築山殿(瀬名姫)の【死因】や【最後の様子】について、短くまとめると、以下のとおりです。
- 築山殿の死因は、斬殺。
- 亡くなったのは、1579年9月19日。
- 武田勝頼への内通を疑われ、家臣に斬り殺された。
この記事では、築山殿の最後の様子について、ひと目で分かるようにまとめました。
築山殿の最後と死因について知りたい方にとって、この記事は必ずお役に立つはずです。
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築山殿の【死因】と【亡くなった日】
築山殿の【死因】
築山殿は、夫・徳川家康の命令で徳川の家臣に殺害されました(築山殿は、瀬名姫または駿河御前とも呼ばれる)

築山殿
引用元ウィキペディアより
築山殿が【亡くなった日】と【享年】
新暦:1579年9月19日
旧暦:天正7年8月29日
享年:数えで38(ただし生年は諸説あって確定していない)
築山殿の【最後の様子】は?
築山殿は武田勝頼への内通疑惑によって、夫の徳川家康の命令で斬殺されました。
事の発端は「徳姫」が父・織田信長に送った「手紙」にあります。
徳姫が、夫である「徳川信康(松平信康)」や姑・築山殿の横暴を、父の織田信長に告発したのです。
手紙の内容は12か条にわたり、そのなかに「築山殿は武田勝頼と内通している」という内容がありました。
武田勝頼は武田信玄の息子で、織田氏・徳川氏からみれば「敵」。
そんな敵との内通は、信長からすれば絶対に見過ごせないことでした。

織田信長
引用元ウィキペディアより
織田信長は娘からの告発を受け、盟友・徳川家康に事態の収拾を要請。
ほどなくして、徳川信康と築山殿の殺害を、家康は家臣に指示しました。
家康は自らの長男と正室を斬る判断をしたのです。
そうとは知らぬ築山殿は、切腹を命じられた信康の助命嘆願のため、家康のいる浜松城へ出発。
しかしその途中、家康の命令を受けた家臣により、佐鳴湖付近で斬り殺されました。
享年38。
徳川家康の正室である築山殿。
彼女は息子もろとも、夫の命令で命を落とすこととなったのです。
では、どうしてこのような事件が起こったのでしょうか。
その背景には「築山殿と徳姫の不和」があったとされています。
そもそも築山殿は今川義元の姪で、今川氏に従属する立場にあった徳川家康(当時の名前は松平元信)に嫁ぎました。
今川義元といえば「海道一の弓取り」とうたわれるほどの実力者。

今川義元
引用元ウィキペディアより
築山殿はその威を借り、夫の家康にたいして高圧的な態度をとっていたようです。
しかし1560年、「桶狭間の戦い」で今川義元は織田信長の手勢に討たれ、今川氏は衰退していきます。
その隙に徳川家康は今川氏から独立し、今川義元を討った織田信長と同盟を結びました。
徳姫は、織田氏と徳川氏との友好の証だったというわけです。
築山殿からみれば、とても穏やかとはいえない状況だったでしょう。
なにせ
- 「見下していた夫が実家の今川家をしのぐ力をもち」
- 「伯父である今川義元の仇の娘(徳姫)が自分の息子と結婚した」
のですから。
実際、築山殿と徳川信康・徳姫の岡崎城での暮らしは、穏便とはいえませんでした。
築山殿が徳姫をいじめていたと伝わっているのです。
とくに徳姫と信康との間に男子が生まれなかったのは、築山殿からすると、徳姫を攻めるために好都合で大きな「隙」でした。
「跡継ぎは長男がなるもの」というのが、当時の常識だったからです。
「私は長男(信康)を生んだのに、男児を産めないあなたは役に立たないのねぇ」
と、築山殿が徳姫を攻撃したことは想像に難くありません。
実際、「男子を生むため側室をつくりなさい」と信康をそそのかしたといいます。
信康は側室を愛するようになり、徳姫との仲は次第に険悪になってしまいました。
こうして孤立無援の状態におかれた徳姫の不満は次第につのっていき、ついには臨界に達するのです。
その結果こそが、あの「手紙」でした。
徳姫が父・信長に送った「手紙」は、「助けてほしい」という叫びだったのです。
政略結婚の果てに起こった「女の戦い」こそ、築山殿の死の真相だったのではないでしょうか。
ただし、こうした事件の一部始終がどこまで本当なのか、実際には分かっていません。
今川義元の姪である築山殿をつうじて、かつて徳川家康を人質として扱っていた今川氏をおとしめようとする、後世の創作であるともいわれています。
築山殿の死の真相……あなたは、どう思いますか?
→→→→→【家康の最初の側室・西郡局の最期】についてくわしくはこちら
築山殿の【辞世の句】とその意味とは?
築山殿の辞世の句や最期の言葉は、とくに何も残っていないようです。
築山殿の【子孫】は、どうなったのか?
長男の信康は、築山殿の死後まもなく自害しますが、築山殿が産んだ娘・亀姫は奥平信昌(おくだいら のぶまさ)に嫁ぎました。
また、築山殿の血筋は最後の将軍・徳川慶喜にまで受け継がれているのです。
奥平氏は元・徳川家臣で、一時的に武田信玄に味方していました。

武田信玄
引用元ウィキペディアより
しかし信玄が没して徳川氏が長篠城を奪うと、徳川家康から「戻ってこないか」と誘われます。
奥平氏はこの誘いを受諾。
長篠城主として武田勝頼と戦う一方、家康の娘・亀姫が奥平信昌(当主の息子)に輿入れすることとなります。
その後、奥平氏は武田勝頼の攻勢によく耐え、ついに「長篠の戦い」で織田・徳川連合軍が武田氏に大勝。
奥平氏はその功績から徳川家康のもとで出世し、江戸時代には宇都宮藩主となりました。
また、家康と築山殿の息子である信康の血筋は、最後の将軍・徳川慶喜へとつながっているといわれています。

徳川慶喜
引用元ウィキペディアより
信康の娘である熊姫が、徳川四天王のひとり・本多忠勝の息子に嫁いで、本多忠刻という男子を産んでいます。
この本多忠刻が、徳川秀忠の娘で豊臣秀頼の妻だった千姫と再婚し、勝姫という子供を残したのです。
つまり、築山殿の孫の孫にあたる勝姫の子孫が、徳川慶喜なのです。
築山殿の【死後に起こった出来事】とは?
築山殿の死後、徳川家康は織田信長とともに、武田氏を滅ぼして勢力を拡大します。
築山殿は「武田勝頼への内通疑惑」をかけられ殺害されましたが、その武田氏にもはや往年の勢いはありませんでした。

武田勝頼
引用元ウィキペディアより
1575年には「長篠の戦い」で織田・徳川連合軍に敗退。
この戦いで名門の武田家は、武田信玄とともに戦った歴戦の家臣を数多く失います。
さらに1578年には、上杉謙信の跡目を争って、謙信の二人の養子である景虎と景勝が戦争を始めます。御館(おたて)の乱です。
武田勝頼は盟友・北条氏政(ほうじょう うじまさ)の実弟・上杉景虎(うえすぎ かげとら)に味方します。
ところが勝頼は、途中で上杉景虎のライバルである上杉景勝(うえすぎ かげかつ)側にくら替えして、景勝の勝利に貢献します。
しかし、これは悪手でした。
同盟関係にあるはずの北条氏を軽んじたため、武田家と北条家の仲が急激に悪くなり、武田勝頼は
- 織田
- 徳川
- 北条
の3つの敵対勢力に囲まれる形となってしまったのです。
そして1582年には、徳川家康が織田氏や北条氏とともに武田領に侵攻。
この侵攻によって武田氏は滅亡。(天目山の戦い)
同時に徳川氏が武田の旧領や家臣を吸収して、着実に力をつけていくのです。
まとめ
この記事をまとめますと、以下の通り
この記事を短く言うと
1,築山殿の『死因』は?
【斬殺】
2,築山殿が【亡くなった日時】は?
1579年9月19日
享年38(諸説あり)
3,築山殿の【最後の様子】とは?
佐鳴湖の近くで、家康の命令を受けた家来により斬殺された。
4,築山殿の【辞世の句】とは?
伝わっていない。
5,築山殿の【子孫】とは?
長男の信康は築山殿の死後まもなく自害。
娘の亀姫は奥平氏に嫁ぎ、宇都宮藩主としての地位を固める。
信康の娘・熊姫を通じて、築山殿の血筋は、最後の将軍・徳川慶喜に受け継がれている
6,築山殿の【死後に起こった出来事】とは?
武田氏を滅ぼした徳川家康は、着実に勢力を拡大する。
以上となります。
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