山本覚馬の【死因】や【最後の様子】について、短くまとめると、以下のとおりです。
- 山本覚馬の死因は、病死。詳しいことはどこにも残されていない。
- 山本覚馬は、明治25年(1892年)12月28日に亡くなった。
- 山本覚馬は、明治になってから、奠都によって落ち込んだ京都復興のため奔走した。
この記事では、山本覚馬の最期の様子について、ひと目で分かるようにまとめました。
山本覚馬の最期と死因について知りたい方にとって、この記事は必ずお役に立つはずです。
これを読んで、山本覚馬の最期についての疑問を、スッキリと解消していただければ幸いです。
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どうぞ、ごゆっくりお過ごしくださいませ。
山本覚馬の【死因】と【亡くなった日】
山本覚馬の【死因】
山本覚馬の死因は、病死です。
しかし、詳しいことは残されていません。
自宅で亡くなったといわれています。
山本覚馬が【亡くなった日】と【享年】
山本覚馬は、明治25年(1892年)12月28日に亡くなりました。
享年64歳でした。
山本覚馬の【子孫】の現在とは?
結論からいえば、山本覚馬の子孫は、ひ孫の恪太郎という人物が戦後まで生きて、京都市役所勤務ののち、各地で消防署長を務めたことがわかっています。
その後は不明ですが、おそらく恪太郎さんにお子さんがいれば、その方は現在でもご存命なのではないでしょうか。
山本覚馬からすれば、その方は玄孫(孫の孫)にあたられます。
山本覚馬には娘が2人いました。
1人目は、覚馬29歳の時に結婚した『うら』との間にもうけた、次女・みねです。(長女は幼い時に死亡)
2人目は、うらと離縁したのち、京都において盲目の覚馬の身の回りの世話をしていた時栄との間に授かった三女・久栄です。
次女・みねは、熊本藩士で儒学者の横井小楠の長男・時雄と結婚。
平馬を出産しましたが、明治20年(1887年)に死去。
三女・久栄は、一時期、徳冨蘆花と婚約しますが破談。
婚約破棄から6年後の明治26年(1893年)、23歳のときに病気で亡くなっています。
徳冨蘆花の小説『黒い眼と茶色の目』は、久栄との恋愛の葛藤を描いているといわれています。
また、久栄と結婚できなかったのは、実の兄・徳富蘇峰や、新島襄からの反対が理由だったといわれています。
婚約破棄となった蘆花は傷心し、鹿児島などを流浪した後、熊本英学校の教師となりました。
みねの息子・平馬は、母亡き後、覚馬の養子となりますが、その後の詳しい生涯は不明です。
昭和19年(1944年)に亡くなったようです。
平馬の息子・格太郎は幼い時に山口家に養子に出され、京都市役所に勤務。
各地の消防署長を務めたことがわかっています。
山本覚馬の【最後の様子】は?死ぬ前に起こっていたことを解説
覚馬は晩年、車椅子に乗って生活していたことがわかっています。
幼い頃から勉学に長けていた覚馬は、22歳で江戸に出て、五稜郭を設計した武田斐三郎や、後の戊辰戦争で江戸城を無血開城に導いた勝海舟たちとともに、佐久間象山の塾で学びます。
25歳のときにはオランダの書物(蘭書)を学び、江川太郎左衛門(英龍)に洋式砲術を学び、研究を深めました。
28歳の時には一度会津に戻り、自身も幼い頃に学んだ会津藩藩校・日新館の教授となり、蘭学を教え始めますが、従来の会津藩のあり方を批判したことで、1年間の禁足処分になります。
しかし覚馬は藩に軍政改革を訴え続け、軍事取調役兼大砲頭取に抜擢されます。
文久2年(1862年)、京都守護職に就任した会津藩藩主・松平容保に従い京に上り、黒谷本陣(金戒光明寺)で西洋式軍隊の調練や、洋学の講義を行いました。
元治元年(1864年)、砲兵隊を率いて参戦した禁門の変において勲功を挙げ、公用人に任ぜられます。
これにより覚馬は、幕府や諸藩の名士らと交わる機会が増え、活動範囲を広げますが、不幸にも眼病を患い、ほとんど失明同然の状態になります。
この失明については、禁門の変での負傷や、白内障の悪化が原因とされています。
明治5年(1872年)、覚馬は脊髄を損傷し、体の自由も利かなくなっていました。
ドイツ人建築技師のルドルフ・レーマンが試作した車椅子に乗りながら、京都復興のために奔走を続けました。
明治8年(1875年)、宣教師のゴードンを通してキリスト教を学んだ覚馬は、「キリスト教こそが日本を根底から動かし、進歩を促進する力だ」と信じるようになりました。
そして、ゴードンの紹介で知り合った新島襄の計画を知り、旧薩摩藩邸の敷地を譲渡します。
その後、新島とともに、同志社英学校を設立。
明治18年(1885年)には、妻の時栄とともにキリスト教の洗礼を受けています。
母・さく、娘・みね、久栄、妹・八重、覚馬の家族すべてがクリスチャンとなっています。
山本覚馬の【辞世の句】または【最期の言葉】とその意味とは?
山本覚馬に、辞世の句や最後の言葉というものは残されていません。
しかし、覚馬が直接関わって残された資料が存在しています。
戊辰戦争最初の戦いである鳥羽伏見の戦いで新政府軍が勝利すると、幕府軍だった会津藩士である覚馬は捕縛され、京都の薩摩藩邸に幽閉されました。
幽閉されている間、覚馬はこれからの国家運営について自身の考えを述べた『山本覚馬建白』(『管見』)を薩摩藩に提出します。
この頃には覚馬は失明してしまっていたので、野澤鶏一という会津藩士に口述筆記させました。
覚馬の高い見識は評価され、明治2年(1869年)に釈放された翌年には、京都府顧問として採用されました。
覚馬は、東京奠都(東京へ政府機能が移されたこと)で落ち込んでしまった京都の経済を立て直すため、日本初の博覧会(京都博覧会)を開催するなど、奔走します。
博覧会開催の際、まだ「外国人遊歩規定」があった外国人にも博覧会を観覧してもらいたいと、国に外国人入京許可を出すよう願い出て、許可を取り付けています。
覚馬は入京する外国人のために英文の観光ガイドブックを作成しました。
覚馬が原稿を作り、覚馬をサポートしていた商人・丹羽圭介が英文にしました。
印刷には、覚馬の妹・八重も協力したといわれています。
後年、丹羽はこのガイドブックについて「これは当時京都第一の新知識であった山本覚馬氏の指導により私が主となって拵えたものであるが、もちろん京都最初の欧文活版印刷であった」と語っています。
山本覚馬の【死後に起こった出来事】とは?
山本覚馬の死後も、覚馬が立ち上げた京都博覧会は回を重ね、京都を活気づけます。
また、「新しい国家のためには人材をつくるのが第一」と考えていた覚馬のもとで学んだ優秀な青年たちが、京都の産業振興に取り組み、琵琶湖疎水事業を成し遂げます。
琵琶湖の水を京都まで運べるようになったことで、滋賀の大津と京都の伏見を結ぶ航路となり、水は京都の農地を潤し、水流は水車や水力発電に活用されました。
水力発電の電力は京都市中に引かれ、京都の工業の発展に活用されました。
また、日本初の電気鉄道の電源となりました。
まとめ
この記事をまとめますと、以下の通り
この記事を短く言うと
1,山本覚馬の『死因』は?
山本覚馬の死因は、病死。
詳細は不明だが、自宅で亡くなった。
2,山本覚馬が【亡くなった日時】は?
山本覚馬は、明治25年(1892年)12月28日に亡くなった。
享年歳
3,山本覚馬の【最後の様子】とは?
山本覚馬は、体が不自由になりながらも京都のために奔走し、
京都の復興に尽力した。
4,山本覚馬の【最期の言葉】とは?
最期の言葉や辞世の句は残っていないが、「山本覚馬建白」という文書が残されている
5,山本覚馬の【子孫】とは?
格太郎という人物が消防署長を務めたという
6,山本覚馬の【死後に起こった出来事】とは?
覚馬の死後も、京都は覚馬の望んだ通りの発展を遂げた
以上となります。
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