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藤原頼忠の死因と最期をわかりやすく解説!子孫のゆくえとは

藤原頼忠の【死因】や【最後の様子】について、短くまとめると、以下のとおりです。

  1. 藤原頼忠の死因は、病死または老衰
  2. 西暦989年7月31日(永延3年6月26日)に亡くなった、享年66歳
  3. 死ぬ前に、寛和の変で権力を失い、形だけの太政大臣になった
  4. 辞世の句は不明
  5. 騎手の御神本訓史みかもとのりふみという子孫がいる。幕末に活躍した益田親施・周布政之助も子孫に当たる
  6. 死後、、藤原道長による権力の独占、という歴史的事件が起こった

この記事では、藤原頼忠の最期の様子について、ひと目で分かるようにまとめました。

藤原頼忠の最期と死因について知りたい方にとって、この記事は必ずお役に立つはずです。

これを読んで、藤原頼忠の最期についての疑問を、スッキリと解消していただければ幸いです。



専門サイト【最期と死因ドットコム】へようこそ。

どうぞ、ごゆっくりお過ごしくださいませ。

目次

藤原頼忠の【死因】と【最後の様子】

藤原頼忠の【死因】

【結論】藤原頼忠の死因は、病死または老衰

藤原頼忠は、失意のうちに亡くなったといわれています。

そのため、病死なのかもしれません。

藤原頼忠は、986年の寛和かんなの変で、完全にその権力を失ってしまいました。

寛和の変とは、藤原兼家の策略に騙され、花山天皇が出家・位をゆずってしまった事件です。

一条天皇の即位により、その祖父である藤原兼家とその一族は、権力を独占。

藤原頼忠は、形だけの太政大臣となってしまったのです。

藤原頼忠とその子孫である藤原北家小野宮流ふじわらほっけおののみやりゅうとその子孫は、それ以降、栄達することはなかったといいます。

藤原頼忠が【亡くなった日】と【享年】

【結論】西暦989年7月31日(永延3年6月26日)、享年66歳


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藤原頼忠【生涯年表】

藤原頼忠の生涯を、ザッと解説いたします。

西暦 出来事
920年 誕生
941年 従五位下に叙爵
942年 侍従に任官
947年 兄・敦敏が早世、藤原実頼の嫡男となる
948年 従五位上・右近衛少将に叙任
952年 正五位下
955年 従四位下・右近衛権中将
956年 権左中弁に転任
960年 従四位上・右大弁
963年 参議に任ぜられ公卿に列
968年 従三位・中納言に叙任
970年 藤原伊尹が摂政に就任
971年 正三位・右大臣に叙任
972年 藤原伊尹これただが急死、関白候補に挙げられる
973年 内覧宣下は藤原兼通が受ける
974年 藤原兼通に藤氏長者を譲る
976年 藤原兼通から一上に任じられる
977年 左大臣に昇進
977年 藤原兼通から関白職を譲られる
978年 娘・遵子のぶこを円融天皇の女御として入内させる
982年 遵子が中宮に立てられる(子供を授からず素腹すばらきさき揶揄やゆされた)
984年 花山天皇に譲位
986年 花山天皇を出家退位させ、一条天皇が即位(寛和の変)
986年 関白を辞職
989年 薨御。享年66
989年 正一位の贈位を受け、駿河国に封じられる

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藤原頼忠の【辞世の句】または【残した言葉】とその意味を解説

【結論】藤原頼忠の辞世の句は、不明です

藤原頼忠の辞世の句を調査致しましたが、見つかりませんでした。

藤原頼忠の【子孫】は現在も続いているのかを解説

【結論】藤原頼忠の子孫には、現在活躍する騎手・御神本訓史みかもとのりふみさんがいる。また、幕末に活躍した益田親施や周布政之助という人物も子孫にあたる

2023年現在も活躍する競馬の騎手・御神本訓史みかもとのりふみさんは、益田氏の末裔なので、この方も藤原頼忠の子孫に当たる方だと考えられます。

頼忠の子孫は、息子の公任を通じて、幕末に活躍した長州藩士の益田親施ますだちかのぶ周布政之助すふまさのすけという人がいます。

頼忠の子孫は、益田氏や周布氏などの子孫につながって、現在も続いています。

益田親施は、幕府の第一次長州征伐を止めるため、責任をとって切腹しています。

周布政之助は高杉晋作と協力して、長州藩士の暴走を止めようと奔走するも失敗。

周布政之助
引用元Wikipediaより

禁門の変(蛤御門の変)や第一時長州征伐を防げなかった責任を感じ、切腹しています。(切腹の地は現在、周布公園と呼ばれ顕彰碑が建立されている)

益田氏の子孫は男爵の爵位を与えられています。

その後、長州藩から東京へ移住しています。

藤原頼忠の子孫は、毛利家に仕えた武士となりました。

余談ですが、その毛利氏は、頼忠と同じ時代を生きた女流歌人・赤染衛門あかぞめえもんの子孫にあたります。

赤染衛門
引用元Wikipediaより

赤染衛門の死因と子孫については以下のリンク記事で詳しく解説しています

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藤原頼忠の【死後に起こった歴史的な出来事】とは?

【結論】藤原頼忠の死後、藤原道長による権力の独占、という事件が起こりました。

藤原頼忠の死後、寛和の変で権力を独占した藤原兼家の五男・藤原道長によって、権力が独占されます。

兼家は、長男・道隆へ関白の職をゆずって病死。

次に権力を握った道隆と道兼の兄弟も、病死してしまいます。

  • 藤原道隆の弟・道長
  • 藤原道隆の子・伊周これちか

この二人のあいだで権力闘争が起こるのです。

結果は、道長の勝利に終わりました。

伊周とその一家である「中関白家なかかんぱくけ」は没落。

道長の一家である「御堂関白家みどうかんぱくけ」は繁栄を極めました。

亡くなった藤原頼忠の子・藤原公任きんとうは、「一条朝いちじょうちょう四納言しなごん」のひとりとして、藤原道長と一条天皇の治世を補佐したのでした。

藤原公任
引用元Wikipediaより

藤原公任の死因と子孫については以下のリンク記事で詳しく解説しています

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まとめ

この記事をまとめますと、以下の通り

この記事を短く言うと

 

1,藤原頼忠の『死因』は?

死因は、病死または老衰

 

2,藤原頼忠が【亡くなった日時】は?

西暦989年7月31日(永延3年6月26日)に亡くなった、享年66歳

 

3,藤原頼忠の【最後の様子】とは?

最後の様子は、権力を失い、失意のうちに亡くなった

 

4,藤原頼忠の【最期の言葉】とは?

辞世の句または最後の言葉は、不明

 

5,藤原頼忠の【子孫】とは?

騎手の御神本訓史みかもとのりふみという子孫がいる。幕末に活躍した益田親施・周布政之助も子孫に当たる

 

6,藤原頼忠の【死後に起こった出来事】とは?

死後に、藤原道長による権力の独占、という事件が起こった

以上となります。

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ありがとうございました。

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