北条時行(ほうじょう ときゆき)の【死因】や【最後の様子】について、短くまとめると、以下のとおりです。
北条時行の死因は刑死。
時行は、新暦1353年6月21日(旧暦天平8/文和2年5月20日)に亡くなった。享年20代半ば。
明治維新に功績のあった維新十傑の一人・横井小楠(よこい しょうなん)は、北条時行の子孫だといわれている。
この記事では、北条時行の最期の様子について、ひと目で分かるようにまとめました。
北条時行の最期と死因について知りたい方にとって、この記事は必ずお役に立つはずです。
これを読んで、北条時行の最期についての疑問を、スッキリと解消していただければ幸いです。
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どうぞ、ごゆっくりお過ごしくださいませ。
北条時行の子孫は誰?
幕末の武士であり、儒学者でもあった横井小楠は、北条時行の子孫を自称していました。
北条時行とは、執権として鎌倉幕府を支配していた北条義時や、元寇と戦った北条時宗の子孫にあたる人物です。
北条時行の子が尾張国愛知郡横江村に住みつき、そのひ孫にあたる人物が姓を横井に変えました。
小楠はその子孫で、別名を時存(ときあり)とも言いますが、「時」は北条氏が代々受け継いでいる文字です。
小楠という名前は南北朝時代の武将である楠木正行(くすのき まさつら/楠木正成の息子)の別名である「小楠公」からとっています。
正行の父である楠木正成は数十万の幕府軍を500人ほどの少人数で撃破した名将で、また南朝がどんなに劣勢に立たされても見捨てなかった忠臣としても知られています。
正行も父・楠木正成と同様に南朝方として勇敢に戦った武将で、小楠はそんな正行から名前をいただいたことになります。
細かい記録は残っていませんが、小楠の先祖である北条時行に対するリスペクトが見てとれます。
横井小楠は、明治維新に尽力した維新の十傑と呼ばれるメンバーのうちの1人で、
また、「実学堂」と呼ばれるグループを作って藩政改革に努めました。
改革は藩内の反対派に邪魔をされてうまくいきませんでしたが、その噂を聞きつけた福井藩主・松平春嶽に招かれると福井藩にも出仕し、福井藩の改革に大きく貢献しました。
春嶽に連なって幕政に関与するようになった小楠は、幕政改革の方針を指し示す「国是七条」を幕府に提出。
これまでの幕政の根幹を揺るがす提案内容に幕府はすぐに改革には踏み切れませんでしたが、この案が後に坂本龍馬等の維新志士に影響を与えることになります。
龍馬は小楠と面識があり、2人で「国是七条(こくぜしちじょう)」について議論を重ねた結果生まれたのが「船中八策(せんちゅうはっさく)」であると言われます。
「船中八策」は、明治政府の大方針である「五箇条の御誓文」の原案であり、明治新政府の行動理念は、横井小楠の思想が元になっていると言えるかもしれません。
明治新政府にも参与として加わり財政を担当しましたが、明治2(1869)年に襲撃され、暗殺されてしまいました。
北条氏の子孫については、以下のリンク記事で、詳しく解説いたしております。
ちなみにこれも全くの余談なのですが、北条時行とともに足利尊氏と戦うこととなる名将・楠木正成は、九州から大軍団を率いて京都へ進軍してくる足利尊氏軍を相手にして敗北し、亡くなっています(湊川の戦い)
この戦いに出撃する直前、楠木正成は後醍醐天皇に対して、「足利尊氏の軍団を京都へ誘い入れ、包囲して兵糧攻めにするべきだ」と作戦立案しています。
この作戦を却下したのが、坊門清忠というお公家さんでした。
坊門は楠木正成に対して、湊川へ出陣して、足利尊氏を迎え撃てと命じます。
仕方なく楠木正成は、湊川の戦いに出陣して、敗死。
この楠木正成を死なせたお公家さん・坊門清忠は、2024年の大河ドラマ「光る君へ」において俳優・竜星涼さんが演じる「藤原隆家」の子孫にあたるお方です。
藤原隆家は、刀伊の入寇という海賊の襲撃を撃退した軍事の天才だったのですが、その子孫である坊門清忠には、軍事の才能はなかったようです。
北条時行の妻と子供とは?
北条時行の【最後の様子】とは?
北条時行は、鎌倉を三度も落とすほどの活躍をみせたものの、足利軍に捕らえられて、従者とともに処刑されました。
時行は、鎌倉幕府執権(実質的な幕府のトップ)の北条高時の息子として生まれました。
後醍醐天皇らが起こした反乱に際し、家来の足利尊氏に裏切られて幕府の在京機関であった六波羅探題を落とされ、新田義貞によって鎌倉を攻められると、幕府は滅亡してしまいました。
時行は1335年(建武2年)、父の仇を討つため、また幕府を再興するために、家臣の諏訪頼重らとともに中先代の乱を起こして鎌倉を奪還しますが、すぐに奪い返されて落ち延びることになります。
その後、鎌倉幕府を滅ぼした張本人である後醍醐天皇の率いる南朝に帰順し、後醍醐天皇と対立していた尊氏と再び戦います。
1337年(延元2年/建武4年)には南朝の味方とともに鎌倉を攻め、再び鎌倉を奪い返すことに成功します。
翌1338年(延元3年/建武5年)には西進して大阪で尊氏と戦いますが、ここで敗れてしまいます。
またも姿を眩ませますが、その間に鎌倉は奪い返されてしまいました。
それから15年後の1353年(正平8年/文和2年)、時行は足利家に最後の戦いを仕掛けます。
足利家内の家臣や兄弟間で発生した観応の擾乱と呼ばれる内紛の真っ最中を狙ったものでした。(この戦いは、尊氏と弟の直義が敵味方に分かれて戦った内乱であり、結果として直義は尊氏に毒殺された)
時行はまたも鎌倉を攻めて陥落させますが、後からやってきた尊氏に敗れて敗走。
逃走・潜伏を続けましたが捕らえられ、従者とともに処刑されてしまいました。
北条時行の【死因】と【亡くなった日】
北条時行の【死因】
北条時行の死因は刑死。
足利将軍家に対して反乱を起こし、敗れて逃走・潜伏を続けていましたが、捕らえられて処刑されました。
北条時行が【亡くなった日】と【享年】
- 新暦1353年6月21日
- 旧暦天平8/文和2年5月20日
享年20代半ば
※時行は生年がわかっていないため、年齢が不明です。
まとめ
この記事をまとめますと、以下の通り
この記事を短く言うと
1,北条時行の『死因』は?
足利幕府に捕らわれて処刑された
2,北条時行が【亡くなった日時】は?
新暦1353年6月21日
旧暦天平8/文和2年5月20日
享年20代半ば
3,北条時行の【最後の様子】とは?
父の仇である足利尊氏と生涯をかけて戦い、鎌倉を3度奪い返したが、3度とも奪い返された。何度も逃亡を繰り返したが、とうとう捕まり処刑された。
4,北条時行の【子孫】とは?
維新の十傑にも数えられる志士・横井小楠は時行の子孫を自称しており、時行とともに戦った楠木正行(くすのき まさつら/楠木正成の息子)から名前を拝借するなど、リスペクトされていた。
以上となります。
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