武市半平太の【死因】や【最後の様子】について、短くまとめると、以下のとおりです。
- 武市半平太の死因は、刑死。切腹で亡くなった。
- 武市半平太は、慶応元年閏5月11日(1865年7月3日)に亡くなった。
- 武市半平太の切腹方法は凄まじく、検視役の袴が血に染まった。
- 武市半平太に切腹を命じたことを、晩年、前土佐藩主・山内容堂は後悔したという。
この記事では、武市半平太の最期の様子について、ひとめで分かるようにまとめました。
武市半平太の最期と死因について知りたい方にとって、この記事は必ずお役に立つはずです。
これを読んで、武市半平太の最期についての疑問を、スッキリと解消していただければ幸いです。
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武市半平太の【死因】と【亡くなった日】
武市半平太の【死因】
武市半平太の死因は、刑死です。
切腹で亡くなったのでした。
優れた剣術家であった武市は、土佐藩(現在の高知県)の上士(上級藩士)の家に生まれました。
武市は、安政元年(1854年)の安政南海地震で家屋を失ったことをきっかけに、翌安政2年(1855年)に建てた自宅に道場を構え、叔父で槍術家の島村寿之助とともに、道場経営を始めます。
道場には120人の門弟が集まり、その中には中岡慎太郎や、岡田以蔵もいました。
これが、後に武市が結成する「土佐勤王党」の母体となります。
安政3年(1856年)、藩より剣術修行が許された武市は、江戸の桃井春蔵という剣術家の道場に入門します。
しかし、祖母の病状が悪化。安政4年(1857年)、土佐に帰国しました。
安政6年(1859年)、土佐藩主・山内豊信(後の山内容堂)が、第13代将軍死後の将軍後継問題により大老・井伊直弼から隠居・謹慎を命じられると、この処遇に憤った土佐藩士たちの中で「尊皇攘夷」の機運が高まりました。(尊皇攘夷とは、天皇を守って外国勢力を日本国内から追い出そうという考え方のこと)
山内容堂は、一橋慶喜(のちの15代将軍・徳川慶喜)を第14代将軍に推す「一橋派」の大名の1人であり、幕府と朝廷が協力しあって幕藩体制を強化しようとする「公武合体」の方針をとっていました。(公武合体とは、朝廷と幕府が協力して日本を守ろうという考え方のこと)
一方、武市は文久元年(1861年)に、土佐藩の尊皇攘夷派の急先鋒として「土佐勤王党」を結成。
土佐勤王党には、坂本龍馬らも名を連ねていました。(龍馬は後に離脱)
土佐勤王党は、当時土佐藩内の藩政改革を行い、前藩主・容堂と同じ公武合体派政策を推し進めていた吉田東洋を暗殺し、藩政の主導権を握りました。
しかし、謹慎を解かれた容堂が、隠居の身でありながらも実質的に藩政を掌握すると、自身の腹心であった東洋を暗殺した土佐勤王党の大弾圧に乗り出し、党員を次々に捕縛・投獄しました。
武市も文久3年(1863年)に逮捕・投獄されました。
岡田以蔵はじめ、下士(下級藩士)の身分であった党員は激しい拷問を受けましたが、武市は上士であったため、拷問を受けることはありませんでした。
なかなか自白しない党員への拷問は過酷さを増し、獄死する者もいました。
そしてついに、岡田以蔵ら4名が自白したため、武市の罪状が明らかとなりました。
しかし、党員の自白はあったものの、武市は投獄から1年以上、一貫して吉田東洋の暗殺を否定し続けたため、藩は武市の罪状を証明できませんでした。
最後は、業を煮やした容堂により、「藩主に対する不敬行為」という罪状で、切腹を命じられました。
自白した4名は下士身分であったため、切腹することも許されずに、斬首になりました。
武市半平太が【亡くなった日】と【享年】
武市半平太は、慶応元年閏5月11日(1865年7月3日)に亡くなりました。
享年37歳(満35歳)でした。
武市半平太の凄まじい切腹のやり方と最後の様子
罪状が言い渡された武市らには、即日刑が執行されました。
切腹を言い渡された武市は、三文字割腹の法を用いたといわれています。
三文字割腹とは、腹を三度かっさばいた後、前のめりになったところを介錯人に心臓を突かせる切腹方法です。
平安時代にはすでに存在したといわれる切腹には様々な様式がありました。
戦国時代には、介錯なしで腹を切り裂き、自身のはらわたを掴み出して周りに見せつけるというのが美しいとされていました。
江戸時代になると、切腹は腹の皮を傷つけた程度で介錯人が首を切り落とすという、実質的には「斬首刑」といえるような形式的なものになっていました。
しかし、名誉を重んじる武士は、責任をとって自害したという形をとりました。
その中で、誰も実現できた者がいないという三文字割腹を用いた武市。
武市が三文字割腹で絶命した際、検視役の袴が血に染まったという話が残されています。
武市半平太の子孫の現在
武市半平太と妻・富子の間には子どもがいませんでした。
そのため、甥の子である半太を養子にしたのです。
ただ、中央大学の法学部教授だった武市楯夫という人が、武市半平太の養子となった半太の息子であると公言していました。
これが本当なら、武市楯夫さんの子孫が、現在も続いているかもしれませんが、詳細は不明です。
最初、土佐勤王党の党員・岡甫助の子・永次郎を養子に迎えましたが、様々な事情から離縁。
そのため、富子の弟・島村笑児の同僚で、梼原出身の中平定純に世話してもらい、明神睦衛(後、武市半太と改名)を養子とし、後継としました。
半太は日露戦争に従軍した後、元土佐藩士が結成した瑞山会の支援を受け、医師免許を取得。
故郷の梼原村で開業しました。
武市半平太の【辞世の句】とその意味とは?
武市半平太の辞世の句は、
「ふたたびと 返らぬ歳を はかなくも 今は惜しまぬ 身となりにけり」
です。
「再び返ることのない歳月をはかないと思ったこともあったが、(これから死ぬのだから)もう過去のことなど惜しむ必要はなくなってしまった」
というような意味になるかと思います。
「歳」を歳月ととらえるか、年齢ととらえるかは意見が分かれるかもしれません。
今まで色々やってきて、その結果切腹となってしまったが、自分のこれまでの行いに悔いはないという気持ちが込められているのではないでしょうか。
武市半平太の【死後に起こった出来事】とは?
武市半平太の切腹からまもなく、薩摩藩と長州藩が密かに手を結び、朝廷を中心とした新政権の成立を目指すようになります。(薩長同盟)
慶応2年(1866年)、幕府は倒幕勢力の中心である長州藩を処分するため、元治元年(1864年)に続き、二度目の長州征討を決行しますが、薩摩の支援を受けた長州軍が健闘。
幕府軍は第14代将軍・徳川家茂が死去したことを理由に撤退しますが、明らかな敗北であり、倒幕派は勢いを増します。
親幕府派の前土佐藩主・山内容堂は、土佐藩士・後藤象二郎とともに、幕府が政権を朝廷に返上し、朝廷を中心とした連合政権をつくるという案(大政奉還)を建白。
慶応3年10月14日に実現しました。
しかし、その後容堂は、徳川家の扱いで新政権内の倒幕派と対立。
明治政府において重役から外される形となってしまいます。
土佐藩にとって、人格も優れ、仁義を重んじる人物であったといわれる武市をはじめ、土佐勤王党に所属していた有能な人材を幕末に多く失い、新政府内で大きな力を持つ薩摩・長州に対抗できる人材がいなかったことは、大きな痛手となりました。
容堂は晩年、武市に切腹を命じたことを、後悔していたといいます。
武市は罪人として処罰されていましたが、有志の尽力によって、明治10年(1877年)に名誉が回復されました。
まとめ
この記事をまとめますと、以下の通り
この記事を短く言うと
1,武市半平太の『死因』は?
武市半平太の死因は、刑死。
「藩主への不敬行為」という罪状で切腹させられた。
2,武市半平太が【亡くなった日時】は?
武市半平太は、慶応元年閏5月11日(1865年7月3日)に亡くなった。
3,武市半平太の【最後の様子】とは?
武市半平太は、三文字割腹という凄まじい切腹方法で絶命した。
4,武市半平太の【辞世の句】とは?
ふたたびと 返らぬ歳を はかなくも 今は惜しまぬ 身となりにけり
5,武市半平太の【子孫】とは?
中央大学の教授だった武市楯夫さんが、半平太の子孫を自称していたらしい
6,武市半平太の【死後に起こった出来事】とは?
薩摩藩と長州藩が、坂本龍馬の仲介を受けて同盟を締結し、明治維新へ向かうこととなる
以上となります。
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