源頼家(みなもとの よりいえ)の【死因】や【最後の様子】について、短くまとめると、以下のとおりです。
- 源頼家の死因は暗殺。
- 頼家は、新暦1204年8月14日、旧暦元久元年7月18日に亡くなった。享年23歳。
- 源頼家の子は皆子を残せず、血は絶えてしまった。
この記事では、源頼家の最期の様子について、ひと目で分かるようにまとめました。
源頼家の最期と死因について知りたい方にとって、この記事は必ずお役に立つはずです。
これを読んで、源頼家の最期についての疑問を、スッキリと解消していただければ幸いです。
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源頼家の【死因】と【亡くなった日】
源頼家の【死因】
源頼家の死因は不明。
一説によると、北条一族に暗殺されたともいわれています
源頼家が【亡くなった日】と【享年】
新暦・1204年8月14日
旧暦・元久元年7月18日
享年23歳
源頼家の【最後の様子】は?死ぬ前に起こったことを解説
源頼家が亡くなる直前、祖父・北条時政の失脚を企んでおり、伊豆の修善寺に幽閉されていました。
頼家は父・頼朝(よりとも)が36歳の時に生まれた子で、待望の後継ぎとして大いにその将来を期待されました。
1199年(建久10年)に頼朝が亡くなると、頼家は鎌倉幕府の棟梁を継承し、2代目の征夷大将軍になりました。
しかし北条時政・義時の父子を中心とする【13人の御家人による合議制】が開始され、頼家は訴訟の裁断に携われなくなってしまいました。
これには
- 義時らが、頼家の乳母の一族である比企(ひき)氏と対立しており、頼家を除こうとしたためという説と
- 頼家が従来の慣習を無視した裁断を行い、彼には任せられないと判断されたためという説
があります。
頼家は、比企一族を中心として、母・北条政子の実家である北条氏と対立しました
しかし讒言(ざんげん)によって、頼家は味方の梶原景時(かじわら かげとき)を失脚に追い込まれてしまうと、頼家の一派は徐々に力を失っていってしまいます。
そして1203年(建仁3年)、頼家が重い病を患っているうちに、義時の父である北条時政(ときまさ)らによって比企一族が、ことごとく暗殺されてしまいました。
頼家の病気は奇跡的に治ったものの、味方を失ってしまった頼家に力は残されておらず、病を理由に時政によって将軍職を解かれ、伊豆国(いず、現在の静岡県)の修善寺に幽閉されてしまいました。
そして翌年、頼家は北条氏の刺客によって暗殺されてしまいました。
一説によると、入浴中を襲われたものの、頼家は激しく抵抗し、首に紐を巻きつけて動きを制限して、ようやく殺すことができたといい、暗君とされることもある頼家の、武人としてのたくましい一面がうかがえます。
しかし、頼朝の父で、頼家の祖父にあたる源義朝(みなもとのよしとも)も、自分を裏切った部下に入浴中を襲われて命を落としており、祖父と同じ最期を遂げるとは、なんとも皮肉な最後であったといえるかもしれません。
源頼家の【最期の言葉】とその意味とは?
源頼家には、辞世の句や最期の言葉のようなものは残されていません。
その最期は、祖父・源義朝と同じと解説いたしましたが、その源義朝には、とても有名な最期の言葉が残されています。
「我に木太刀の一本なりともあれば」
義朝は、入浴中に襲われて亡くなったため、丸腰で裸の状態でした。
そのため武器も持っておらず、せめて木刀だけでもあればと、無念を口にしたのです。
愛知県知多郡美浜町の野間大坊(のまだいぼう)というお寺にある義朝のお墓には、義朝の無念をなぐさめるために、木刀が数多くささげられているのです。
源頼家の【子孫】は、どうなったのか?
頼家には四男一女がいましたが、全員が非業の死を遂げています。
次男以外の3人の男子は、全員が反乱に巻き込まれる形で全命を落としています。
また4代将軍として招かれた藤原頼経(ふじわらの よりつね)に嫁いだ頼家の娘・竹御所(たけのごしょ)は、初産が難産となってしまい、死産してしまったうえに本人も亡くなってしまいました。
そして次男の公暁(くぎょう)は、子のなかった3代将軍・実朝(さねとも)の猶子となりましたが、1219年(建保7年)、義父である実朝を突然暗殺してしまい、その後に北条義時や三浦義村に討たれてしまいます。
公暁の犯行の背景には、自身の野心のためとする説や、御家人の誰かに唆されたとする説、後に幕府に反乱を起こす後鳥羽上皇(ごとば じょうこう)の陰謀とする説などがあり、詳しいことはわかっていません。
しかしこの事件をきっかけに、頼朝から続く鎌倉将軍家の血は完全に途絶えてしまい、頼朝が築いた鎌倉幕府は、北条氏を中心に運営されていくことになります。
源頼家の【死後に起こった出来事】とは?
源頼家の死後、弟で3代将軍となった源実朝も暗殺されてしまい、頼朝の血筋は途絶えてしまいます。
その後、鎌倉幕府は公家や親王から征夷大将軍をむかえて存続し、九代将軍まで続きます。
3代将軍の源実朝が亡くなった直後、鎌倉幕府は北条義時が、執権(しっけん)として、事実上のトップに君臨します。
ところが、朝廷の支配者であった後鳥羽上皇が、北条義時と戦いを開始します。
1221年の【承久の乱】です。
この承久の乱に、北条義時は勝利。
これ以降、日本は天皇や公家が支配する国から、武士が支配する国へと変化し、1868年の明治維新まで、武士たちによって支配される事となるのです。
まとめ
この記事をまとめますと、以下の通り
この記事を短く言うと
1,源頼家の『死因』は?
暗殺。
2,源頼家が【亡くなった日時】は?
新暦1204年8月14日
旧暦元久元年7月18日
享年23歳
3,源頼家の【最後の様子】とは?
待望の男子として将来を嘱望されるも、御家人の権力争いに巻き込まれる形で力を失い、暗殺されてしまった。
4,源頼家の【最期の言葉】とは?
最期の言葉や辞世の句は残されていない
5,源頼家の【子孫】とは?
5人の子供がいたが全員が子孫を残すことなく死去。
弟・源実朝にも子がおらず、鎌倉将軍家は滅亡した。
6,源頼家の【死後に起こった出来事】とは?
死後、三代将軍・源実朝も暗殺され、鎌倉幕府は後鳥羽上皇に戦いを仕掛けられて勝利する(承久の乱)
以上となります。
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