高師直(こうの もろなお)の【死因】や【最後の様子】について、短くまとめると、以下のとおりです。
- 高師直の死因は、敵対勢力による暗殺。
- 師直は、新暦1351年3月24日(旧暦・正平6/観応2年2月26日)に亡くなった。享年不明。
- 師直の死後も、室町幕府はなかなか安定せず、ついには観応の擾乱(かんのうのじょうらん)という、日本を巻き込んだ争乱が起こった
この記事では、高師直の最期の様子について、ひと目で分かるようにまとめました。
高師直の最期と死因について知りたい方にとって、この記事は必ずお役に立つはずです。
これを読んで、高師直の最期についての疑問を、スッキリと解消していただければ幸いです。
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高師直の【死因】と【亡くなった日】
高師直の【死因】
高師直(こうのもろなお)の死因は、敵対勢力による暗殺です。
京都へ護送される途中で、無防備な状態のときに襲われて亡くなったのでした。
高師直が【亡くなった日】と【享年】
新暦・1351年3月24日
旧暦・正平6/観応2年2月26日
享年不明
高師直の【最期の様子】は?
高師直は、みずからの主君である足利尊氏の弟・足利直義との戦いに敗北したのち、京都へ護送される途中で襲撃され、為す術もないままに命を落としました。
高師直の死因は暗殺。
敵の手にかかり、殺されてしまったのです。
高師直は、室町幕府の初代征夷大将軍・足利尊氏(あしかが たかうじ)の側近として、鎌倉幕府討伐の頃より、数々の戦いに参加していました。
尊氏が、鎌倉幕府を倒した建武親政から離反すると、師直もこれに従い、後醍醐天皇(ごだいごてんのう)の側近である
- 楠木正成(くすのき まさしげ)
- 北畠顕家(きたばたけ あきいえ)
などを討つ活躍を見せます。
1338年(延元3年/建武5年)、尊氏が幕府を開くと、師直は執事(しつじ)に就任。幕府内の要職や主要国の守護を高氏一族で占め、権勢を振るいました。
室町幕府には師直以外にも、政務を担当する尊氏の弟・足利直義(ただよし)がいました。
鎌倉幕府の政治システムを踏襲したい直義一派と、新しいシステムを作りたい師直一派で、対立が生まれてしまいます。
直義派の讒言(ざんげん)によって師直が執事職を降ろされると、怒った師直は直義を急襲。
直義を出家に追いやり、代わりに政務を担当することになった足利義詮(よしあきら、尊氏の嫡子)を補佐して、ふたたび権勢を取り戻すことに成功します。
1350年(正平5年/観応元年)、中国・四国地方に基盤を持つ足利直冬(ただふゆ)が、尊氏を相手にして反乱を起こします。
直冬は尊氏の息子でしたが認知されておらず、これを哀れんだ直義が自分の養子とし、とてもかわいがっていたのです。
こういった経緯から、養父・足利直義に恩義を感じていた直冬は、実父・足利尊氏に対して反乱を起こしたのです。
師直は尊氏とともに播磨(はりま、現在の兵庫県)へ出陣しますが、これを好機と見た直義が監視下から逃げ出し、南朝と手を結んで蜂起します。
これにより師直は、直冬と直義の挟み撃ちに遭ってしまいます。
師直たちはすぐさま引き返して直義・南朝軍と戦いましたが敗北。
尊氏は、師直の出家を条件にして弟・直義に和議を申し込み、停戦しました。
出家は同時に助命を願い出るものでもありましたが、師直は京へと護送中、直義の手の者によって奇襲を受け、抵抗もできず殺されてしまいます。
高師直殺害は、明らかな約束違反だったため、これに足利尊氏は激怒し、弟・直義を深く恨むことになるのです。
師直を暗殺したのは、上杉能憲(うえすぎ よしのり)という人物です。
この暗殺には、かつて師直が暗殺した人物の息子も携わっていました。
師直は直義派から恨みを買い過ぎており、その命は助けられなかったのです。
こうして高師直は、主君・足利尊氏とその弟・足利直義のあいだで起こった観応の擾乱(かんのうのじょうらん)と呼ばれる乱に巻き込まれ、命を落としたのです。
高師直の【最後の言葉】とその意味とは?
師直の最期の言葉や辞世の句は、伝えられていません。
ただ、師直の残した有名な言葉は、歴史書・太平記に記されています。
「今、この師直にかわって働いてくれようとする者に、どうして鎧一つを惜しんだりするだろうか」
という言葉です。
歴戦の猛将であった師直は、主君の足利尊氏にかわって、南朝を相手にして日本各地で戦い続けていました。
四條畷の戦い(しじょうなわてのたたかい)と呼ばれる戦で、師直は名将・楠木正成の息子・楠木正行(くすのき まさつら)と戦ったのです。
そのとき、上山高元という武士が、師直のもとを訪ねていたのです。上山は、まったく武装せずに師直のもとを訪ねていたので、鎧を師直から借りて、師直とともに戦おうと考えたのです。
そして、鎧を借りようと、師直の鎧に手を伸ばしたとき、師直の部下がそれを発見して、鎧を盗まれると勘違いして上山を追求したのです。
そこに師直自身が通りかかり、上山の事情を聞くと、師直はさきほどのセリフを口にして、こころよく鎧を与えたのでした。
これに感激した上山は、獅子奮迅の働きをみせて、危機におちいった師直を救出。
師直の身代わりになって戦死したのでした。
高師直の【子孫】は、どうなったのか?
高師直の子孫には、応仁の乱(おうにんのらん)で戦った斯波義廉(しば よしかど)という人物がいます。
師直の娘を通じて、室町幕府の名門である三管領家(さんかんれいけ)の筆頭である、斯波(しば)家の11代目当主・斯波義廉が、高師直とつながっているのです。
高師直の子どもたちは、師直とともにことごとく殺害されています。
そのため、師直の子供で生き残ったのは、渋川直頼という武将に嫁いだ師直の娘だけだったのです。
その高師直の娘の子孫が、斯波義廉なのです。
斯波義廉は、1467年に始まった、あの有名な応仁の乱で、祖父・山名宗全とともに西軍に属してたたかった人物です。
この斯波義廉の子孫が、斯波義銀という人物です。
尾張国の守護だった斯波義銀は、織田信長の主君にあたる人ですが、信長と敵対して尾張国から追放されています。
斯波義銀の子孫は、津田と名乗って加賀藩に家老としてつかえて1万石を与えられ、明治維新で男爵となり斯波に名前を戻しています。
高師直の【死後に起こった出来事】とは?
高師直の死後、師直を死に追いやった原因の一人である足利直義が、実の兄である足利尊氏によって殺害されています。
師直と直義の対立によって直義と尊氏の対立が決定的なものになってしまい、直義は京都を追い出され、鎌倉に逃れていました。
それでも尊氏は矛を収めず、宿敵であった南朝に帰順してまで、直義・直冬の二人を倒すために追討の命令を受けます。
直義は尊氏に攻められて降伏しましたが、1352年(正平7年/観応3年)に急死します。
公には病死とされましたが、師直が殺されてからちょうど一年後に亡くなっているため、尊氏による毒殺説も根強いです。
おそらく尊氏は、忠臣であった師直のうらみを晴らすために、師直の命日を狙って、弟・直義を毒殺したのでしょう。
その後も直冬や南朝との戦いが止むことはなく、南北朝の動乱と呼ばれる時代が終わり平和が訪れるのは3代将軍・足利義満(よしみつ)の登場を待たなければなりませんでした。
まとめ
この記事をまとめますと、以下の通り
この記事を短く言うと
1,高師直の『死因』は?
敵対勢力による暗殺。
2,高師直が【亡くなった日時】は?
新暦1351年3月24日
旧暦正平6/観応2年2月26日
享年不明
3,高師直の【最後の様子】とは?
政敵であった直義を一度は倒すことに成功したが、勢力を盛り返した直義らに敗れ、のち謀殺された。
4,高師直の【最期の言葉】とは?
最期の言葉は記録されていない
5,高師直の【子孫】とは?
応仁の乱で活躍した斯波義廉が、師直の子孫といわれている
6,高師直の【死後に起こった出来事】とは?
師直の死後も幕政は安定せず、義満の活躍まで争いは続いた。
以上となります。
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