前原一誠の【死因】や【最後の様子】について、短くまとめると、以下のとおりです。
- 前原一誠の死因は、斬首
- 前原一誠は、1876(明治9年)年12月3日に亡くなりました。 享年43歳
- 前原一誠は、1876年(明治9年)に、萩の乱の首謀者として捕らえられ斬首された。
この記事では、前原一誠の最期の様子について、ひと目で分かるようにまとめました。
前原一誠の最期と死因について知りたい方にとって、この記事は必ずお役に立つはずです。
これを読んで、前原一誠の最期についての疑問を、スッキリと解消していただければ幸いです。
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どうぞ、ごゆっくりお過ごしくださいませ。
前原一誠の【死因】と【亡くなった日】
前原一誠の【死因】
前原一誠の死因は【斬首】
前原一誠が【亡くなった日】と【享年】
前原一誠は、1876年(明治9年)12月3日に萩の乱の企てに失敗し、明治政府によって裁かれ、斬首されました。
享年43歳
前原一誠の【最後の様子】は?死ぬ前に起こったこと
前原一誠は、萩の乱の企てに失敗し、明治政府により斬首となりました。
前原一誠は、吉田松陰の松下村塾に学び、おなじ門下生であった久坂玄瑞や高杉晋作らと、徳川幕府を倒す戦い(倒幕運動)に参加しました。
維新後、明治政府の重臣に迎えられることとなります。
しかし明治新政府の木戸孝允らと意見が合わず、1870年(明治3年)に山口県の萩に帰国しました。
明治新政府となり、欧米諸国と同じようになるため改革を急ぎすぎたため、かつての武士であった人たちが仕事や地位を失うことになりました。
不満が大きくなり、最初に佐賀で反乱が起きました。
反乱を明治政府が鎮圧してもなかなか収まらず、今度はかつての長州藩士であった前原一誠が立ち上がり、萩の乱を起こしました。
しかし佐賀の乱と同じように数日で政府軍に鎮圧されてしまいます。
前原は漁船で脱走はかりましたが失敗、出雲の宇竜崎で捕らえられた後、明治政府の裁判官・岩村通俊の判決により斬首を命じられ、萩の刑場(相首屋敷)で処刑され絶命しました。
前原一誠の【辞世の句】または【最期の言葉】とその意味とは?
辞世の句
「吾今国の為に死す、死すとも君恩に背かず、人事通塞あり、乾坤我が魂を弔さん」
(私は今、国のために死ぬのだ。死んだとしても、君主さまの恩に背くことはない。人の想いは通じることも通じないこともあるものなのだ。天や地は私の魂を弔ってくれるだろうよ)
辞世の戯句
「これまでは、いかい御苦労からだどのよびだしの声、まつむしや秋の風」
(私の身体よ。これまでご苦労だった。私を呼ぶ声が、松虫の音のきこえる秋の風に乗って聴こえてくるよ)
前原一誠は幼い頃に胸を怪我して、後遺症が残った身体だったようです。
おそらく自らの傷ついた身体をいたわり、このような句を残したのでしょう。
前原一誠の【子孫】は、どうなったのか?
前原一誠には、娘が二人いましたが、その娘さんには子供がいなかったため直系の子孫はおりません。
前原一誠の実弟の山田頴太郎の次男の昌一さんが前原家の養子になりましたが、生涯仕事を持たず釣り三昧の日々を送っていたとされます。
昌一さんの男子の子供も早くに亡くなったため、娘さんの子供の彦八さんが養子になることで前原家を継いでいます。
前原一誠の【死後に起こった出来事】とは?
前原一誠の死後、翌年の1877年(明治10年)に西郷隆盛による西南戦争が起こります。
不平士族の乱の集大成といえる最後の戦いで、規模も大きかったとされます。
やはり最後は政府軍に鎮圧され、西郷隆盛も戦いに敗れ自決します。
この戦いで、武士の時代が終わり、新しい近代国家に日本は歩んでいきます。
前原の死後 13年後の1889年(明治22年)に、大日本国帝国憲法が発布されます。
欧米諸国と対等となるためには、いち早く憲法を制定することが必要となったのです。
これにより、日本は近代的な法治国家の礎を築き、選挙による議会制度などが改められていきました。
前原の死後40年後の1916年(大正5年)になり、その生前の功績が認められて、前原一誠には従四位という官位が授けられ、その名誉は回復されたのです。
まとめ
この記事をまとめますと、以下の通り
この記事を短く言うと
1,前原一誠の『死因』は?
斬首
2,前原一誠が【亡くなった日時】は?
1876年(明治9年)12月3日
享年43歳
3,前原一誠の【最後の様子】とは?
前原一誠は、1876年(明治9年)に萩の乱を起こしましたが、あっけなく政府軍に鎮圧され、捕らえられた後 萩の刑場にて斬首されました
4,前原一誠の【辞世の句】とは?
「吾今国の為に死す、死すとも君恩に背かず、人事通塞あり、乾坤我が魂を弔さん」
辞世の戯句
「これまでは、いかい御苦労からだどのよびだしの声、まつむしや秋の風」
5,前原一誠の【子孫】とは?
直系の子孫はいません
前原昌一さん 前原一誠の実弟の次男が養子になるかたちで継ぐ
前原彦八さん 前原昌一さんの娘の子供で、前原家を継ぐかたちとなりました。
現在のところは不明です
6,前原一誠の【死後に起こった出来事】とは?
西南戦争が、前原の死後の翌年の1877年(明治10年)に、西郷隆盛によって起こされました。
大日本帝国憲法が、1889年(明治22年)に発布され、法治国家となり、近代化が進められることになります。
1916年(大正5年)になり生前の功績が認められて従四位が贈られ、名誉が回復されました。
以上となります。
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