勝海舟の【死因】や【最後の様子】について、短くまとめると、以下のとおりです。
- 勝海舟の死因は、病死。脳溢血だったといわれている。
- 勝海舟は、明治32年(1899年)1月19日に亡くなった。
- 勝海舟は、「コレデオシマイ」という言葉を残し、亡くなった。
この記事では、勝海舟の最期の様子について、ひとめで分かるようにまとめました。
勝海舟の最期と死因について知りたい方にとって、この記事は必ずお役に立つはずです。
これを読んで、勝海舟の最期についての疑問を、スッキリと解消していただければ幸いです。
専門サイト「最期と死因ドットコム」へようこそ。
どうぞ、ごゆっくりお過ごしくださいませ。
勝海舟の【死因】と【亡くなった日】
勝海舟の【死因】
勝海舟の死因は、病死です。
脳溢血でした。
勝海舟が【亡くなった日】と【享年】
勝海舟は、明治32年(1899年)1月21日に亡くなりました。
享年77歳でした。
勝海舟の生い立ちと、【最後の言葉】
勝海舟は、亡くなる直前、最後に「コレデオシマイ」という言葉を口にして亡くなったといいます。
武士の中でも貧乏な家に生まれましたが、高い能力を買われて幕府の要職を務めた勝。
幕末には安政5年(1858年)に日本とアメリカ合衆国の間で結ばれた「日米修好通商条約」の合意書(批准書)交換のため使節団を結成。
軍艦・咸臨丸の実質的な艦長に就任し、通訳のジョン万次郎や、のちに慶應義塾大学を創立する福沢諭吉らとともにアメリカに渡航しました。
帰国後は、当時の将軍であった、第14代将軍・徳川家茂に直訴し、「日本海軍」の建設を目指し、「神戸海軍操練所」を創設。
欧米列強に対抗しようとしました。
この頃、土佐藩(現在の高知県)を脱藩していた坂本龍馬らも海軍操練所に受け入れ、航海術や操船技術を教えています。
日本最後の内戦・戊辰戦争時には、鳥羽伏見の戦いで敗走した旧幕府軍の軍事統括官(軍事総裁)となり、同じく幕臣で、西郷隆盛と面識のあった山岡鉄舟(やまおかてっしゅう)を西郷のもとに送り、江戸城を明け渡す用意があることを伝えます。
第13代将軍・徳川家定の正妻(御台所)・天正院篤姫や、第14代将軍・徳川家茂の正妻・和宮の嘆願なども功を奏し、新政府軍による江戸への総攻撃直前に西郷隆盛と会談。
江戸城の開城を決め、江戸の住民の生命と家屋・財産を戦火から守りぬきました。(江戸城無血開城)
明治維新後の勝海舟は、徳川家とともに駿府(現在の静岡県)に移り住みました。
しかし、新政府から相談を受けて東京に出ることも多く、旧幕臣の代表格として、明治新政府の要職を歴任しました。
移り住んだ駿府では、幕府崩壊とともに失業し、生きる術を失った徳川家家臣のために、政府や全国の大名家への再就職斡旋にも奔走しました。
さらに、明治新政府に不満を持つ武士たちを上手く抑え込みながら、自立の道へと促すため、駿府で茶畑の開墾を進めます。
現代でも「静岡県は日本一のお茶どころ」といわれる理由は、勝海舟が大きく関わっていたのです。
また、江戸城無血開城から30年後、朝敵とされた徳川慶喜と皇室の和解に尽力・実現させたことで人生の後悔はなかったのではないかと思います。
生涯徳川に忠義を貫いた幕臣でした。
勝は以前から
「死んだ時にはきっと夢から覚めた時と同じようなものだろう」
と言っていたと伝えられています。
「コレデオシマイ」
という最後の言葉は、「思い残すことはない、やりきった」という解放感もあったのではないでしょうか。
勝海舟らしい、とてつもなくかっこいい最後のセリフだと思います。
勝海舟の【最後の様子】は?
勝海舟は、風呂上がりにブランデーを一口飲んで、意識不明となって倒れたのです。その二日後に他界したのでした。
明治32年(1899年)1月19日午後5時頃、勝は風呂上がりに座り込んでしまい、家人に生姜湯(しょうがゆ)を持ってくるように頼みました。
しかし、生姜湯を用意するのは間に合わないからと、家人はブランデーを持ってきます。
勝は
「今度はどうもいけないかもしれんぞ」
といいながらブランデーを一口飲みましたが、途端に意識不明となり、倒れました。
勝は、倒れてから2日後に息を引き取りました。
勝海舟の【子孫】は、どうなったのか?
勝海舟には正妻・民子の他にも数人の妾がいたため、多くの子どもに恵まれました。
しかし、長男の小鹿は、40歳の若さで急逝してしまいます。
小鹿には男子がいなかったため、小鹿の長女・伊代の将来の婿として、当時11歳だった徳川慶喜の十男・精を養子に迎え、家督を継がせました。
精は、慶應義塾大学理財科(現在の経済学部経済学科)に進学。
卒業後は実業界に入り、企業の重役を勤めました。
また、海舟の妹・順は、幕末の思想家・佐久間象山に嫁いでいます。
勝の義理の息子・三浦啓之助(佐久間象山の妾の子)は、父・象山暗殺後、仇を討つために新選組に所属していた時期があります。
勝海舟の子孫と家系図については、以下のリンク記事で、更に詳しく解説しております。
勝海舟の【死後に起こった出来事】とは?
勝海舟の死から5年後、日本は日露戦争を開始します。
明治32年(1899年)1月25日。勝海舟のお葬式が東京の青山葬祭場で執り行われました。
激しい雪が降る中での葬儀だったといわれています。
勝の葬儀は、勝の遺言により、仏式で行われました。
当時明治新政府は、自然現象など神羅万象に神が宿ると考える、日本独自の民俗信仰である「神道」を国の宗教とする政策を推し進めていました。
貴族階級の人々(華族)や政府の要人たちといった最上流階級は、よほど強く希望しないかぎり、神道の葬式をあげることが通例となっていました。
その中で勝は、自身の葬儀を伝統的な仏式のお葬式で厳粛に執り行わせたのです。
政府内には勝の生前の功績を考え、国葬にするという案もあったようですが、勝本人が
「経費をできるだけ抑え、金が余れば貧しい人に寄付したい」
と強く願っていたため、勝に関係の深い海軍の諸兵団や軍楽隊、警察の騎馬隊などが派遣され、参列するだけという葬儀になりました。
葬儀を終えた勝の棺は、荏原郡馬込村(現在の東京都大田区)の洗足池に近い土地に運ばれ、葬られました。
現在もこの地に勝は眠っています。
徳川慶喜が書いたといわれる「海舟」という文字だけが刻まれた、シンプルな石づくりの五輪塔形式のお墓が建っています。
ちなみに勝夫妻の墓の隣には、西郷隆盛の霊を弔うために勝が建てさせた「留魂祠」があります。
勝は、明治10年(1877年)の西南戦争で自決した西郷隆盛を高く評価していました。
西郷の死後、勝は西郷の名誉回復に努めました。
勝は、明治7年(1874年)に日本が行った軍隊派兵である「台湾出兵」にも、明治27年(1894年)の「日清戦争」にも終始反対し続けました。
しかし、勝の死から5年後の明治37年(1904年)には、「日露戦争」が勃発。
「日本海軍の父の1人」とも呼ばれながらも戦争に反対し続けた勝の願いも虚しく、日本は戦争の道へと突き進んでいくことになります。
まとめ
この記事をまとめますと、以下の通り
この記事を短く言うと
1,勝海舟の『死因』は?
勝海舟の死因は、病死。
脳溢血だった。
2,勝海舟が【亡くなった日時】は?
勝海舟は、明治32年(1899年)1月21日に亡くなった。
3,勝海舟の【最後の様子】とは?
勝海舟は、風呂上がりにブランデーを口にして倒れたという
4,勝海舟の【最期の言葉】とは?
コレデオシマイ
5,勝海舟の【子孫】とは?
勝の娘が、徳川慶喜の子と結婚している
6,勝海舟の【死後に起こった出来事】とは?
勝の死から5年後、日露戦争が勃発する
以上となります。
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