紫式部の父親・藤原為時の【死因】や【最後の様子】について、短くまとめると、以下のとおりです
- 藤原為時の死因は、不明
- 1029年頃に亡くなったと考えられている。享年80歳前後
- 死ぬ前に、藤原道長の子・頼通に、漢詩を送ったという
- 「起苦学寒夜、紅涙霑襟、除目後朝、蒼天在眼」という有名な漢詩を残した
- 平重衡の妻だった藤原輔子という子孫がいる
- 死後、後三条天皇の誕生、という歴史的事件が起こった
この記事では、藤原為時の最期の様子について、ひと目で分かるようにまとめました。
藤原為時の最期と死因について知りたい方にとって、この記事は必ずお役に立つはずです。
これを読んで、藤原為時の最期についての疑問を、スッキリと解消していただければ幸いです。
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どうぞ、ごゆっくりお過ごしくださいませ。
藤原為時の【死因】と【最後の様子】
藤原為時の【死因】
【結論】藤原為時の死因は、不明
あの紫式部の父・藤原為時の死因は、不明です。
なぜなら、藤原為時は1018年の記録を最後に、消息が不明だからです。
おそらく1029年頃に亡くなったのだろうといわれています。
1029年頃、為時は80歳前後の年齢であろうと思われます。
その年齢ならば、老衰で亡くなっていてもおかしくありません。
病死の可能性もありますし、事故死または誰かに命を奪われた可能性も否定はできません。
しかし、老衰または病死したと考えるのが、一番自然なのではないでしょうか。
藤原為時が【亡くなった日】と【享年】
【結論】西暦1029年の頃(長元2年の頃)、享年不明(約80歳と推定)
藤原為時の【生涯年表】
藤原為時の生涯を、ザッと解説いたします。
西暦 | 出来事 |
---|---|
945年? | 藤原雅正の三男として誕生 |
977年 | 東宮・師貞親王の御読書始において副侍読を務める |
984年 | 花山天皇即位、式部丞・六位蔵人に任じられる |
986年 | 花山天皇退位、為時も官職を辞任 |
996年 | 一条天皇から従五位下・越前守に叙任され、越前国へ下向 |
1009年 | 正五位下・左少弁に叙任 |
1011年 | 越後守に任命(このとき同行させた息子の藤原惟規が越後で亡くなった) |
1014年 | 越後守を辞任、帰京(娘の紫式部が亡くなったため、任期途中で帰京したという説もある) |
1016年 | 三井寺にて出家 |
1018年 | 藤原道長の子である藤原頼通の邸宅にある屏風の料に詩を献上。その後、消息不明 |
藤原為時の【残した言葉】とその意味を解説
【結論】藤原為時のが残した言葉は
「起苦学寒夜、紅涙霑襟、除目後朝、蒼天在眼」
です
藤原為時は、一条天皇に対して、このような漢詩をおくったといいます。
これを現代語訳すると、以下の通りです。
「寒く苦しい夜でも、それに耐えて学問を怠りませんでした。
しかしそれでも希望していた役職に就くことができず、涙をぬぐった袖が、紅い涙で染まっております。
任官されることのなかった翌日の朝は、青く澄みわたる空が、目に染みてしまいます。」
これを聞いた一条天皇は、罪悪感から、強いショックを受けたといいます。
1011年、一条天皇は、すでに担当者が決まっていた越前守に、為時を任命します。
越前(福井県東部)は、宋の商人である朱仁聡という人物が訪れていた地だったのです。
そのため、漢文・漢詩に優れた為時を任命し、交渉に当たらせようとしたと考えられています。
ちなみに、為時の前に越前守に任命されていた源国盛は、越前守を解任されたショックで、その後亡くなったといいます。
そんな一条天皇も、この為時の騒動がおこった1011年に、亡くなっています。
藤原為時の【子孫】は、どうなったのかを解説
【結論】藤原為時の子孫には、平安時代の藤原輔子という人物がいる
藤原為時の子孫には、平家物語にも登場する平安時代末期の女性・藤原輔子という人物がいます。
輔子の父は、大納言・藤原邦綱という人物です。
藤原邦綱も、藤原為時の子孫なわけですが、邦綱は、あの平清盛に信頼された人物だったのです。
その関係で、藤原邦綱は娘の藤原輔子を、平清盛の五男である平重衡に嫁がせたのでした。
平重衡といえば、南都の僧兵たちとの戦で、東大寺の大仏殿を焼いた人物です。
激怒した南都の僧兵は、重衡を激しく憎みます。
源義経の奇襲で有名な「一ノ谷の戦い」で、平重衡は捕えられたのでした。
南都の僧兵たちは、重衡の引き渡しを、源頼朝に要求。
源頼朝も、これに応えて重衡を南都の僧兵に引き渡します。
その後、1185年の壇ノ浦の戦いで、平家は滅亡。
安徳天皇も入水して亡くなりました。
しかし安徳天皇の母・建礼門院と、藤原輔子は、海の中から救い出されて、生き延びました。
重衡は処刑される直前、壇ノ浦を生き延びた妻・藤原輔子に会いたいと僧兵に頼み、重衡と輔子は再会したのでした。
重衡は、自分の髪を食いちぎって輔子に渡したといいます。
「契りがあれば、来世でも、またあえるでしょう」
そう言い残した重衡は立ち去り、輔子は号泣。
重衡は斬首されて亡くなります。
輔子は出家して建礼門院とともに、夫の菩提を弔う日々をおくったといいます。
余談かもしれませんが、壇ノ浦の戦いで、入水して亡くなった平家一門。
その中にも、藤原為時の子孫がいました。
輔子は、藤原為時の息子・藤原惟規の子孫です。
それに対して、壇ノ浦の戦いで入水して亡くなった三人
- 平資盛
- 平有盛
- 平行盛
この三名は、藤原為時の娘・紫式部の子孫にあたります。
これは余談かもしれませんが、紫式部の子孫である平資盛を、織田信長は自分の先祖だと主張していました。
くわしくは、以下のリンク記事で解説しています。
藤原為時の【死後に起こった歴史的な出来事】とは?
【結論】藤原為時の死後、後三条天皇の誕生、という事件が起こりました。
藤原為時が亡くなったとされる1029年から、五年後の1034年、後三条天皇が誕生しています。
この後三条天皇が、藤原氏の栄華を終わらせ、院政という新しい政治体制が誕生したきっかけの天皇なのです。
後三条天皇の父は、後朱雀天皇です。
後朱雀天皇は、藤原道長の孫にあたる人物です。
この後朱雀天皇の母親は、藤原道長の娘である藤原彰子なのです。
藤原道長は、自分の娘を天皇に嫁がせて、生まれた男児を天皇に即位させ、その外戚つまり摂政として政治を思うままに操るという方法で、権力を握った人物でした。
後三条天皇は、確かに藤原道長のひ孫にあたる人物でした。
しかし、後三条天皇は藤原氏を外戚つまり後ろ盾にしていない天皇だったのです。
そのため後三条天皇は、藤原氏が摂政・関白となって政治を行うようなことをせず、自分で政治を行う親政を行ったのです。
これにより、藤原氏の権力は弱まり、荘園整理令によって経済基盤も打撃を受けたのでした。
後三条天皇は、息子である白河法皇に位をゆずり、自分は上皇となって政治を思うままに支配しようとしたといいます。
これが院政のはじまりなのですが、後三条天皇はまもなく崩御してしまいました。
あとを継いだ白河法皇は、院政によって絶大な権力を握り、藤原氏の栄華はここに完全に終わったのでした。
まとめ
この記事をまとめますと、以下の通り
この記事を短く言うと
1,藤原為時の『死因』は?
死因は、不明
2,藤原為時が【亡くなった日時】は?
西暦1029年頃、享年80歳前後
3,藤原為時の【最後の様子】とは?
最後の様子は、不明。
4,藤原為時の【残した漢詩】とは?
「起苦学寒夜、紅涙霑襟、除目後朝、蒼天在眼」という有名な漢詩を残した
5,藤原為時の【子孫】とは?
子孫は、藤原輔子、平資盛・有盛・行盛などがいる
6,藤原為時の【死後に起こった出来事】とは?
死後に、後三条天皇の誕生、という事件が起こった
以上となります。
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