築山殿(瀬名姫)の【死因】や【最後の様子】について、短くまとめると、以下のとおりです。
- 築山殿の死因は、斬殺。(または自害という説もあり)
- 亡くなったのは、1579年9月19日。
- 武田勝頼への内通を疑われ、家臣に斬り殺された。
この記事では、築山殿の最後の様子について、ひと目で分かるようにまとめました。
築山殿の最後と死因について知りたい方にとって、この記事は必ずお役に立つはずです。
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築山殿の【死因】と【亡くなった日】
築山殿の【死因】
築山殿は、夫・徳川家康の命令で徳川の家臣に殺害されました(築山殿は、瀬名姫または駿河御前とも呼ばれる)
近年では、息子の信康を救う為に、すすんで自害したという説もあるようです。
築山殿が【亡くなった日】と【享年】
新暦:1579年9月19日
旧暦:天正7年8月29日
享年:数えで38(ただし生年は諸説あって確定していない)
築山殿の子孫の現在
築山殿の現在の子孫は、山岸美喜さんというお方です。
この方は、徳川慶喜の子孫でもあります。
実は、最後の将軍である徳川慶喜は、築山殿や松平信康の子孫にあたるのです。
長男の信康は、築山殿の死後まもなく自害します。
もう一人、築山殿が産んだ娘・亀姫は奥平信昌に嫁ぎました。
築山殿の血筋は、信康を通じて、最後の将軍・徳川慶喜にまで受け継がれているのです。
奥平氏は元・徳川家臣で、一時的に武田信玄に味方していました。
しかし信玄が没して徳川氏が長篠城を奪うと、徳川家康から「戻ってこないか」と誘われます。
奥平氏はこの誘いを受諾。
長篠城主として武田勝頼と戦う一方、家康の娘・亀姫が奥平信昌(当主の息子)に輿入れすることとなります。
その後、奥平氏は武田勝頼の攻勢によく耐え、ついに長篠・設楽原の戦いで織田・徳川連合軍が武田氏に大勝。
奥平氏はその功績から徳川家康のもとで出世し、江戸時代には宇都宮藩主となりました。
また、家康と築山殿の息子である信康の血筋は、最後の将軍・徳川慶喜へとつながっているといわれています。
信康の娘である熊姫が、徳川四天王のひとり・本多忠勝の息子に嫁いで、本多忠刻という男子を産んでいます。
この本多忠刻が、徳川秀忠の娘で豊臣秀頼の妻だった千姫と再婚し、勝姫という子供を残したのです。
つまり、築山殿の孫の孫にあたる勝姫の子孫が、徳川慶喜なのです。
その徳川慶喜の現在の子孫は、徳川慶喜家の五代目当主・山岸美喜さんというお方です。
→→→→→【築山殿(瀬名姫)の子孫】についてくわしくはこちら
築山殿の【最後の様子】は?
築山殿は武田勝頼への内通疑惑によって、夫の徳川家康の命令で斬殺されました。
築山殿の死の原因は、五徳姫との嫁姑争い?
事の発端は、徳姫(五徳姫)が、父・織田信長に送った手紙にあります。
徳姫が、夫である徳川信康(松平信康)や姑・築山殿の横暴を、父の織田信長に告発したのです。
手紙の内容は12か条にわたり、そのなかに
「築山殿は武田勝頼と内通している」
という内容がありました。
武田勝頼は武田信玄の息子で、織田氏・徳川氏からみれば宿敵です。
そんな敵との内通は、信長からすれば絶対に見過ごせないことでした。
織田信長は娘からの告発を受け、盟友の徳川家康に事態の収拾するように要請しました。(一説によれば、この頃の家康は織田信長の同盟者・盟友ではなく、部下となっていたといわれている)
ほどなくして家康は、息子の信康と、妻である築山殿(瀬名姫)の殺害を、家臣に指示しました。
家康は自らの長男と正室を斬る判断をしたのです。
そうとは知らぬ築山殿は、切腹を命じられた信康の助命嘆願のため、家康のいる浜松城へ出発。
しかしその途中、家康の命令を受けた家臣により、佐鳴湖付近で斬り殺されました。
享年38。
徳川家の将来を心配した家臣たちから自害を迫られたが、自害を拒否したため斬られたという説もあります
また、近年の説によれば、信康の命を救う為に、身代わりとなって自害したという説もあるようです。
徳川家康の正室である築山殿(瀬名姫)。
築山という地で暮らした為に築山殿と呼ばれ、瀬名という地で生まれたために瀬名姫と呼ばれたともいわれているお方です。
彼女は息子もろとも、夫の命令で命を落とすこととなったのです。
では、どうしてこのような事件が起こったのでしょうか。
その背景には
築山殿と五徳姫の不和
があったとされています。
そもそも築山殿は今川義元の姪で、今川氏に従属する立場にあった徳川家康(当時の名前は松平元信)に嫁ぎました。
今川義元といえば、海道一の弓取りとうたわれるほどの実力者でした。
一説によれば、築山殿はそんな今川義元の威を借り、夫の家康にたいして高圧的な態度をとっていたようです。
しかし1560年、桶狭間の戦いで今川義元は織田信長の手勢に討たれ、今川氏は衰退していきます。
その隙に徳川家康は今川氏から独立し、今川義元を討った織田信長と同盟を結びました。
五徳姫は、織田氏と徳川氏との友好の証だったというわけです。
築山殿からみれば、とても穏やかとはいえない状況だったでしょう。
なにせ
- 「見下していた夫が実家の今川家をしのぐ力をもち」
- 「伯父である今川義元の仇の娘(徳姫)が自分の息子と結婚した」
のですから。
実際、築山殿と徳川信康・徳姫の岡崎城での暮らしは、穏便とはいえませんでした。
築山殿が五徳姫をいじめていたと伝わっているのです。
とくに徳姫と信康との間に男子が生まれなかったのは、築山殿からすると、徳姫を攻めるために好都合で大きな隙でした。
「跡継ぎは長男がなるもの」というのが、当時の常識だったからです。
「私は長男(信康)を生んだのに、男児を産めないあなたは役に立たないのねぇ」
と、築山殿が徳姫を攻撃したことは想像に難くありません。
実際、「男子を生むため側室をつくりなさい」と信康をそそのかしたといいます。
信康は側室を愛するようになり、徳姫との仲は次第に険悪になってしまいました。
こうして孤立無援の状態におかれた徳姫の不満は次第につのっていき、ついには臨界に達するのです。
その結果こそが、あの【父・織田信長への告発の手紙】でした。
徳姫が父・信長に送った「手紙」は、「助けてほしい」という叫びだったのです。
政略結婚の果てに起こった「女の戦い」こそ、築山殿の死の真相だったのではないでしょうか。
ただし、こうした事件の一部始終がどこまで本当なのか、実際には分かっていません。
今川義元の姪である築山殿をつうじて、かつて徳川家康を人質として扱っていた今川氏をおとしめようとする、後世の創作であるともいわれています。
築山殿の死の真相……あなたは、どう思いますか?
信康処刑の原因は、信康と家康の意見の対立だった?
また、近年の研究によれば、築山殿と家康の不仲を証明する文書などは存在せず、家康が主君となっていた織田信長に気をつかって、自ら率先して築山殿と信康を処罰したという説もあります。
実はこのとき、徳川家は武田勝頼に攻められ、窮地におちいっていました。
そのため、信康がひきいる岡崎城の家臣団と、家康がひきいる浜松城の家臣団で、意見が対立していたといいます。
信康と岡崎家臣団は織田信長を裏切って武田勝頼に味方しようと主張。
対して家康と浜松家臣団は、織田信長に味方して、武田勝頼と戦おうと主張したのだとか。
これは家康からすれば、主君となっていた織田信長に対して、とても気まずい状況だったはずです。
なんといっても息子が「信長を裏切ろう」と主張しているのですから。
信康と家康の親子の対立は、岡崎城と浜松城の家臣団の対立でもあったため、そこを武田勝頼につけいられると、徳川家は真っ二つに分裂して、勝頼に滅ぼされる可能性がありました。
そのため家康は、岡崎家臣団のトップであった信康だけを処刑して、岡崎家臣団の処罰をせず、徳川家の戦力を衰退させることを未然に防いだというのです。
不幸中の幸いか、信康が命を落とす直前、徳川家康は側室のお愛の方とのあいだに、三男・徳川秀忠が誕生しています。
家康は秀忠の誕生で世継ぎ、つまり後継者に困らなかったため、信康の処刑を決意したのでしょう。
このとき築山殿も、一緒に処罰されていますが、それは築山殿もまた、信康とともに武田勝頼と通じていたためといわれています。(または、信康を処刑してしまえば、その母である築山殿が何をするかわからないため、未然に築山殿を処分したという説も存在している)
苦渋の決断だったとはいえ、徳川家の分裂を未然に防ぐため、妻と子を処罰した家康は、このときのことを生涯後悔したらしく、1600年の関ヶ原の戦いのときに
「信康が生きていたら、これほど苦労しなかっただろう」
と言って嘆いたといいます。
築山殿が処罰されたのは、信康を救う為に家康を裏切ろうとしたから?
築山殿(瀬名姫)が処罰された理由について、近年においてもっとも有力で常識的な説としては
「築山殿が息子の信康とともに、武田勝頼に内通して徳川家康を裏切ろうとしたため」
といわれています。
このとき家康や築山殿・信康が置かれていた状況を整理すると、以下のとおりです。
- この当時の徳川家は、武田勝頼に追いつめられて、いつ滅びてもおかしくない危機的状況だった
- もともと今川家出身の築山殿と、織田家の家臣となるほど織田信長と親密な関係にあった徳川家康は、険悪な仲だった
- 築山殿は、息子の信康を滅亡から救う為に、敵である武田勝頼と秘密裏に接触・交渉して、徳川家康を裏切り、信康と共に生き延びようとした
- 築山殿と信康の不穏な動きを察知した信康の妻・五徳姫は、築山殿と信康の裏切りを、父である織田信長に手紙で報告
- 五徳姫からの報告を聞いた織田信長は、家康の部下筆頭である酒井忠次に対して、五徳姫からの手紙の内容が事実かどうか確認
- 酒井忠次がこの手紙の内容をほぼ認める
- 家康が築山殿と信康の処刑を決意
家康は築山殿と信康の裏切りを知り、二人の処罰を決意したと考えられます。
(すでに三男・秀忠が生まれていたため、後継者の問題はなかった。次男・秀康については、母親の身分が低く、自分の子ではない可能性を考慮したはずなので、後継者候補とはみなされなかったと考えられる)
ただし、信康は織田信長の娘・五徳姫の夫でもあり、信長は家康の主君でもあるため、家康は信長に対して信康処刑の許可を求めたのです。
対して信長の答えはというと
「家康の好きにせよ」
とのこと。家康からすれば、築山殿と信康の処刑を織田信長から要求されたわけではありません。
しかし信康と築山殿が、武田勝頼とつうじていたことを、勝頼を宿敵とみなす織田信長に知られたら、激怒されるのは明らかです。
下手をすると家康は、信長から滅ぼされるかもしれません。
家康は、信長の顔色をうかがって、徳川家が織田家と戦争になってしまう前に、築山殿と信康を処刑したのだと考えられます。
2023年の大河ドラマ【どうする家康】で徳川家康は、築山殿と信康を逃がそうとしていました。
しかし残念ながら現実には、家康は妻と子に裏切られそうになった為、逆に二人を処刑したのです。
これが、現在もっとも有力で現実的な、築山殿事件(信康事件)の真相であるといわれています。
織田信長は、実弟の織田信勝(信行)を討ち果たしています。
豊臣秀吉は姉の息子であり、自分の養子でもあった豊臣秀次に対して、あらぬ疑いをかけて自害させています。
この当時、骨肉の争いというものは、それほど珍しいものではなかったのかもしれません。
2023年の大河ドラマ【どうする家康】において、築山殿(瀬名姫)は、息子・信康を救う為、戦のない世の中をつくりあげようとし、敵の罠にひっかかっることになります。
最愛の妻と子を失った徳川家康は、その原因を産み、宿敵となってしまった織田信長との決戦を決意・・。
ところがその直前になって、明智光秀が京都・本能寺を・・・。という展開です。
【どうする家康】において描かれる築山殿の死の真相は、現実とは違ったものかもしれません。しかし、それでもそれは一つの仮説として、たいへん興味深いものであると思います。
→→→→→【築山殿(瀬名姫)の子孫】についてくわしくはこちら
→→→→→【家康の最初の側室・西郡局の最期】についてくわしくはこちら
築山殿の【辞世の句】とその意味とは?
築山殿の辞世の句や最期の言葉は、とくに何も残っていないようです。
築山殿の【死後に起こった出来事】とは?
築山殿の死後、徳川家康は織田信長とともに、武田氏を滅ぼして勢力を拡大します。
築山殿は「武田勝頼への内通疑惑」をかけられ殺害されましたが、その武田氏にもはや往年の勢いはありませんでした。
1575年には「長篠の戦い」で織田・徳川連合軍に敗退。
この戦いで名門の武田家は、武田信玄とともに戦った歴戦の家臣を数多く失います。
さらに1578年には、上杉謙信の跡目を争って、謙信の二人の養子である景虎と景勝が戦争を始めます。御館の乱です。
武田勝頼は盟友・北条氏政の実弟・上杉景虎に味方します。
ところが勝頼は、途中で上杉景虎のライバルである上杉景勝の側にくら替えして、景勝の勝利に貢献します。
しかし、これは悪手でした。
同盟関係にあるはずの北条氏を軽んじたため、武田家と北条家の仲が急激に悪くなり、武田勝頼は
- 織田
- 徳川
- 北条
の3つの敵対勢力に囲まれる形となってしまったのです。
そして1582年には、徳川家康が織田氏や北条氏とともに武田領に侵攻。
この侵攻によって武田氏は滅亡。(甲州征伐・天目山の戦い)
同時に徳川氏が武田の旧領や家臣を吸収して、着実に力をつけていくのです。
まとめ
この記事をまとめますと、以下の通り
この記事を短く言うと
1,築山殿の『死因』は?
【斬殺】
2,築山殿が【亡くなった日時】は?
1579年9月19日
享年38(諸説あり)
3,築山殿の【最後の様子】とは?
佐鳴湖の近くで、家康の命令を受けた家来により斬殺された。
4,築山殿の【辞世の句】とは?
伝わっていない。
5,築山殿の【子孫】とは?
長男の信康は築山殿の死後まもなく自害。
娘の亀姫は奥平氏に嫁ぎ、宇都宮藩主としての地位を固める。
信康の娘・熊姫を通じて、築山殿の血筋は、最後の将軍・徳川慶喜に受け継がれている
6,築山殿の【死後に起こった出来事】とは?
武田氏を滅ぼした徳川家康は、着実に勢力を拡大する。
以上となります。
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