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島津斉彬の死因と最後をわかりやすく解説!暗殺された説は本当か?

島津斉彬の【死因】や【最後の様子】について、短くまとめると、以下のとおりです。

  1. 島津斉彬の死因は、病死。コレラだったといわれている。しかし暗殺されたという説もある。
  2. 島津斉彬は、安政5年7月16日(1858年8月24日)に亡くなった。
  3. 島津斉彬は、西洋文明を積極的に取り入れ、倒幕の礎を築いた。

この記事では、島津斉彬の最期の様子について、ひとめで分かるようにまとめました。

島津斉彬の最期と死因について知りたい方にとって、この記事は必ずお役に立つはずです。

これを読んで、島津斉彬の最期についての疑問を、スッキリと解消していただければ幸いです。



専門サイト「最期と死因ドットコム」へようこそ。

どうぞ、ごゆっくりお過ごしくださいませ。

目次

島津斉彬の【死因】と【亡くなった日】

島津斉彬の【死因】

島津斉彬の死因は、病死といわれています。

病名についてですが、コレラ・赤痢・腸チフスなど、様々な説が唱えられています。

安政5年7月8日(1858年8月16日)、斉彬は炎天下の中、鹿児島城下で薩摩兵の訓練の様子を視察中に突然、発熱と腹痛、下痢の症状を訴えます。

薩摩藩・藩医の坪井芳洲は伝染病の「コレラ」と診断しました。

当時、コレラは世界的に流行しており、日本でも数万人の死者が出ており、誰が罹ってもおかしくない病気でした。

一方、芳洲の記録を精査した明治時代の海軍軍医総監・高木兼寛は、コレラの症状には発熱がなく、死因といわれた症状に一致しないことから、斉彬の死因を「赤痢(せきり)」としました。

しかし、芳洲の記録には赤痢に特徴的な血便の記述がありません。

熱が上がったり下がったりを繰り返し、時々意識が朦朧としながら約1週間で死に至っていることや、死の前日まで意識が保たれていることから、最近では、サルモネラ菌による腸管感染と敗血症、すなわち「腸チフス」の可能性も否定できないとする専門家もいます。

斉彬の症状からして、消化器の感染症だった可能性は高いと考えられます。

しかし、史料から確証を得ることは難しそうです。

島津斉彬が【亡くなった日】と【享年】

島津斉彬は、倒れてから約1週間後の安政5年7月16日(1858年8月24日)に亡くなりました。

享年50歳でした。


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島津斉彬の【最後の様子】は?

島津斉彬が弟・久光に託した遺言

死の前日、斉彬は側近の山田壮右衛門や弟・島津久光を枕元に呼びます。

相続争いを避けるため、久光の長男・又二郎(忠義)を斉彬の娘といとこ同士で結婚させ、後継者とするよう言い残しています。

さらに、斉彬の六男・哲丸(てつまる)を久光夫妻の養子とするよう付け加えました。

しかし、哲丸が幼くして亡くなり、斉彬の娘と忠義の間に男児が生まれなかったことから、薩摩藩主の中に斉彬の血筋を残すことはできませんでした。

兄・斉彬の意志を受け継いだ弟・久光は、大久保利通や西郷隆盛をつかい、明治維新を成功させたのでした。


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島津斉彬は暗殺されたのか?

病死説が、有力とされている斉彬ですが、「あまりにも突然の死」であることや、「政治的なタイミングが良すぎる」という理由から、根強い暗殺説が残っています。

斉彬公暗殺の噂は、当時からあったようですが、実の父・島津斉興(しまづ なりおき)が、息子・斉彬を暗殺したという説があるのです。

当時幕府内では、第13代将軍・徳川家定死去後の将軍後継問題で、徳川慶福(後の第14代将軍・徳川家茂)を推す「南紀派」と、一橋慶喜(後の第15代将軍・徳川慶喜)を推す「一橋派」が対立していました。

斉彬はこのとき、家定の正室として嫁がせた養女・篤姫を通して一橋派の推す慶喜を後継とするよう画策しています。

しかし、南紀派の筆頭である大老・井伊直弼が推す慶福(徳川家茂)が選ばれることとなりました。

これに対し、斉彬は藩兵を率いて上洛することを計画。

上洛後、朝廷から幕政改革の許し(勅許)を得てから、兵力を背景にして幕府に幕政改革を迫ろうとしたのです。

その上洛は、斉彬の突然の死により、中止となりました。

これが「政治的なタイミングがよすぎる」といわれる理由です。


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また、斉彬の後継(嫡子)が、相次いで死亡したことも、斉彬暗殺説を根強くさせる原因の1つといわれています。

この相次ぐ嫡子の死に、薩摩藩内では、斉彬の父・島津斉興の側室・お由羅(おゆら)の方が、自身の息子・久光を藩主とするために、斉彬の嫡子たちの暗殺を画策したのではないかという噂が広まります。

これに対して藩主・斉興は、お由羅と久光らを暗殺しようと計画していた斉彬派の家臣を、相次いで切腹・遠島・謹慎処分にして、斉彬派を排除しました。

処分を逃れて脱藩に成功した一部の斉彬派は、福岡藩に逃げ込みます。

福岡藩藩主・黒田長博は、実弟の八戸藩主(現在の青森県)・南部信順と計り、老中・阿部正弘に事態の収拾を訴えました。

以前より斉彬を評価していた阿部は、第12代将軍・徳川家慶(とくがわ いえよし)に、島津斉興に対して隠居を命じるよう要請。

家慶は斉興へ隠居をうながし、将軍命令とあり拒絶できなかった斉興は、納得がいかないまま隠居することとなり、斉彬に家督を譲りました。(お由羅騒動)

実は、島津斉興は、騒動の前から斉彬を遠ざけていた節があります。

その理由は、斉彬が斉興の祖父・島津重豪と重なる部分があったからではないかといわれています。

第8代藩主・島津重豪(斉興の祖父・斉彬の曽祖父)は教育に力を入れ、藩校・造士館を設立した一方、琉球王国(現在の沖縄県)との貿易で多くの西洋の品物を購入したため、薩摩藩の財政は悪化しました。

第10代藩主・斉興は、薩摩藩の財政を立て直すため、調所広郷(ずしょ ひろさと)という優秀な人材を登用します。

調所は

  • 黒砂糖の独占生産・独占販売
  • 法を犯してひそかに琉球と行った貿易(密貿易)

で、財政の立て直しに成功します。

しかし、下級武士や農民に対しては変わらず重い年貢を課していたため、生活苦から、土地を手放す者まで出ており、藩政をよく思っていない者も多く存在していました。

そんな下級武士たちの不満をすくい上げようとしたのが斉彬でした。

斉彬は、積極的に人材登用を行いました。

目に止まったのが、農政に関わる仕事をしていた西郷隆盛でした。

《西郷隆盛》
「引用元ウィキペディアより」

西郷が提出した建白書が斉彬の目にとまり、その考えに興味をひかれた斉彬は、西郷を重用したといわれています。

また、斉彬は西洋への関心が高く、藩主になってからは藩校・集成館の建設や西洋から反射炉を建設しました。

重豪に似た西洋文化好み(蘭癖)であった息子・斉彬に、せっかく立て直した薩摩藩の財政が再び悪化させられるのではないかと、斉興は恐れていたのかもしれません。

斉興は、自身を隠居に追い込んだ斉彬への報復としてはもちろん、「斉彬ではない人物」を藩主にするために、斉彬を暗殺したのではないかといわれています。

ただ、決定的な証拠がないため、真相は今も謎のままです。

ちなみに斉彬を尊敬していた西郷隆盛は、斉彬の実弟・島津久光が斉彬を暗殺したと思っていたらしく、生涯に渡って久光を嫌い続けたといいます。

島津斉彬の【最期の言葉】とその意味とは?

島津斉彬は自分の娘を、弟・島津久光の息子・忠義に嫁がせ、さらには自分の息子・哲丸を、久光の養子するように言い残して亡くなりました。

ところが、先程も申しましたが、斉彬の血筋が薩摩藩主の家に残ることは有りませんでした。

ただし、斉彬には他にも娘がおり、その娘を通じて、斉彬公の子孫は続いているのです。


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島津斉彬の【子孫】は、どうなったのか?

島津斉彬には正室・栄樹院(一橋家・徳川斉敦の娘・恒姫)のほかに4人の側室がおり、多くの子どもに恵まれました。

そのおかげで、斉彬の娘・典姫を通じて、その子孫が島津家の分家に続いたのでした。

しかし、多くの子どものうち成人したのは側室・伊集院須磨との間の娘・暐姫(暐子)、典姫(典子)、寧姫(寧子)のみでした。

さらに、養嗣子の忠義に嫁いだ暐姫、寧姫はいずれも難産で死去。

生まれた子どもが成人するまで無事でいたのは、典姫一人でした。

斉彬の血筋は六男・哲丸が3歳で亡くなったことにより男系の子孫は途絶えてしまいました。

典姫を通じて女系は島津家の分家などで続きました。


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島津斉彬の【死後に起こった出来事】とは?

斉彬の死後、斉彬の父・斉興は、久光の息子・忠義を藩主に就け、自身はその後見人となり、斉彬がつくった藩校・集成館を廃止するなど、藩政の方向転換を行います。

また、西郷隆盛ら斉彬派が流罪などの処分を受けました。

流刑となった西郷は、その後藩政に復帰し、政治に関わっています。

文久2年(1862年)、藩主・忠義の父親であり、国父(こくふ)と呼ばれるようになった島津久光は、朝廷からの勅使・大原重徳を引き連れて幕府に改革を迫ります。(文久の改革)

江戸で改革を迫った後、薩摩への帰路。

生麦村(現在の神奈川県横浜市鶴見区生麦)で事件が起こります。

島津久光の行列の前を騎馬のイギリス人が横切ったため、藩士たちが斬りつけるという事件が起こりました。(生麦事件)

それに対し、イギリスは薩摩藩に報復をします。(薩英戦争)

薩英戦争により鹿児島は壊滅的被害を受けますが、薩摩藩はイギリスと講和し、最新の西洋の技術を導入することを決めました。

西洋の文化・技術を取り入れた後、薩摩藩は斉彬が育てた西郷隆盛らを中心に、倒幕派の急先鋒として、時代を動かしていきます。


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まとめ

この記事をまとめますと、以下の通り

この記事を短く言うと

 

1,島津斉彬の『死因』は?

島津斉彬の死因は、病死。

コレラ、赤痢、腸チフスが死因ともいわれている。

 

2,島津斉彬が【亡くなった日時】は?

島津斉彬は、安政5年7月16日(1858年8月24日)に亡くなった。

 

3,島津斉彬の【最後の様子】とは?

島津斉彬は、西郷隆盛など、身分は低くても有能な人材を見つけ出し、育て、薩摩藩が倒幕の急先鋒となる礎を作った。

 

4,島津斉彬の【最期の言葉】とは?

自分の娘を甥の島津忠義に嫁がせることと、息子・哲丸を弟・島津久光の養子とすることを遺言として言い残した。

 

5,島津斉彬の【子孫】とは?

斉彬の子孫は、斉彬の娘・典姫を通じて、島津家の分家に伝わっている

 

6,島津斉彬の【死後に起こった出来事】とは?

その死後、斉彬の父・斉興によって薩摩藩の改革が行われ、その後は生麦事件や薩英戦争が起こり、薩摩藩は明治維新を目指すことになる

以上となります。

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