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本多忠真の死因と最後をわかりやすく解説!波乱の生涯と子孫のゆくえとは

本多忠真ほんだただざねの【死因】や【最後の様子】について、短くまとめると、以下のとおりです。

  1. 本多忠真の死因は【三方ヶ原みかたがはらの戦い】で武田軍に斬り込みをかけ討死
  2. 1573年1月25日(元亀3年12月22日)享年42歳または39歳で亡くなった
  3. 死ぬ前に、三方原の戦いで殿を務めた
  4. 「ここから後へは一歩も退かぬ」という言葉を残した
  5. 菊丸という息子がおり、甥・本多忠勝には三木谷浩史さんという子孫がいる
  6. 死後、武田家の滅亡(甲州征伐・天目山の戦い)という歴史的事件が起こった

この記事では、本多忠真の最期の様子について、ひと目で分かるようにまとめました。

本多忠真の最期と死因について知りたい方にとって、この記事は必ずお役に立つはずです。

これを読んで、本多忠真の最期についての疑問を、スッキリと解消していただければ幸いです。



専門サイト【最期と死因ドットコム】へようこそ。

どうぞ、ごゆっくりお過ごしくださいませ。

目次

本多忠真の【死因】と【最後の様子】

本多忠真の【死因】

【結論】本多忠真の死因は、1573年の【三方ヶ原の戦い】で武田軍に斬り込みをかけた際、討死したことによる。

本多忠真が【亡くなった日】と【享年】

【結論】1573年1月25日元亀3年12月22日)、享年42歳または39歳

享年は、本多忠真の生まれた年がはっきりしないため、1531年(享禄4年)生まれの場合は42歳、1534年(天文3年)生まれの場合は39歳となる。


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【本多忠真の生涯と最期】をザッと解説

本多忠真の生涯を、ハイライトでザッと解説いたします。

本多忠真は、本多忠豊ただとよの次男として生まれました。

本多忠真の兄は、忠高ただたかという人物で、忠高は徳川四天王のひとりである本多忠勝の父親にあたります。

本多忠真は、槍の名手として名高い武者だったといいます。

  • 1545年(天文14年)の第三次安祥あんしょう合戦
  • 1549年(天文18年)の第四次安祥合戦

この二つの戦いで、それぞれ父・忠豊と兄・忠高が戦死した後、兄嫁と甥の鍋之助なべのすけ(後の本多忠勝)を保護し、読み書きや武士としての心得を教えました。

本多忠勝
引用元Wikipediaより

1560年(永禄3年)には、桶狭間おけはざまの戦いの前哨戦である鷲津砦わしづとりでの戦いで、初陣の忠勝を補佐しています。

そこで甥・忠勝が、敵武将・山崎多十郎やまさきたじゅうろうに討ち取られそうになった際に槍を投げて窮地を救ったといわれています。

その後も忠勝の補佐として、数々の合戦に従軍しました。

特に1561年(永禄4年)に尾張国(愛知県西部)の石瀬で、徳川家康の母方の伯父である水野信元みずののぶもととの戦いで戦功を挙げ、1563年(永禄6年)に三河一向一揆みかわいっこういっきに際しては、本多正信・渡辺守綱・夏目吉信らが裏切る中で、本多忠真は徳川家康に味方して岡崎城に参陣しています。

1573年の三方ヶ原の戦いでは、退却時に自ら殿を務め、武田軍の追撃に立ち向かい、討死。

壮絶な最期を顕彰するための碑が、現在の静岡県浜松市に残されています。

静岡県浜松市にある本多忠真の顕彰碑
引用元Wikipediaより

余談ですが、この三方ヶ原の戦いで、同じく徳川家康につかえていた武将・夏目吉信なつめよしのぶ夏目広次なつめひろつぐ)も、家康の身代わりとなって壮絶な戦死をしています。

→→→→→【夏目吉信の最期】についてくわしくはこちら


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本多忠真が【最期に残した言葉】とその意味を解説

【結論】本多忠真の最期の言葉は「ここから後へは一歩も退かぬ」です

彼の最期の言葉は、「ここから後へは一歩も退かぬ」という、勇敢さを示す言葉であっといいます。

1573年、本多忠真は主君である徳川家康とともに、宿敵・武田信玄が率いる武田軍を相手にして、三方原の戦いに向けて出撃。

武田信玄
引用元ウィキペディアより

しかし圧倒的な強さを誇る武田信玄の軍団に、徳川軍は大敗。

撤退する主君・徳川家康を守るために、本多忠真は踏みとどまり、敵軍を防ぐ役割を担当したのでした。

退却する際に最後方に位置して味方を守る殿しんがりという、もっとも危険な役割を務めた本多忠真は、旗指物はたさしものを左右に突き刺し

「ここから後へは一歩も退かぬ」

と言い、武田軍に斬り込んで壮絶に討死したのでした。

辞世の句については記録が残っていないため、不明です。


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本多忠真の【子孫】は、どうなったのかを解説

【結論】本多忠真には、菊丸という息子がいた。

また、甥・本多忠勝の子孫には、楽天グループ創業者の三木谷浩史さんがいる

本多忠真の子である菊丸は、父の忠真が三方ヶ原の戦いで討死した後、家康を援護し、無事に浜松城に退却できましたが、その後に出家したといいます。

本多忠真の直系子孫については、その後どうなったのかは不明です。

ただ、忠真の甥であり、徳川四天王のひとりに数えられる猛将・本多忠勝の子孫には、経済学者の三木谷良一さん(神戸大学名誉教授)や、その次男である三木谷浩史さん(楽天グループ創業者・会長兼社長)がいます。

彼らは、それぞれ本多忠勝の子孫である播磨国山﨑藩の最後の藩主・本多忠明の曾孫そうそん(孫の子)と玄孫げんそん(孫の孫)にあたります。


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本多忠真の【死後に起こった歴史的な出来事】とは?

【結論】本多忠真の死後、甲州征伐こうしゅうせいばつ天目山てんもくざんの戦いという事件が起こりました。

三方ヶ原の戦いの後、武田信玄は西上作戦せいじょうさくせんを進め、足利義昭と結んで政権維持を図ることになります。

しかし、三方原の戦いの直後、元亀4年(1573年)に信玄が病死。

→→→→→【武田信玄の最期】についてくわしくはこちら

その後は四男の武田勝頼が家督を継ぎました。

武田勝頼
引用元ウィキペディアより

その隙を突いて家康は、武田軍に奪われていた長篠城を取り戻し、後の長篠の戦いで大きな意味を持つことになります。

勝頼は、信玄亡き後の武田家を建て直して、一時は勢力を拡大することに成功しました。

しかし、天正3年(1575年)に長篠の戦いで織田・徳川連合軍に敗れ、その後は勢力が衰えていきました。

最終的に、天正10年(1582年)に織田・徳川連合軍の侵攻(甲州征伐)により武田家は滅亡。

勝頼は天目山の戦いで、妻の北条夫人と、息子の武田信勝とともに自害したのでした。

→→→→→【武田勝頼の最期】についてくわしくはこちら


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まとめ

この記事をまとめますと、以下の通り

この記事を短く言うと

 

1,本多忠真の『死因』は?

死因は【三方ヶ原の戦い】での討死

 

2,【亡くなった日時】は?

1573年1月25日元亀3年12月22日)、享年42歳または39歳

 

3,【最後の様子】とは?

三方ヶ原の戦いで、退却時に自ら殿を務め、武田軍の追撃に立ち向かい、討死。

 

4,【最期の言葉】とは?

最後の言葉は「ここから後へは一歩も退かぬ」

 

5,【子孫】とは?

本多忠真には、菊丸という息子がいた。

また、甥・本多忠勝の子孫には、楽天グループ創業者の三木谷浩史さんがいる

 

6,【死後に起こった出来事】とは?

死後に、甲州征伐こうしゅうせいばつ天目山てんもくざんの戦いという事件が起こり、武田家は滅亡しました。

以上となります。

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