2024年の大河ドラマ「光る君へ」の登場人物をまとめてご紹介!
死因と最期そして子孫のゆくえなどを、まとめて解説!
それぞれの人物の詳細は、リンク記事をご覧いただければ、くわしく解説しております。
「光る君へ」キャスト相関図
![「光る君へ」登場人物の相関図](https://rekishiru.site/wp-content/uploads/2024/04/c4638f25368fb2a140cf5409c26c765b.png)
「光る君へ」相関図
引用元NHKより
紫式部とその家族
紫式部
千年の長きにわたり語り継がれる名作「源氏物語」の作者。
![](https://saigotoshiin.com/wp-content/uploads/2024/01/紫式部-e1707849692516-300x147.png)
紫式部
引用元Wikipediaより
才色兼備の女性で、一条天皇の中宮・藤原彰子に女房としてつかえた。
彰子の父・藤原道長の愛人だったともいわれているが、真実は定かではない。
夫は藤原宣孝。
父は藤原為時。
藤原惟規は、兄または弟といわれている。
清少納言とはライバル同士だったという説もあるが、面識はなかったという説もある。
子孫には、平重盛などがいる
![](https://i0.wp.com/saigotoshiin.com/wp-content/uploads/2024/01/紫式部-e1707849692516.png?fit=300%2C147&ssl=1)
藤原為時
紫式部の父。
花山天皇につかえ、学問を教えたという。
若狭(福井県西部)に宋の国の商人・朱仁聡が訪れると、隣国の越前守に任じられた。
漢文の才に優れていた為時を若狭の隣にあった越前守に任命し、対処させようとしたという。
そのとき娘の紫式部も同行させたといわれている。
越前守につづき、越後守に任命された旅先で、息子の惟規が病死する。
藤原道長の息子・頼通の屏風の料に詩を献上したあと、消息が途絶え、その後の詳細は不明。
子孫は、紫式部や藤原惟規を通じて、平清盛がひきいた平家一門へとつながっている。
![](https://i0.wp.com/saigotoshiin.com/wp-content/uploads/2024/01/紫式部-e1707849692516.png?fit=300%2C147&ssl=1)
藤原惟規
藤原為時の息子。
紫式部の兄または弟とされている。
若い頃は学問の才が無く、父・為時は、才に優れた紫式部に対して
「お前が男であったなら」
と度々漏らしたという。
しかし大学で才能を開花させた。
父・為時が越後へ向かう途中で病死。
地獄へ行かないよう僧侶から出家を勧められたが、それを拒絶。
辞世の句の最後の一文字を書く前に力尽き、父・為時が一文字を付け加えたという。
子孫には、平家物語で有名な悲劇の女性・藤原輔子がいる
![](https://i0.wp.com/saigotoshiin.com/wp-content/uploads/2024/03/IMG_7272-scaled.jpeg?fit=300%2C169&ssl=1)
藤原宣孝
紫式部の夫。
妻・紫式部とのあいだに、大弐三位(藤原賢子)という娘をもうけた。
紫式部より20歳ちかく年長の人物だったという。
しかし、結婚からわずか3年で病死。
紫式部の他にも、妻と子供がいた。
子孫には、鳥羽法皇を悩ませた待賢門院璋子がいる
![](https://i0.wp.com/saigotoshiin.com/wp-content/uploads/2024/01/紫式部-e1707849692516.png?fit=300%2C147&ssl=1)
藤原道長とその家族
藤原道長
平安時代中期の最大の権力者。
![](https://saigotoshiin.com/wp-content/uploads/2024/01/藤原道長-e1707849552566-300x189.jpeg)
藤原道長
引用元Wikipediaより
紫式部が女房としてつかえた中宮・藤原彰子の父。
実は紫式部は、道長の愛人だったという説がある。
妻は、源倫子と源明子。
右大臣・藤原兼家の五男として生まれたため、将来性は乏しかった。
しかし二人の兄・道隆と道兼が若くして亡くなり、出番が回ってくる。
一条天皇の生母だった姉・詮子と仲が良く、姉から引き立てられた。
皇后・皇太后・太皇太后という、天皇と先代天皇と先々代天皇それぞれの后を、すべて自分の娘たちで占めた、いわゆる「一家三立后」を達成。
「この世をば 我が世とぞ思う 望月の かけたることも なしと思えば」
という、権力の絶頂を祝った「望月の歌」を残した。
子孫は現在も、皇室や五摂家で続いている。特に明治神宮の宮司は、藤原道長の直系子孫で有名。
![](https://i0.wp.com/saigotoshiin.com/wp-content/uploads/2024/01/藤原道長-e1707849552566.jpeg?fit=300%2C189&ssl=1)
源倫子
藤原道長の正妻。通称・鷹司殿。
源雅信の娘。
夫・藤原道長の栄華を支え、一家三立后を実現した三人の娘
- 彰子
- 姸子
- 威子
を産んだ女性。
二男四女をもうけたが、彰子を除く3人の娘に先立たれた。
子孫は皇室へとつながっている。
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源明子
藤原道長の妾妻。
醍醐天皇の孫にあたる。
道長の最初の妻だが、倫子の方が身分が高かったため、明子は妾妻になったという説あり。
安和の変で父・源高明が失脚。
その後、藤原道長の姉・藤原詮子に保護されて育った。
父・源高明を失脚させたのは、藤原道長の一族である「藤原氏九条流」という説がある。
そうなると、明子は父を失脚させた藤原氏の人間に嫁いだことになる。
彼女が産んだ藤原能信が、藤原氏の栄華を終わらせるきっかけをつくる。
明子の孫・藤原賢子を寵愛した白河法皇は、院政によって、藤原氏の摂関政治を完全に終わらせた。
![](https://saigotoshiin.com/wp-content/uploads/2024/03/白河法皇.jpeg)
白河法皇
引用元Wikipediaより
藤原一族を没落するきっかけとなった源明子は、ある意味で、父・源高明の恨みを晴らしたといえる。
孫の藤原賢子が、白河法皇から異常なほどの寵愛を受け、堀河天皇を産んでいる。
![](https://i0.wp.com/saigotoshiin.com/wp-content/uploads/2024/01/IMG_4606-scaled.jpeg?fit=300%2C225&ssl=1)
藤原兼家
藤原道長の父。
道隆・道兼・詮子・道綱の父でもある。
![](https://saigotoshiin.com/wp-content/uploads/2024/02/藤原兼家-e1708351344277-300x149.jpeg)
藤原兼家
引用元Wikipediaより
兄・兼通などとの壮絶な権力闘争を経て、摂政・関白にのぼりつめた。
円融天皇に娘の詮子を嫁がせて、一条天皇が誕生。
一条天皇を早く即位させるために、花山天皇を策略によって出家させた。(寛和の変)
孫の一条天皇が即位すると、摂政に就任し、権力を独占。
関白に就任するが、すぐに長男・道隆に関白職をゆずって出家した。
子孫は皇室へとつながっている。
![](https://i0.wp.com/saigotoshiin.com/wp-content/uploads/2024/02/藤原兼家-e1708351344277.jpeg?fit=300%2C149&ssl=1)
藤原時姫
藤原兼家の妻。
道隆・道兼・道長・詮子の母。
時姫は、兼家の妻のひとりである藤原道綱母が記した「蜻蛉日記」に登場している。
藤原道綱母が、時姫をライバル視していたという。
兼家が右大臣になった直後に亡くなった。
子孫は、息子の道隆や道長を通じて、皇室や五摂家につながっている。
また、道兼を通じて、その子孫は宇都宮氏にもつながっている。
![](https://i0.wp.com/saigotoshiin.com/wp-content/uploads/2024/01/藤原道長-e1707849552566.jpeg?fit=300%2C189&ssl=1)
藤原道隆
藤原道長の兄。
藤原伊周・定子・隆家の父。
![](https://saigotoshiin.com/wp-content/uploads/2024/02/藤原道隆-e1709405473216-300x220.jpeg)
藤原道隆
引用元Wikipediaより
父の藤原兼家から関白の職を引き継いだ。
娘の定子を一条天皇へ入内させ、権力の強化を目論む。
糖尿病で死期が迫ると、息子・伊周を後継者にと望むが、叶わなかった。
道隆は若くして亡くなり、息子の伊周と、弟の道長が、権力闘争を繰り広げることになる。
息子の伊周や隆家を通じて、子孫は五摂家や平家一門へ引き継がれる。
![](https://i0.wp.com/saigotoshiin.com/wp-content/uploads/2024/02/藤原道隆-e1709405473216.jpeg?fit=300%2C220&ssl=1)
藤原道兼
藤原道長の次兄。
道隆の弟にあたる。
兄・道隆が亡くなると、その後を引き継いで関白となる。
しかし、関白になってから、わずか数日で亡くなったため、七日関白とあだ名された。
容貌が醜く、色黒で毛深かったという。
嫌われ者だったが、武勇に優れた男らしい人物と評価されていた。
その武勇は子孫に受け継がれ、鎌倉時代や、元寇(蒙古襲来)や戦国時代に活躍し、「坂東一の弓取り」や「奇蹟の武人」と呼ばれる名将も輩出したほどだった。
![](https://i0.wp.com/saigotoshiin.com/wp-content/uploads/2024/01/藤原北家家紋下り藤-e1710517914109.png?fit=300%2C247&ssl=1)
藤原道綱
藤原道長の異母兄。
藤原兼家と、藤原道綱母のあいだに生まれた。
ライバルだった藤原実資が「40歳過ぎて自分の名前しか読めないやつ」などと、日記に記した。
才人である母親から文才を引き継がなかったといわれているが、和泉式部だけは道綱の歌を評価した。
弓の名手だったらしい。
亡くなる直前に、異母弟・道長からの見舞いを受けている。
女系子孫には、鎌倉幕府の4代と5代将軍がいる。
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藤原道綱母
藤原兼家の妻のひとり。
藤原道綱の母親。
![](https://saigotoshiin.com/wp-content/uploads/2024/02/藤原道綱母-e1709920502769-300x226.jpeg)
藤原道綱母
引用元Wikipediaより
才女として知られており、蜻蛉日記の作者でもある。
蜻蛉日記とは、平安時代の女流日記文学。
夫・兼家の妻である藤原時姫との競争や、兼家の妻が日に日に増えていくことなどが記されている。
子孫は道綱を通じて、鎌倉幕府将軍につながる
![](https://i0.wp.com/saigotoshiin.com/wp-content/uploads/2024/02/藤原道綱母-e1709920502769.jpeg?fit=300%2C226&ssl=1)
高階貴子
藤原道兼の妻。
伊周・定子・隆家の母。
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高階貴子
引用元Wikipediaより
夫・道隆が関白となり、娘の定子が一条天皇に入内するなど、栄華を極めた。
しかし道隆が亡くなると、息子の伊周と隆家が、藤原道長と権力闘争を開始。
長徳の変で、伊周と隆家が失脚し、さらに、娘の定子が出産直後に亡くなる。
最後は息子たちを心配しながら亡くなったという。
子孫は、伊周や隆家を通じて、五摂家や平家一門につながっている。
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藤原伊周
藤原道長の甥。
藤原道隆の息子。
![](https://saigotoshiin.com/wp-content/uploads/2024/03/藤原伊周-228x300.jpeg)
藤原伊周
引用元Wikipediaより
道長のライバルだった人物で、美しい容姿と文才に優れていたという。
妹・定子が一条天皇の寵愛を受けて、一男二女を産む。
そのまま権力を握るかと思われたが、弟・隆家が、花山法皇を襲撃するという事件を起こして失脚。(長徳の変)
失意のうちに病没し、伊周の家「中関白家」は没落した。
長女が藤原道長の次男に嫁いで子供を産んだため、子孫は五摂家へと引き継がれている。
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藤原隆家
藤原道隆の息子。伊周や定子の弟。
ライバル・藤原道長の従者と乱闘騒ぎを起こしたり、兄・伊周の愛人宅へ通う花山法皇の袖を矢で射抜いたり、かなりの乱暴者だったという。
花山法皇を襲撃した件で、九州へ左遷。
その地で、刀伊の入寇という、海賊(女真族)の襲撃を撃退した。
この刀伊の入寇で、危うく褒美をもらえない可能性があった。
賢人右府と呼ばれた藤原実資からかわいがられたらしく、実資の口添えもあって、無事褒美をもらった。
子孫は現在も、藤原北家水無瀬流として続いている。
また別系統で、源頼朝の命を救った平清盛の継母・池禅尼は、隆家の子孫にあたる。
さらに、南北朝時代に名将・楠木正成の死のきっかけとなった坊門清忠も、子孫にあたる。
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藤原彰子
藤原道長の娘。
紫式部が女房としてつかえた女性。
一条天皇の中宮。
![](https://saigotoshiin.com/wp-content/uploads/2024/03/藤原彰子-300x220.jpeg)
藤原彰子
引用元Wikipediaより
一条天皇に入内して、後一条天皇と後朱雀天皇を産む。
一条天皇には、定子という中宮がいたが、父・道長が強引に彰子を中宮とした。
「源氏物語」のヒロイン・紫の上は、彰子がモデルだといわれている。
その血筋は、現在の天皇陛下に引き継がれている。
![](https://i0.wp.com/saigotoshiin.com/wp-content/uploads/2024/03/藤原彰子.jpeg?fit=300%2C220&ssl=1)
藤原詮子
藤原道長の姉。
藤原兼家の娘。
円融天皇の女御で、一条天皇の母。
弟・藤原道長をかわいがり、出世を助けた。
安和の変で失脚した左大臣・源高明の娘・明子を保護し、弟・道長に嫁がせた。
弟・道長と、甥・伊周の権力争いでは、最後まで道長を支援し、伊周の家は没落していった。
伊周の妹・定子が亡くなると、その娘を養育した。
子孫は、一条天皇を通じて皇室へと引き継がれたため、現在の天皇陛下は子孫にあたられる。
![](https://i0.wp.com/saigotoshiin.com/wp-content/uploads/2024/03/東三条院詮子-e1709638550110.jpeg?fit=300%2C176&ssl=1)
天皇
円融天皇
64代天皇。一条天皇の父。花山天皇は甥にあたる。
藤原兼家の娘・詮子を女御とし、一条天皇をもうけた。
藤原公任の姉・藤原遵子を寵愛したが、子供は産まれなかった。
詮子の父・藤原兼家との権力闘争により、甥の花山天皇に位をゆずって上皇となる。
その後、息子の一条天皇が即位すると、院政を行おうとしたが、摂政・藤原兼家とまたしても対立した。
子孫は現在の皇室につながっている。
![](https://i0.wp.com/saigotoshiin.com/wp-content/uploads/2024/01/IMG_4608-scaled-e1707849752574.jpeg?fit=300%2C173&ssl=1)
花山天皇
65代天皇。円融天皇の甥。
冷泉天皇の子。
![](https://saigotoshiin.com/wp-content/uploads/2024/01/花山天皇-218x300.jpeg)
花山天皇
引用元Wikipediaより
有力な外戚(母方の実家)を持たなかったため、わずか二年で天皇の位を一条天皇にゆずっている
女性問題が多く、とある母親とその娘を同時に愛妾とし、ほぼ同時に子供を儲けたという。
藤原斉信の妹・藤原忯子を異常なまでに寵愛した。
忯子が身ごもったまま亡くなると、出家したいと言い出す。
藤原兼家や、その息子・道兼に騙され、出家して天皇の位を従弟の一条天皇にゆずってしまう。
その後も女性問題はおさまらず、藤原伊周の愛妾に手を出したと勘違いされて、伊周の弟・隆家に矢で袖を射抜かれる(長徳の変)
子孫は皇室には引き継がれず、白川伯王家が子孫として昭和まで続いた。
![](https://i0.wp.com/saigotoshiin.com/wp-content/uploads/2024/01/花山天皇-e1707746403336.jpeg?fit=218%2C300&ssl=1)
一条天皇
66代天皇。
円融天皇と藤原詮子の子。
![](https://saigotoshiin.com/wp-content/uploads/2024/03/一条天皇-e1709576693723-300x209.jpeg)
一条天皇
引用元Wikipediaより
妻は、藤原定子と藤原彰子。
定子とのあいだに敦康親王を儲け、彰子とのあいだには後一条天皇と後朱雀天皇を儲けた。
藤原道長は、叔父にあたる。
伊周の妹である定子を寵愛し、道長の娘である彰子との関係は良くなかったともいわれている。
定子に先立たれ、彰子を残して崩御した。
子孫は現在の皇室に引き継がれている。
壬申の乱で敗れた大友皇子(弘文天皇)の子孫にあたる。
猫好きで有名だった。
![](https://i0.wp.com/saigotoshiin.com/wp-content/uploads/2024/03/一条天皇-e1709576693723.jpeg?fit=300%2C209&ssl=1)
三条天皇
花山天皇の異母弟。
一条天皇のいとこ。
藤原兼家は母方の祖父にあたり、藤原道長は叔父にあたる。
![](https://saigotoshiin.com/wp-content/uploads/2024/03/三条天皇-e1710436134333-300x189.jpeg)
三条天皇
引用元Wikipediaより
一条天皇が崩御された直後に36歳で即位。
藤原道長の次女・藤原姸子を中宮とする。
薬と思い込んで水銀を服用したため、眼病を患い、失明したという。
息子を皇太子にしてほしいと希望し、位を後一条天皇にゆずった。
息子の敦明親王は、約束通り皇太子となったが、三条天皇の死後に辞退。
敦明親王が、妻の延子を捨てて、道長の娘である寛子を妻としたため、延子とその父である藤原顕光は、道長を呪ったという。
娘の禎子内親王が、後朱雀天皇とのあいだに後三条天皇を産んでいる。
![](https://saigotoshiin.com/wp-content/uploads/2024/03/後三条天皇-240x300.jpeg)
後三条天皇
引用元Wikipediaより
孫の後三条天皇を通じて、子孫は現在の皇室へとつながっている。
この後三条天皇が、藤原氏の栄華を終わらせることになる。
![](https://i0.wp.com/saigotoshiin.com/wp-content/uploads/2024/03/三条天皇-e1710436134333.jpeg?fit=300%2C189&ssl=1)
一条朝の四納言
藤原斉信
藤原道長と一条天皇の政治を支えた「一条朝の四納言」のひとり。
藤原忯子の兄。
妹の忯子が身ごもったまま亡くなったことで、花山天皇の子を天皇とする野望は潰えた。
その後は、藤原道長を支え、大臣を目指したが、一つ手前の大納言で止まった。
娘を道長の子・長家に嫁がせたが、若くして亡くなってしまった。
娘だけではなく、娘が妊娠していた子供まで亡くしたことにショックを受けた斉信は、歩くこともできないほど落胆したという。
弟の藤原公信を養子としたが、その公信の妻が、紫式部の娘である藤原賢子だという説がある。(藤原賢子の夫は、藤原兼隆だという説もある)
子孫には、養子を通じてだが、平清盛の長男・平重盛と、同じく清盛の継母・池禅尼がいる。
![](https://i0.wp.com/saigotoshiin.com/wp-content/uploads/2024/01/IMG_4606-scaled.jpeg?fit=300%2C225&ssl=1)
藤原公任
藤原道長を支えた「一条朝の四納言」のひとり。
円融天皇が寵愛した藤原遵子の弟。
関白・藤原頼忠の子。
文化人として才能を発揮した人物。
娘を藤原道長の子・教通に嫁がせたが、若くして亡くなった。
同じ四納言のひとり藤原斉信とは、ライバルであると同時に親友でもあったという。
娘を藤原道長に嫁がせたが、早くに亡くなってしまったという共通点が、藤原斉信と藤原公任のあいだにはあった。
公任が出家したあと、斉信は公任の山荘を訪れ、二人はともに慰め合い、ともに泣き続けたという。
四納言の最後の生き残りとなった。
子孫は、戦国大名・毛利元就につかえ、長州藩士として幕末にも活躍。子孫はその後、東京に居を移した。
![](https://i0.wp.com/saigotoshiin.com/wp-content/uploads/2024/01/藤原公任-e1710009606517.jpeg?fit=300%2C175&ssl=1)
ちなみに毛利元就は、藤原公任と同じ時代を生きた女流歌人・赤染衛門の子孫にあたる
![](https://i0.wp.com/saigotoshiin.com/wp-content/uploads/2024/03/赤染衛門-e1710056678656.jpeg?fit=300%2C200&ssl=1)
藤原行成
藤原道長のいとこ甥(行成の祖父と、道長の父が、兄弟)
一条朝の四納言のひとり。
![](https://saigotoshiin.com/wp-content/uploads/2024/03/藤原行成-e1710080308635-300x177.jpeg)
藤原行成
引用元Wikipediaより
三蹟のひとりに数えられる能筆家で、世尊寺流という書道の流派を起こす。
権記という日記を残し、そこに「一条天皇がもっとも寵愛したのは、道長の娘・彰子ではなく、定子だった」とほのめかしている。
一条天皇が、定子の子である敦成親王を天皇に即位させたいと希望した際、行成はこれに反対。
藤原道長の権力が強すぎるので、道長の孫である敦康親王を即位させるべきだと、行成は一条天皇を説得したという。
奇しくも藤原道長とまったく同じ日に亡くなった。
鎌倉幕府を滅亡させた武将・新田義貞が寵愛した妻・勾当内侍は、藤原行成の子孫であるという説がある。
![](https://i0.wp.com/saigotoshiin.com/wp-content/uploads/2024/03/藤原行成-e1710080308635.jpeg?fit=300%2C177&ssl=1)
源俊賢
藤原道長の義兄。
道長の妾妻・源明子の兄。
一条朝の四納言のひとり。
幼い頃、安和の変で父・源高明が失脚。
この政変の黒幕は、藤原氏だという説がある。
俊賢は、それでも藤原氏に仕える道を選ぶ。
姉・明子が、藤原詮子の斡旋もあって、その弟・藤原道長に嫁ぐ。
そして道長の兄・道隆の推挙もあって蔵人頭に大抜擢された。
この恩を俊賢は生涯忘れず、道長に従いながらも、そのライバルである道隆の子供達の伊周・定子・隆家に、好意的な態度を取り続けた。
四納言の中で最初に亡くなった。
子孫には、国宝・鳥獣人物戯画を描いたとされ、漫画の始祖と呼ばれる鳥羽僧正がいる(鳥獣人物戯画の作者については、諸説あり)
![](https://i0.wp.com/saigotoshiin.com/wp-content/uploads/2024/03/鳥獣人物戯画.jpeg?fit=300%2C198&ssl=1)
その他の登場人物
清少納言
一条天皇の皇后・藤原定子の女房として仕えた女性。
「枕草子」の作者として有名。
![](https://saigotoshiin.com/wp-content/uploads/2024/03/清少納言-e1709402589124.jpeg)
清少納言
引用元Wikipediaより
同じく一条天皇の中宮・藤原彰子の女房だった紫式部のライバルといわれている。(二人に面識はなかったという説がある)
伊周・隆家が没落していくなか、定子も亡くなり、清少納言は宮仕えを辞して夫と共に摂津へ行ったという。
その後の消息は不明だが、没落していったという逸話が複数残っている。
一方、京都・誓願寺で静かに亡くなったという話もある。
藤原斉信は一時期、清少納言に気があったともいわれているが、のちに冷めたようである
子孫はその後しばらく、橘氏として続いた。
![](https://i0.wp.com/saigotoshiin.com/wp-content/uploads/2024/03/IMG_5872-scaled.jpeg?fit=300%2C225&ssl=1)
安倍晴明
通称・安倍晴明
陰陽師として、花山天皇の命で天狗を封じたり、一条天皇の病を治したりと、平安中期に活躍した。
のちの陰陽道の基礎をつくった人物。
京都の晴明神社で、今も祀られている。(晴明神社の地には、かつて茶聖・千利休の邸宅があった)
子孫は、土御門と名乗り、現在も続いている。
![](https://i0.wp.com/saigotoshiin.com/wp-content/uploads/2024/03/安倍晴明-e1709724874226.jpeg?fit=300%2C199&ssl=1)
藤原実資
賢人右府と呼ばれた藤原道長の同僚で先輩にあたる人物。
右大臣として活躍し、常に真っ当な意見を述べ、賢人と称された。
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藤原実資
引用元Wikipediaより
小右記と呼ばれる日記を記し、現在では貴重な歴史資料となっている。
その日記の中に、藤原道長が娘の威子を後一条天皇に入内させた際に詠んだ、あの「望月の歌」が記されている。
この歌が現在まで伝えられているのは、実資の功績といえる。
藤原隆家をかわいがったという。
刀伊の入寇を撃退した隆家に、褒美を与えるべきか否かという議論が行われた中で、褒美を出すべきだと主張し、認められた。
男児がいなかったためか、年老いても女癖が悪かったという。
子孫については、千古という、ゆいいつの娘がいた。
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藤原忯子
花山天皇の女御。
藤原斉信の妹。
花山天皇から異常なまでの寵愛を受けたという。
もともと女癖の悪い花山天皇から無理を強いられたためか、子供を身ごもったまま亡くなった。
その後、花山天皇は政治への意欲を失い、出家を志すようになる。
直接の子孫はいないが、兄・斉信と、夫・花山天皇に、子孫がいる
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赤染衛門
藤原道長の正妻・源倫子や、その娘である藤原彰子につかえた女流歌人。
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赤染衛門
引用元Wikipediaより
紫式部から尊敬され、和泉式部と並ぶ当時一流の女流歌人だったという。
良妻賢母としても知られた人物。
ひ孫が産まれたことを祝う和歌を詠んだ後、消息不明。
栄花物語の作者ではないかといわれている。
赤染衛門の知性を引き継いだその「ひ孫」は、源頼朝・足利尊氏などの始祖となった伝説の名将・源義家に兵法を伝授したという。
子孫には、鎌倉殿の13人の一人である大江広元や、戦国時代一の智将・毛利元就がいる。
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源雅信
源倫子の父。
妻は藤原穆子。
藤原道長の義父にあたる。
宇多天皇の孫。
左大臣として、藤原兼家と権力争いをしたが、娘の倫子の婿に道長を迎えて、争いを避けた。
本来は、雅信は娘の倫子を天皇に入内させるつもりだったという。
しかし妻の穆子が、道長の将来性にかけて、倫子を道長に嫁がせてしまう。
その妻の予想はあたり、道長は権力を独占し、子孫はその道長と倫子の子供達を通じて、皇室と五摂家へつながり、現在も続いている。
また、宇多源氏雅信流の祖であるため、子孫は各地で無数に続いている。
幕末明治の英雄で、維新十傑にも数えられた松下村塾の塾生・前原一誠も、源雅信の子孫にあたる
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藤原穆子
源倫子の母。
源雅信の妻。
夫・雅信が、娘の倫子を天皇の后にしようとたくらんでいたところ、藤原道長が、倫子との結婚を申し出てきた。
これを雅信は断ろうとするものの、穆子はこれに賛成。
むしろ、天皇に嫁がせるには、天皇があまりに幼すぎて歳の差がありすぎることを主張し、道長の方が将来性があると主張。
勝手に娘を道長に嫁がせてしまったという。
その予想はあたり、道長は権力を極め、倫子の娘たちは3人が天皇の后となった。
子孫は、夫とのあいだに生まれた倫子以外の子を通じて、維新十傑のひとり前原一誠につながる。
また、道長の異母兄・道綱に嫁いだ娘を通じて、子孫は鎌倉幕府4代・5代将軍にもつながっている。
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藤原頼忠
一条朝の四納言のひとりである藤原公任の父。
関白太政大臣として君臨したものの、円融天皇に嫁がせて中宮となった娘・藤原遵子が皇子を産まなかったため、権力を握れなかった。
一方、円融天皇の女御である藤原詮子が皇子(のちの一条天皇)を産んだため、詮子の父・藤原兼家が権力を独占した。
寛和の変で、花山天皇が出家し、一条天皇が即位すると、藤原兼家が摂政に就任し、絶大な権力を得た。
頼忠は、関白を辞職し、太政大臣は続けたが、権力はなく、名ばかりの太政大臣だった。
子孫は、毛利につかえた益田氏や周布氏につながっている。
騎手の御神本訓史さんも益田氏なので、子孫の可能性がある。
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藤原義懐
花山天皇の叔父。
藤原兼家の甥にあたり、藤原道長はいとこにあたる。
花山天皇が即位すると、その叔父ということで引き立てられ、権力を握る。
しかし、後ろ盾と呼べるものがいない花山天皇の地位は不安定で、皇太子である一条天皇の1日も早い即位を望む一条天皇の祖父・藤原兼家は、罠を仕掛けた。
兼家は、息子の道兼と協力して、花山天皇を騙し、出家させてしまう。
花山天皇の出家を知った義懐も出家し、その後は仏道修行に明け暮れた。
孫娘が大江定経という人物に嫁いだという。
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藤原顕光
藤原道長のいとこ。
三条天皇の皇子である敦明親王の妻・延子は、藤原顕光の娘。
左大臣だったが、儀式で失態を連発し、無能な人物として、歴史にその名を刻んだ。
娘の元子が一条天皇の女御として入内し、懐妊するが、産気づくと、子供は生まれず、ただただ水が流れるだけだったという不思議な逸話がある。(栄花物語より)
娘の延子が三条天皇の息子・敦明親王に嫁ぐ。
三条天皇は、我が子を皇太子(次の天皇)とすることを条件に、道長の要求通り、位を道長の孫・後一条天皇にゆずり、崩御。
直後に敦明親王は、道長の圧力に負けて、皇太子を辞退。
すると道長は、敦明親王を取り込むため、娘の寛子を嫁がせる。
敦明親王は、寛子をむかえると、延子を捨ててしまう。
激怒した延子と藤原顕光は、立て続けに亡くなる。
その後、藤原道長の周囲で、奇妙な不幸が続いたという。
のちに藤原顕光は、悪霊左府と呼ばれるようになる。
とても心優しい人だったともいわれている。
子孫は、楽天の社長である三木谷浩史さん、徳川四天王のひとり本多忠勝、徳川家康の友・本多正信など。
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