1224年、弟・北条義時が病死します。

後を追うようにして、政子も翌年の1225年に病死するのでした。

北条政子の【最後の様子】とは?死ぬ間際に起こっていたことを解説

北条政子は、自らが亡くなる前年の1224年に急死した弟で執権しっけんだった北条義時の妻・伊賀の方の謀反を鎮圧し、その直後に亡くなりました。

1224年、それまで鎌倉幕府を支配していた政子の弟である北条義時が亡くなりました。

その死の直後に、義時の妻だった伊賀の方が、義時の嫡男である北条泰時ほうじょうやすときをさしおいて、自分が産んだ息子・北条政村まさむらを執権にしようと暗躍し始めたのでした。

三浦義村みうらよしむらをご存知でしょうか?北条義時のいとこであり、義時の生涯の盟友だった人物です。

伊賀の方は、この三浦義村と協力して謀反を起こそうとしていたようですが、政子は三浦義村を説得して味方に引き入れ、伊賀の方の謀反を未然に阻止。(伊賀氏の変いがしのへん

そうして鎌倉幕府を安定させてから、北条政子は病死したのでした。

北条政子の【辞世の句】または【残した言葉】とその意味を解説

【結論】北条政子の辞世の句じせいのくはない。

北条政子が残した言葉には

源頼朝みなもとのよりともさまのご恩は、山より高く、海より深い。後鳥羽上皇ごとばじょうこうの側近を討ち、ご恩に報いよ」

というものがあります

北条政子は、辞世の句は残していないようです。

ただ、政子は1221年におきた【承久の乱じょうきゅうのらん】と呼ばれる大戦争において、歴史に残る大演説をおこなっています。

その内容は、以下の通り

源頼朝みなもとのよりともさまのご恩は、山よりも高く、海よりも深い。

忠誠心などない後鳥羽上皇の部下が、あることないことでっちあげたため、【鎌倉幕府を討て】という、後鳥羽上皇ごとばじょうこうの間違った命令(不義の綸旨りんじ)がくだされた。

でっちあげをおこなった後鳥羽上皇の部下を討って、三代将軍遺跡ゆいせきをまっとうせよ。

ただし、後鳥羽上皇に味方したい者は、ただちに申し出て、上皇に味方するが良い」

1221年、当時の最高権力者だった後鳥羽上皇が、鎌倉幕府のトップに君臨していた政子の弟・北条義時を討て、という命令を全国にくだしました。

これに北条義時と鎌倉幕府は動揺し、戦う前から敗北しかねない状態だったのです。

北条政子は、尼将軍というあだ名で呼ばれていました。

政子は女性でありながら、当時の武士たちも顔負けなほどのカリスマ性を持っており、武士たちから尼将軍と呼ばれて恐れられていたのです。

そんな政子が、武士たちに対して、【頼朝さまのご恩に報いるために、後鳥羽上皇の軍を倒せ】と、演説を行い、武士たちの闘争心に火をつけたのでした。

こうして武士たちは、19万人もの大軍団にふくれあがり、後鳥羽上皇の軍団を圧倒。

のちに承久の乱と呼ばれることとなるこの戦いは、政子の演説のおかげで、鎌倉幕府軍の大勝利に終わったのです。

北条政子の【子孫】は、どうなったのかを解説

【結論】北条政子に子孫はいない。政子の4人の子供は、全員が政子より先に亡くなっている

北条政子に子孫と呼べる人はいません。

なぜなら、政子と夫・源頼朝とのあいだに生まれた4人の子供は、全員が母・政子より先に亡くなっているのです。

北条政子には、

  • 源頼家みなもとのよりいえ
  • 源実朝みなもとのさねとも
  • 大姫おおひめ
  • 三幡さんまん

という4人の子どもたちがいました。

  • 長男・源頼家は、父・頼朝のあとを継いで二代目の征夷大将軍となりましたが、暗殺されてしまいます。
  • 次男・源実朝は、三代目の征夷大将軍でしたが、これも兄・頼家の息子・公暁こうぎょうに暗殺されています。
  • 長女・大姫は、婚約者だった源義高みなもとのよしたかが殺されてしまったショックが原因で病死。
  • 次女・三幡も、若くして病死しています。

北条時宗ほうじょうときむねをご存知でしょうか?1274年と1281年の二度にわたって日本を攻撃してきたげんという国を撃退した英雄です。(元寇げんこう蒙古襲来もうこしゅうらい

この北条時宗は、政子の直系子孫ではありませんが、政子の弟・北条義時の子孫にあたります。

実は北条義時の子孫は、室町幕府むろまちばくふの初代将軍をつとめた足利尊氏あしかがたかうじの妻・北条登子ほうじょうとうこ赤橋登子あかはしとうこ)を通じて、現代まで続いています。

1983年にお亡くなりになられた東海大学の学長だった足利惇氏あしかがあつうじさんが、その北条登子の子孫の一人であると考えられます。

北条政子の【死後に起こった歴史的な出来事】とは?

【結論】北条政子の死後、元寇げんこうという事件が起こりました。

北条政子が亡くなった約50年後の1274年に、日本の歴史上でも最大の危機である【元寇】つまり【蒙古襲来もうこしゅうらい】という大事件が起こりました。

1274年、日本は政子と源頼朝がつくった鎌倉幕府という武士たちの政府が支配していました。

その鎌倉幕府のトップに君臨していたのが、政子の弟・北条義時の孫の孫にあたる八代目執権・北条時宗です。

フビライ・ハーンという人物をご存知でしょうか?ユーラシア大陸の半分を支配した史上最大の帝国・げんの皇帝だった人物です。

フビライは、1274年と1281年の二度にわたって日本を侵略するための軍団を送り込みましたが、北条時宗はこれを撃退し、日本を守りぬいたのでした。

まとめ

この記事をまとめますと、以下の通り

この記事を短く言うと

 

1,北条政子の『死因』は?

死因は病死

 

2,北条政子が【亡くなった日時】は?

西暦1225年(嘉禄元年)8月16日

享年69歳

 

3,北条政子の【最後の様子】とは?

最後の様子は、弟・北条義時の妻・伊賀の方の謀反を鎮圧して、鎌倉幕府を安定させて亡くなった。

 

4,北条政子の【最期の言葉】とは?

辞世の句または最後の言葉は残されていない。ただ、承久の乱において【源頼朝さまのご恩に報いよ】という名言を残した

 

5,北条政子の【子孫】とは?

子孫は残っていない。しかし、弟・北条義時の子孫が現代まで続いている

 

6,北条政子の【死後に起こった出来事】とは?

死後に元寇・蒙古襲来という事件が起こった

以上となります。

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