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【長宗我部元親】の最後と死因をわかりやすく解説!子孫と辞世の句は?

長宗我部元親(ちょうそかべ もとちか)の【死因】や【最後の様子】について、短くまとめると、以下のとおりです。

  1. 長宗我部元親の死因は、病気といわれています。
  2. 亡くなったのは、1599年7月11日(慶長4年5月19日)。享年61歳。
  3. 京都・伏見で病気療養をしていましたが、回復せず、そのまま亡くなりました。

この記事では、長宗我部元親の最後の様子について、ひと目で分かるようにまとめました。

長宗我部元親の最後と死因について知りたい方にとって、この記事は必ずお役に立つはずです。



専門サイト「最期と死因ドットコム」へようこそ。

どうぞ、ごゆっくりお過ごしくださいませ。

目次

長宗我部元親の【死因】と【亡くなった日】

長宗我部元親の【死因】

長宗我部元親の死因は病気によるものです

具体的な病名をふくめ、元親の臨終について、あまり詳しい情報はないようです。

長宗我部家が、いわゆる「歴史上の敗者」となってしまったことに原因があるのかもしれませんね。

長宗我部元親
ウィキペディアより引用

長宗我部元親が【亡くなった日】と【享年】

新暦:1599年7月11日

旧暦:慶長4年5月19日

享年:数え年で61歳


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長宗我部元親の【最後の様子】は?

長宗我部元親は、療養先の京都・伏見の屋敷で息をひきとりました。療養をつづけたものの回復せず、四男・盛親に遺言を残して亡くなったのです。

元親は土佐国(高知県)の大名でしたが、病気のため1599年4月に上洛。

京都や大坂の名医に診療を受けることが目的だったようです。

しかし、元親の体調は良くならず、5月10日には長宗我部盛親(元親の四男で家督を継いだ)に遺言を残し、5月19日に帰らぬ人となりました。

享年61歳。

長宗我部元親は、父・国親(くにちか)の遺志を引き継ぎ、土佐国のごく一部を治める地域の有力者の身から、たった一代で四国のほぼ全域を支配しました。

ところが、その栄華は豊臣秀吉の襲来によって瞬く間に崩壊します。

徳川家康
引用元ウィキペディアより

さらに、目をかけていた長男の信親が討死するなど不幸が重なり、覇気を失ったともいわれます。

その最後も、同じように儚いものだったのかもしれません。


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長宗我部元親の【辞世の句】は存在するのか?

残念ながら、長宗我部元親の辞世の句は伝わっていません。

栄枯盛衰を体現するような人生を送った元親。

もし辞世の句があったとしたら、そこにどのような思いをこめたのでしょうか。

長宗我部元親の【子孫】は、どうなったのか?

元親の子孫としては、長宗我部氏に関する著書を多数執筆している「長宗我部友親」さんが有名です。

友親さんは、香宗我部親泰(こうそかべ ちかやす:元親の実の弟)の末裔で、現在は長宗我部家の当主を務めています。

このように、長宗我部家は本家が途絶えてしまいますが、傍系は現在まで続いているようです。

中には、大名の家臣として江戸時代を生き抜いた人もいました。

とくにユニークなエピソードで知られるのが、長宗我部康豊(ちょうそかべ やすとよ)です。

康豊は元親の末子で、盛親とともに大坂の陣で西軍として戦ったそうです。

敗北したあとは、一般市民になりすまして追手をやり過ごすと、信濃国にわたりました。

そのまま康豊は、陰陽師として有名な【安倍晴明】の末裔という嘘をついて占いをしたり、事件を解決したりして生計を立てましたが、やがて駿河城主・酒井忠利を救ったことで、家臣に取り立てられたといいます。

酒井氏は徳川氏の重臣でした。

かつて一家を滅ぼした人の重臣に仕えるとは、人生なにがあるか分かりませんね。

ちなみに、酒井忠利は、康豊の正体を知ったうえで、彼を採用したようです。


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長宗我部元親の【死後に起こった出来事】とは?

元親の死後、長宗我部氏は、滅亡に向かって突き進むこととなります。

元親が亡くなった翌年の1600年に、「天下分け目」の関ヶ原の戦いが起こりました。

元親のあとを継いだ四男・盛親は、西軍(石田三成方)に加勢。

長宗我部盛親
引用元ウィキペディアより

とはいえ、実際に東軍(徳川家康方)と交戦することはなく、西軍が退却すると、そのまま土佐国へ帰ってしまいます。

せっかく家康軍と交戦しなかった盛親でしたが、東軍に内通していたとして、実の兄を殺害してしまいます。

このことが徳川家康の逆鱗に触れ、領地だった土佐国を没収されてしまいました。

所領を失い、大名から浪人へと転落した盛親は、京都の寺子屋で先生をして暮らしたといいます。

すると今度は、徳川氏と豊臣氏が直接衝突する「大坂の陣」が勃発。

大坂の陣は、1614年の冬と、1615年の夏の2回にわかれて行われましたが、盛親はその両方で、豊臣軍の一角として活躍しました。

しかし、結局は多勢に無勢。

夏の陣で敗退した盛親は、京都に逃げこんだところを逮捕されてしまいます。

そして、1615年5月15日、六条河原にて息子ともども斬首され、長宗我部氏は滅亡したのです。


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まとめ

この記事をまとめますと、以下の通り

この記事を短く言うと

 

1,長宗我部元親の『死因』は?

【病気】

 

2,長宗我部元親が【亡くなった日時】は?

新暦:1599年7月11日

旧暦:慶長4年5月19日

享年:数え年で61歳

 

3,長宗我部元親の【最後の様子】とは?

療養先の京都で亡くなった。

 

4,長宗我部元親の【辞世の句】とは?

伝わっていない。

 

5,長宗我部元親の【子孫】とは?

長宗我部の本家はまもなく滅亡するが、傍流の家系は現在まで続いている。

 

6,長宗我部元親の【死後に起こった出来事】とは?

関ヶ原の戦いを機に所領を失う。さらに、当主である盛親が大坂の陣のあと処刑されたので、長宗我部氏は歴史の表舞台から姿を消した。

以上となります。

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